第3話 花忍

 夢のような夜はまばゆい朝の光に追い立てられ、あっという間に過ぎてしまった。




 宴を終えてからは、準備万端整ったとばかりに父上は入内の準備を十分に済ませてしまった。



 私は光る君を思う気持ちを自覚しながらも、もう入内が止めようもない現実となって迫って来ていることを知って歯噛みした。





 入内があと半月に迫ったある日、かわいらしい女の子が使いにやってきた。



 手にしていたのは鮮やかな藤の花房の添えられた、匂い袋……


 藤の花房に隠れるように薄桃色の紙が結んであった。


『今度はあなたをすぐにみつけられる』



 ―――光る君……!



 浮き立つ心を抑えられなかった。



 私が入内しても、逢いにきてくれるつもりなの……!?




 匂い袋には光る君の 愛用の香が入っていた。


 匂い袋を手にすると私を抱きしめる手、光る君の息づかいまで鮮明に思い出せる気がした。




 ……あのひとがずっと私を求めてくれる……

 どこにいても―――


 誰のものになっても――――!



 文は添えずに花だけを返事に送ることにした。



 花忍はなしのぶ

『あなたを待つ』

 という意味を、あのひとなら気づいてくれる……







 桜も葉桜にかわった頃―――

 私は入内した。


 私が入内するのと同じ頃、帝は東宮に位を譲って桐壺院となられた。


 東宮は朱雀帝と名をかえられた。



 帝として国の頂点に立ったことになる。



 入内してから私は尚待ないしの君と呼ばれるようになった。


 元より生娘でなかった私は清い体で入内する女御にょうごにはなれず、尚侍ないしのすけとしての入内であったこと、とはいえ父である右大臣に気を遣っての名であると思われた。



 帝と枕を共にする時初めて御簾越しでない顔を見ることができた。


 背の高い優しげな目元の人だった。





 帝は私に向かって言った。


「ばたばたと入内の日になってしまって疲れているでしょう。構わないからゆっくりとお休みなさい。」





 それは───隣りでただ眠っていろということ……?



 戸惑いを隠せない私に帝はにっこり微笑んで布団に入り、私に背を向けた。



 どうなっているの……?

 入内するからには契って……つまりは男女の関係を持つものだと覚悟していたのに……。




 この方のお考えがわからないわ……



 結局私も帝に背を向けて朝まで眠った。



 帝の噂はあちこちで聞いていた。


 温厚で、いつも笑顔で、家臣の強気な進言もかわしてしまうとか。




 光る君とはまったく違った、人あたりの良い穏やかな人柄。目立つ分光る君には敵も多い。



 似ているのは後ろ姿だけ……か。



 私はどこかで光る君と帝を比べて、似ているところを探してしまっていた。



 私が入内してからはまだ一度も光る君は現れてない。



 今の私は籠の鳥だと思う。



 女として必要とされているようにも思えないし。


 入内したとは言っても、帝の隣りで眠ったことがあるだけ。

 肌を合わせているわけではないんだもの……。




 与えられた部屋で退屈な時間をどうやり過ごすかを考える毎日。



 宴がある時は雅楽や舞いを見て楽しんでいられるけれど、そうでなければ庭に出て花を愛でるか自分の持っている琴をつま弾くくらい ……。





 うんざりしながらいつも見るのは螺鈿の文箱。


 光る君の扇と匂い袋が一緒に入れてある。


 本当に来てくれるのかしら……




「次に逢う時には少しばかりの嫌みじゃ済まないわよっ……。」


 文箱につぶやいて指ではじいた。




 その時さらさらと衣擦れの音がして私のお付きの女房がやってきた。



「尚侍の君様、帝が今晩お渡りになるとのことにございます。お支度を。」




「――!……わかったわ。」




 ―――皮肉なものね、待ち人からの便りは何もないというのに……。


 去りかけた女房が思い出したように言った。


「そういえば、部屋の外にこんなものが……。」



 差し出されたのは美しく咲いた女郎花おみなえしが小さな水盆に浮かんだものだった。





 心臓が大きく跳ねた。



「水盆ごと置いてありましたけれど、どういたしましょう……尚侍の君さま?」



「……っ。えぇ、何かしらね……?分からないけど、綺麗だから部屋に置いてくれる?」




 さらさらと女房の衣擦れが遠ざかったのを確かめて水盆に近づいた。




 ――女郎花の花言葉は、「約束を守る」。黒い小さな水盆の底には満月があしらってあった。


 満月の日に約束を守るということ……



 満月は―――今夜


 ――帝が今晩お渡りになる……――


 どうしたらいいの……

 待ちに待った光る君との逢瀬の日が、帝のお渡りと重なるなんて―――!!






