第2話 木苺の花
胸の内に棘が刺さったようなちくちくとした痛みが消えずにいた。
翌日父上に
「東宮のもとに上がる姫君が、独りきりで古寺で過ごすなど何事だっ!!」
と怒鳴られた時には少しも悪びれる気持ちは起きなかったのに。
光る君は私が何者なのかは知らない……。
光る君からすれば政敵とも言える右大臣の娘だなど、きっと思いもしないだろうに
いくら私が嫌がっていても、入内しようとしている東宮は
光る君の兄君
知っていたら光る君は私を求めたりしなかったかもしれない。
あの時……
光る君の唇が近づいた瞬間に本当は
言うべきだったのかもしれない。
けれど私の唇からこぼれ落ちた言葉は光る君を受け入れるための条件だった。
あの日からもうふた月が経っていた。
夜具に寝そべり、溜め息混じりに寝返りを打つ。
文机が目に入った。
あの光る君の扇は、蝶の螺鈿細工のほどこされた文箱にしまってある。
御簾越しに眺める今夜の月は消えそうに細い───
螺鈿の文箱を開けて扇を取り出すとまだ香が微かに薫る。
甘い痺れが身体の中を昇ってくる感覚を思い出してしまう。
これは恋とは違うと思う……
身を委ねてみたかった。
委ねて良かったとも思う。
何も考えられないほどの快楽を、あのひとは私にくれた────でも
私の素姓を知って尚、私を求めてくれることなどない。
きっと……
罪深いことだと分かっているのにあの甘美な一時をまた味わいたいとどこかで思ってしまう。
光る君が欲しい
凍てつく空気が消えそうに細く引き絞られた月を一層寒々しく見せた。
棘のように刺さった罪深い欲望を抱えたまま、悶々とした寒い夜がそれから幾つ過ぎたかわからない。
ようやく寒さが緩んで来る頃になって、俄かに屋敷内が騒がしくなった。
父上の思いつきで、宮中の要人を大勢招いた「花待ちの宴」を催すことになったらしい。
私が無言で抵抗しているのをいいことに 着々と入内の準備をしていた父上は、大詰めとばかりに帝や東宮に親しい方々に 根回しする場を設けたくて考えたのだと思う。
このことが私の心を掻き乱した。
光る君も屋敷に招かれている……
もしも逢うことができたら……あの甘美なひと時を過ごせるかもしれない。
期待で胸が高鳴った。
宴の日が来るまでの間は、一日がとても長く感じた。
宴の日が来ると、屋敷内は大騒ぎだった。
女房たちは朝もまだ明け切らぬうちから あれこれと忙しく立ち回り、宴の準備をしていた。
私は、御簾の中から出ることもないというのに一番春めいた桜重ねの衣を着て宴の様子を見ることになった。
父上の口上が宴の席に響く。
「今宵はお忙しいところ、方々よくおいで下されました。
花待ちの宴でございますれば、特別にあつらえました花をごらんに入れましょう。」
庭の真ん中に数日前から用意されていた薄様の布を、父上の合図で家臣たちが一斉に引く。
すると四方から歓声が上がった。
満開の桜。
まだ開花にはふた月近く早い。
私も初めて見た。
これほど大きな桜が庭を飾るのを。
そよ風が桜の花びらと春の香りを運ぶ。
「春を待ち切れずに攫って来たこの桜の命は短こうございますれば、今宵限りの宴を存分にお楽しみ下されませ。」
雅楽士らの笛の音色や箏の琴がより一層桜の美しさを引き立てていた。
私は桜の美しさよりも光る君がどこにいるのかが気になった。
御簾の中から目を凝らす。
いた……!
