第2話
俺が最初に競争の渦に巻き込まれたのは、いつの事だったろうか。
少し気になったそれを知るために、リモコンの『再生』ボタンを押してみる。流れ始めた映像には、病院のベットで産まれたての我が子を抱く母親が映し出されていた。
「この子の名前は『
俺の名前は産まれる前に決めていたらしい。彗星の『彗』か。彗星は、周期的に姿を現すものと、一回姿を見せると二度と星空に帰って来ることが無いものとがある。俺はどうやら後者のようだ。社会という一人ひとりが輝いている星空、そこからはみ出してしまって、二度と帰って来ることは無い彗星だった。
そんなことを考えながら、リモコンで最初の数年をスキップして、初めて同年代の他人と関わりを持つ幼稚園の頃から観る事にした。当時の記憶は全く残っていない。
幼稚園の自分の様子を見ると、あまり活発ではない子供だったということがわかった。身体が大きいいじめっ子の一人にターゲットにされ、遊び道具をよく強奪されていたようだ。しかし、当時の俺は特に気にする様子もなく、やり返そうともしなかった。遊び道具が無くなると、その時はお気に入りの絵本を持ってきて、それを読んで無邪気に笑っていた。
この頃はまだ他人と比較することや、能力の優劣という概念そのものを意識した事が無かったらしい。いじめっ子が持っていた『優越感』という感情を、俺は持っていなかった。
まだ純粋で、優越感に酔うこともなければ、劣等感に沈むことも無い。お気に入りの絵本を一人で読むことが幸せ。俺の人生で最も幸せな時期かもしれない。
そんなことを考えながら幼稚園生活を倍速で流し見していると、気になる単語が出てきた。それは、『運動会』。恐らく俺が人生で初めて『厳格なルールに乗っ取った競争』に参加した出来事だ。幼稚園のうちから能力の優劣をはっきり意識させるような行事をするのはいかがなものかと思うが、それも競争社会に必要な洗礼なのかもしれない。
運動会の練習風景を眺めていると、メインの競技である徒競走の練習がはじまった。どうやら、俺は運悪く例のいじめっ子の隣のレーンのようだ。先生の見ていないところで足を引っ掛けられたりしている。
それでも俺はやり返そうとも、本気で走ろうともしない。傍から見ると気弱で可哀想な子供に見えるのだが、彼にとってはそんなことはどうでもよかった。ただ毎日家族と共に過ごし、お気に入りの本を読むことが最高の幸せで、ちょっとイタズラされる程度の不快さは気にならない。俺は彼を不幸だとは思わなかった。
練習では一切全力を出さないまま、本番を迎える。運動会当日は各家族が、我が子の一生懸命な姿を、あるいは我が子の優位性を確かめに、幼稚園にやって来ていた。
あのいじめっ子の親はいかにも体育会系といった感じで、我が子に激励を送っていた。恐らく彼に『優越感』を教えたのもあの親だろう。
「一位を取ってこい!」
そう言われていた。父親には悪気は無く、ただ競争へのコンプレックスから、息子にそう言ってしまうのだろう。なんて可哀想な子供だろうか。
一方、俺は友達もいないし、家族が好きだったので、出番のない時はずっと観客席の親の元に居た。
「お友達の所に行けばいいのよ?」
母はそう言っていたが、俺は首を横に振るばかりで、座り込んでいる。こうして見ると親にはかなり心配をかけていたな、と思う。当の本人はそんな心配をよそに、家族との時間を楽しんでいた。
「徒競走に出る子は集まってくださーい」
一通りの競技が終わり、遂に来た徒競走。俺は心底嫌そうな顔をして立ち上がり、父と母に「いってきます」と言った。父は息子の沈んだ気持ちを察したらしく、手を握って力強く、
「一生懸命腕を振って、『全力』で走ってこい!父さんも母さんも『全力』で応援するからな」
そう言い放った。
『全力』