 私は少し早めの夕餉をとり、湯浴みをした。

 髪を女房らに整えられながら考える。



 どうしたら光る君との逢瀬が叶えられるかしら……?



 寝所に入ったらもう朝まで出ては来られない。




「では尚侍の君さま、帝がお見えになりましたらお迎えにあがります。」




 すっかり支度ができたところで女房たちは部屋を去った。



 御簾を絡げて夕闇に浮かぶ満月をひとり見上げた。


 雲が晴れてくっきりとした月の光が淡い影を作る。




「このまま逢えないの……?光る君……」




 声に出して呟いてしまった。



「来るよ。何度でも。」



 庭の紫陽花のあたりから声が響いた。


 風に乗って芳しい香りが漂ってきた。



 ――─私を狂わせる香り。



「あなたがそんな風に呼んでくれるのなら……。」



 突然現れた光る君は流れるような動きで私を抱きしめた。




 言いたいことは山ほどあった。


 どうやって此処へ?とか、期待を持たせておきながら今までなしのつぶてだったことの文句も、これから帝のもとに行かなければいけないことも……

 けれどこぼれたのは涙が一粒。




「お願い……私を今はあなたのものに……っ……」



 ―――壊れるほどに強く――


 心からそう願って、光る君の唇に自分の唇を重ねた。



 光る君は私を抱き上げそっと御簾の中に下ろした。


 絡げてあった御簾が軽い音を立てて落ちる。


 光る君の瞳に以前の熱っぽさとは違う赤い炎が映った気がした。


 荒々しくかき抱かれることに心を震わせながらその激しさの中に身をまかせた。




 想いが弾けるままに重なりあったひと時のあと

 光る君は布で自分と私の濡れに濡れた身体を丁寧に拭き取り、乱れた衣を直してくれた。



 丹念に櫛で髪をとかしてまでくれて、私はすっかり先ほどの甘い一時を過ごす前の姿に戻った。




 けれど身体はまだ激しい情事の余韻から覚め切れずにいた。


 鏡を覗くと頬がほんのりと色づいているのが分かる。




 いつ女房たちが迎えに来るかもしれないわ……。




 光る君も分かっている様子で、するりと几帳の後ろに隠れて隙間から私の手を握ってくれた。


 あたたかい手……


「兄上……帝は、あなたに優しい……?」



 几帳越しに聞かれて私は精一杯明るく答えた。



「ええ、とても。大切にしてくださるわ。」


 大切にされ過ぎてもの足りないくらい。――とは言えないわよ……ね。




 私はもう光る君と逢うことを望んではいけない……


 父上に知られでもしたらどんな窮地に立たされるか分からない。



 今日のように上手くいくとは限らないもの。




「光る君。私、もう大丈夫よ。おかげで十分楽しんだわ!

 あとはお優しい帝の側でゆったりと過ごすの。だから……もう……」



 ――─もう、来てはだめ……。


 最後まで言えずに唇をかんだ。



 浮かんできてしまう涙を必死にこらえていたから。



 光る君は握っていた私の手にそっと唇づけして几帳越しに囁いた。



「……来るよ。あなたに逢いたいから。」




 さらさらと衣擦れの音がして女房たちがやってきた。



「お迎えにあがりました。尚侍の君様、帝のお見えにございます。」



「っ……ええ──今行くわ。」



 とっさに几帳に背を向けて隙間から繋いでいた手をほどく。


 几帳の後ろで微かに私にだけ聞こえる声で囁くのが聞こえた。





『また満月の夜に』





 立ち上がり、女房たちに取り巻かれながら寝所に向かう私の手のひらには、囁いた瞬間に光る君が握らせてくれた女郎花が一輪あった。




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