第4話

 中学校入学前の春休み、俺は常に勉強をして過ごしていた。目標は、新入生テストで一位を取ること。もう二度と劣等感を味わいたくないという焦燥感から、人生で初めて努力していた。傍から見れば努力家で優秀な子供に見えるかもしれない。しかし、俺は彼を幸せだとは思わなかった。


 入学式を見ると、一学年の人数は小学校の三倍近い。この中で一番にならないと劣等感を感じてしまうとは、厳しい縛りだ。入学式の日は、俺は一度も口を開くことなく帰宅し、翌日の新入生テスト対策の仕上げに取り掛かった。

 テスト当日、俺は一度もペンを止めることなくテストを解き終える。顔にも自信が現れているように見えた。

 一週間後、テスト結果が順位と共に返却される。合計点は、四〇〇点満点中の、三九二点。得点率九十八パーセントの超好成績。しかし、画面に映る俺は、そんな所を見ていない。俺が見ていたのは、『学年二位/クラス二位』の文字だった。


「俺が……二位?」


 声が出てしまっていた。俺は学年でも、クラスでも一位を取る事が出来なかったことのショックで、呆然と立ち尽くしている。


「君、二位だったの?」


 声をかけてきたのは、隣の席の女子だった。彼女は、優越感に浸っている時の俺と全く同じ笑みを浮かべている。


「ごめんね、一位貰っちゃった」


 俺は、今にも泣きそうだった。


「私、日高ひだかあい。君は?」


「……彗。」


 俺は押し寄せる悔しさのせいで、声を出すことが出来ていない。辛うじて発音できたのは、下の名前だけだった。


「彗君か。これからよろしくね」


 この時から、日高に勝つことが、一番を取る事と同義になった。


 ついに始まった中学校生活。体力テストの五十メートル走ではそこそこの好タイムで陸上部に勧誘された。この時陸上部に入っていれば、一番に執着する性質の俺はいい成績が出せたかもしれない。しかし、俺は「勉強があるから」ときっぱりと断っていた。

 放課後は塾か自宅で勉強。中学校で新しく追加された科目の英語も、すんなりと理解することが出来た。


「次は絶対一位に……」


 毎日机に向かってそう言っている。結果を言ってしまえば、俺は一度も日高に勝つことはないのだが。


 帰宅部には恩恵のないテスト週間をいつも通り勉強漬けで過ごし、一学期の中間テストに挑む。今回も新入生テストと同じようにすらすらと解き終え、綿密な見直しをして、まさに万全といった顔つきだった。

 しかし、結果は『学年二位/クラス二位』である。そしてまた日高に


「ごめんね、また一位貰っちゃった。彗君は平均何点? 九十八点か~、惜しかったね」


 そう言って笑われる。もちろん俺は平均得点率九十九パーセント超の化け物に対して、劣等感を感じていた。

「日高に勝つ……日高に勝つ……」

 そう言い続けて一学期末、二位。

「日高に勝つ……」

 二学期中間&期末、二位。

「日高に……」

と時は経ち、遂に一度も勝つことなく三学期の期末テストになる。俺は、一年生の最後に日高を下して、初の『学年一位/クラス一位』を取ってやると意気込んでいた。しかし、結果はいつも通りの二位。


「やった、最後も勝てた。よかった~」


 日高は露骨に悔しがる俺を見ながらそう言って来る。しかし、そこにいつもの優越感に歪んだ笑顔は無かった。


「なんで彗君は、そんなに一位になりたがるの?」


 突然の日高の問いかけに、俺は少し悩んでから、「中学受験で落ちたのが悔しくて、それで」と正直に返した。

 すると、日高はハッとしたような顔をして、口を開く。


「私と同じ……」


 日高から出た言葉に、画面の中の俺は驚いていた。


「俺が日高と同じ? そんなわけ無いだろ。日高が悔しがる所なんて、想像できないよ」


「いやね、私も中学受験で、試験中に頭真っ白になっちゃって。模試とかの結果だったら、ほぼ百パーセント受かるって言われてたんだけど。それで、友達にも家族にも塾の先生にも『本番に弱いなら意味無い』って言われちゃって」


 日高の飛び抜けた学力には、そういった背景があった。小学生からトップクラスだった彼女に、中学校から始めた程度の俺の努力では、勝てないのは当然だ。


「滑り止めの試験も受けるの嫌になって、塾の知り合いとか誰も居ないこの中学校に来たんだよね。簡単に一位取れそうだったし。」


 当時は気づけなかったが、彼女も優越感と劣等感に支配された人間だったんだなと、今になって思う。


「簡単に一位取れそうって、だいぶ性格悪いな」


「ふふっ、そうだね」


 そう言って日高が笑うと、俺もつられて笑っていた。俺が優越感以外の感情で笑うのは、実に八年ぶりのことだった。


「まあそれでも、彗君にはかなりヒヤヒヤさせられたよ。私に食いついてくる人なんていると思わなかったし。結局一回も負けなかったけど」


「来年は絶対一位取ってやるからな」


「悪いけど、私は負けないよ。君は来年、私が居ないクラスの一位で満足していてくれたまえ」


 なかなか言うね、と自然と笑みが零れる。


 この時、俺は劣等感の鎖から解き放たれていた。

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