父がその言葉を強調した意図は解らない。しかし、その言葉を聞いて、それまで一度も全力を出したことのなかった彼の目に、力がみなぎった。愛する家族の応援に応えたいという強い意志を感じさせる、真っ直ぐで、澄んだ瞳。
俺は、こんな顔をしたことがあったのか。優越感とか劣等感とか、そんなしがらみの無い状態での、美しい覚悟。いったい彼の身に何が起これば、今の俺のように、競争に醜く執着するようになるのだろうか。
純粋な頃とのギャップに驚いているうちに、徒競走の準備は整っていた。
「位置について……よーい、ドン!」
一斉にスタートを切る。先頭に飛び出したのは、例のいじめっ子……ではなかった。
先頭に居たのは、生まれて初めての全力疾走をしている俺だった。
普段は競争から遠ざかる彼が、一位を走っている。周りからは不思議に思われただろう。しかし、俺にとっての最優先事項は『全力を出し切る』こと。順位やプライドといった雑念が入り込む隙間の全くない集中力を発揮していた。
全長30メートル程度のコースの、残り10メートル地点。俺の隣レーンの例のいじめっ子は、何とか追いつこうと粘っているが、追い抜かす気配はない。それでも彼には、彼の父親の『一位を取れ』という呪いが付きまとう。最後の賭けで、彼は練習の時のように足を引っ掛けようとしたが、速度を上げた俺の足には届くことは無く、そのままバランスを崩して転んだ。
「ゴール!一着は○組の
一位は俺だった。人生で一度も到達出来なかったと思い込んでいた一番を、俺は幼稚園の、それもまだ競争を意識する前から取っていたんだ。
全力を出し切った彼は、全力疾走の爽快感、両親の期待に応えられたという満足感、そして、『一番』になれたことによる、少しの優越感。それらの今まで感じたことの無い感情の波に、ただ呆然と突っ立っている。
こうして、俺は理想的な形で競争を知った。厳格なルールに乗っ取り、全力を出し切って、勝利する。その心地良さ、達成感が競争の正当なご褒美であり、優越感なんてものは、ひとつまみのスパイスに過ぎない。そのことを俺は本能的に理解したはずだ。
しかし、俺は最終的に競争へのコンプレックスから十七歳で自殺する。一体どこで間違った競争への価値観を持ってしまったのか。
徒競走の種目全体が終わり、両親の元に戻ると、諸手を挙げて喜んでくれた。俺にとって最高に幸せな時間だ。
今夜はお祝いにお寿司を食べに行こうか、そんな話をしている途中だった。
「何を馬鹿なことしとるんだお前は!」
とてつもなく大きな怒声が聞こえて来た。声の主は、例のいじめっ子の父親だった。俺はびっくりして、声がした方向に振り返ると、そこには座り込んで泣きじゃくるいじめっ子の彼が映っていた。
おそらく足を引っ掛けようとした事がバレたのだろう。一位を取れなかっただけなら、ここまで激昂する事は無かったはずだ。
「
そう言われて、泣きながら彼が歩いてきた。そして、沢山の園児、保護者に見られながら、謝罪する。
涙と、鼻水と、悔しさと、恥ずかしさとでぐしゃぐしゃになった顔で、彼は俺に許しを乞う。
「ごめんなさい。もう二度としません……」
今まで散々嫌がらせをしてきた相手の、この上ない無様な姿を見て
俺は
『笑っていた』
全力を出したことによる達成感と爽快感で出来た、繊細で美味しい勝利のスープ。そこに『優越感』という、麻薬とも呼べるようなスパイスが、事故で大量に入ってしまった。スープの味をかき消してしまうほどに。
幼く判断力に乏しい俺は、その麻薬の大量に混ざったスープを飲み干してしまった。
『優越感』の麻薬には、『劣等感』という副作用があることを、俺はまだ知らなかった。
「最初からだったんだな……」
俺は、初めて競争に触れたその日から、競争への歪んだ認識を植え付けられていた。
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