その美しさでずば抜けて目立っていたから直ぐに見つけることができた。
でも……
光る君はあろうことか父上と一緒に楽しげに杯を交わしている。
胸の棘が疼きだす。
もし、光る君が入内の話を父上から聞いてしまったら
扇を取り交わした姫が私だと知ってしまったら
光る君と再び逢瀬を楽しむことなど叶わなくなるわね……。
そう考えたら宴の場にいるのも煩わしいだけに感じた。
側にいた女房たちに
「人に酔ってしまったわ。部屋に戻るから独りにしておいてね。」
と告げて宴の喧騒を抜け出して部屋戻った。
戻るなり悶々とした思いで溜め息をついた。
私が今欲しいのは光る君の身体
あの腕に抱かれて、はしたない声をあげながら甘い痺れに酔いしれたい。
光る君の姿を見てから、胸の奥で疼く棘は身体の中心で熱を帯び悲鳴をあげていた。
自分の身体の中でくすぶる熱を散らすため、自分の柔らかい身体をつかみしめ淫らに割り広がった裾から太腿に指を滑らせた。
このように淫らな有り様を知ったらあのひとはどう思うだろうか。
それでも…求めて欲しい
そう思った。
欲しいあのひとを微かに呼ぶ。
「───ひかるきみ…っ!…」
ひとり火照る身体を慰めていると、部屋の外で衣擦れの音がした。
――――心臓が跳ねた。
慌ててはだけた裾をかき寄せ、肩から落ちた衣を直す。
「っ……誰……っ!?」
衣擦れの主から返って来た声は朗々とした響きで
「朧月の仄明かりに照らされた影を忘れられずに探していたのです―――。
迷ってしまった私を……導いてくれるかな……?」
光る君の声――――心臓が大きな音で早鐘を打つ。
私を、探していた……というの……?
右大臣の娘だと知ってしまっても……?
もうたまらない思いで胸がいっぱいになりそうだった。
今まさに欲しい人がすぐそこに来ている。
私を求めて
あまりに嬉しくて本当はとびつきたかった。
でもこの幾月かの恨み言を言ってやりたい思いもあって、落ち着き払ったように装い言葉を投げかけた。
「本当に思うひとなら月のない夜にも見つけられるのでしょう?」
私の声を聞いたとたん、光る君は部屋に押し入り御簾をたくしあげて私の唇を奪った。
「っ!……っ―――」
何度も、深く
唇を離さずに、抱きしめる手は一方で荒々しく衣を脱がしだす。
すっかり隠すものが取り払われてようやく唇が離れた。
激しすぎる口づけに肩で息をしながら見上げると、光る君も逞しい身体を露わにしていた。
闇に熱っぽく光った瞳が見える。
光る君の目にすべてを晒してしまっている私は、もう恨み言も言えずに吐息混じりに懇願した。
「っお願い……ひかるきみ──っ」
「…ぁあ…───朧月夜の君………
こんなに美しく咲き匂う花をほうっていられるものか………!」
そう言った光る君は私の上に甘やかに沈みこみ願いを叶えてくれた。
声にならない快感が駆け抜ける。
強く与えられた刺激にわずかに残った羞恥心も弾け跳んだ。
光る君の背に自分の腕を回し沸き上がる衝動のままにかき抱く。
気を失いそうになるほどの快楽の波、その虜になっていたの……。
あの朧月夜からずっと────
あまりの快感の強さに意識を手放し、果てた。
気がつくと光る君の瞳が目の前にあった。
「光る君。もう、ご存じなのでしょう……?
私が誰なのか……。」
「私にとって、あなたはいつでも朧月夜の君さ。例え本当は右大臣の六の君でも、兄上に嫁ぐ人でも……ね。」
―――――また、心臓が跳ねた。
声が、……震える。
「……内裏に……桜が咲く頃に入内することが決まっていて……私、あなたに……っ」
胸に刺さった棘が涙に溶けて溢れだした。
「ほんっ……とはっ……最初に……っ言わなくてはってっ──おもっ てっ……っ」
言い切る前に抱きしめられた。
光る君の香りがする。
「妖しく艶めいて見える貴女から、そんな健気な涙がこぼれるのを見てしまったら、愛しいと思わずに居られないじゃないか……!」
涙が溢れて止まらなかった。
……ごめんなさい、光る君……。
明るみに出ればただでは済まされないのに……。
これは恋じゃないとごまかしたりして……でも、やっぱり私はあなたの虜になってしまっていたの。
光る君の腕の中に居られることが、堪らなく嬉しい私の罪深さを光る君は優しい口づけで許してくれた。
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