第5話 青ざめた睡蓮

 入内してから一年が経とうとしていた。



 帝の前では尚侍の君


 光る君の前では朧月夜の君



 時折、私という女が二つに千切れて別れているような錯覚に陥る。




 帝は本当にお優しいひと。


 私が少しでも疲れた顔でいるのに気づくと、ただ抱きしめて眠ってくださる。



 そして私も幸せな気持ちで眠りにつく。



 私は帝のことを大切に思うようになってきていた。



 帝は安らぎと無償の愛を注いでくれる。



 だからこそ光る君が忍んで来ることを拒まなければと尚侍の君としての私は思う。




 光る君との逢瀬を心待ちにして、快楽に溺れるのは朧月夜の君である私。




 結局、朧月夜の君としての自分を捨てなければと思いながら光る君との逢瀬を続けてしまっていた。





 日輪からの暖かく柔らかな光が、だんだんと力強い日差しに変わりはじめた。


 庭にある小さな池の睡蓮がもう少しで花開こうとしている。





 私が帝の寵愛を受けることをなにより喜んでいるのはやはり父上だった。



 そして二言目には、「御子みこはまだか?」



 それを聞く度、つい鼻で笑ってしまう。




 単に孫がほしいだけではないのでしょう?



 ぎらぎらした目で様子を見にこないで。


 日頃から父上が権力を欲しいままにしたいのがあんまり見え見えだから、私だって帝に聞くまで政略に使われたと勘違いしていたのよ、全く──!




 本当はまくし立てたくなるのを我慢して、鼻で笑うだけにしているのだから私も少しは大人になったのかもしれない。





 桐壺院がお隠れあそばしてから半年。



 内裏での権力争いにもかなり変化があるらしい。



 まつりごとのことは私にはよくわからないけれど右大臣方と左大臣方の対立が激しいとか…



 父上が急に私の様子をそわそわと気にしだしたのもきっとそのためと思われた。





 ……はぁ……


 自然と深いため息が出る。



 今夜は満月…。




 帝は今日は物忌みにあたっているからお見えにならない。



 慌てることなく光る君との逢瀬を楽しむことが出来る。



 帝のことを思うと喜んでいてはいけないと思う。


 その一方で光る君の与えてくれる快楽を舌なめずりして待ち望む私もいる。




 いやらしく、浅ましい私

「朧月夜の君」




 今宵は少し曇っていて、最初に光る君と出会った時のような朧月夜になった。




 優しい朧月の月光を全身に浴びる。



 薄い絹の衣を一枚だけ纏い、庭を眺めていた。




「朧月夜ほど素晴らしいものはこの世にないと、今も思っているの───……?」




 庭の隅から、朗々と私の体に声を響かせて光る君が現れた。




 流れるように私を抱きしめる手が、首筋から腰までするりと身体を撫でおろすだけで、与えられる悦楽の予感に吐息が漏れそうになる。




「今は……三番目に素晴らしいと思うわ。」



「私は何番目かな……?」



「おしえない。」



 求められ欲するままに身体を重ね、浮かされては沈みお互いの熱さをぶつけ合った。


 繋がっていた余韻に甘く吐息を吐きながら、はだけた衣を直そうと立ち上がった。



 その時―――



 雲が晴れて月明かりが影をくっきりと映し出した。



 逢瀬の余韻に浸っていた私の体は一気にその熱を失い凍りついた。


 ―――人影が見えた



 廊下に誰かいる。



 光る君は私の強張った表情に気づいて振り返った。



 廊下の人影は怪訝そうに首を傾げながら近づいてくる。




「六の君……。誰かそこにいるのか。」




 ―――父上!?



 息をのむ私の傍らで光る君は、すっと立ち上がり自分と私の衣を驚くほど素早く直した。




 私……どうしたら……



 不安を隠せずにいると、薄着の私の肩に衣を一枚多く掛けてくれながら、光る君が口を開いた。




「そばにいるのは私ですよ。右大臣。」



 光る君の声を聞いて驚いた父上は部屋に転がる勢いで入ってきた。



「……な、なぜこんなところに……っ!

 ご自分のなさっていることが解っておいでか!!」



 見る見る父上の顔に血管が浮き出た。



「美しい姫に歌を詠んでいただけですよ……。もっとも、下心がないと言えば嘘になる。」




 わざと挑発するように、くすっと笑いながら光る君は父上に向かって歩く。




「ほら、権力にばかり目がいっていては大切な姫君を攫われてしまいますよ。」



 睨むような視線を向けられ父上が怯んだ隙に、光る君はその場を去った。



 息を吹き返したように父上の罵声が響く。


「忌々しいっ!女たらしがっ!!

 六の君!本当に何もされていないのだな!?」




「ええ……大丈夫。」



 わざと憎まれ役になってくれたのだわ……光る君……



「風情ある歌を沢山詠んで頂いたの。

 光る君は下心……とか話していたけど口説くような意味のものはなかったわ。」




「この場にいること事態が、大罪なのだぞ!!帝の寵愛を受けている姫のもとに訪れるなど……っ!」




 その通りだからなにも言えない。

 父上は罵倒しながらもまた別のことを思いついたようにぶつぶつと呟き出した。



「まったくたちの悪い男だ……!…まてよ……いや、しかしこれはまたとない好機に……。」





「父上、特にご用がないのなら私そろそろ休みたいの。」



「おお……そうか、とんだ客がきたせいで 疲れたであろう。ゆっくりと体を休めなさい。また後日様子を見によるとしよう。」



「ええ……おやすみなさい。」





 父上の影が廊下から見えなくなるのを確認して、深く溜め息をついた。





 指先がつめたい。

 引いた血の気がまだ体の隙まで戻ってこないからだ。




 一番知られたくない父上に危うく逢瀬の最中を見つかるところだった…



 見つかりはしなかったけれど、光る君は去り際に父上をしっかりと挑発していってしまったわ―――



 父上の手でなんらかの窮地に追い込まれる可能性は十分ある。




 あぁ……何故こうなる前に拒めなかったの!



 自分への怒りのやり場もなく、光る君が掛けてくれた衣を掴んで几帳に投げつけた。



 今の私にできることは何……?



 文机にいつも置いてある螺鈿の文箱を手に取る。



 もう一刻の猶予もないわ……



 ―――朧月夜の君を消す―――



 それしかない。




 しまい込んであった火鉢を出して火をつける。



 文箱の中から、ずっと大切に持ち続けていた扇と匂い袋を取り出す。



 入内してからずっとこの二つが私の心を慰める宝物だった。


 そっと、火にくべる。



 燃える炎がふわりと薫り立つ。



 激しく求めあった逢瀬の日々も、朧月夜の君という名も、なかったのよ。はじめから。


 証は今、灰になって消えたのだから―――



 涙がこぼれて落ちた。





 朝日が眩しく照らす頃、庭の池の睡蓮が花開いた。冴え冴えとした青さで―――

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