エルミタージュ

@1640

エルミタージュ

 人気映画の原作者逮捕、未成年誘拐。

 新聞、テレビが大きく取り上げそうな事件だけど、あらましを伝える程度になっている。

 対象の映画自体が何年も前のもので、話題性が乏しいからだろう。

 なにより、当の警察でも全容を把握できていないのだ。

 保護された被害者の女の子は質問にうなずくだけでなにもしゃべらない。

 落ち着くまでしばらく間をおこう。引き上げようとした刑事を女の子が引き留める。

「あの、三浦さんに会うことはできませんか」

 女の子の思いがけない言葉に刑事の声が上ずった。

「容疑者に会いたいのかい」



 話は一週間ほどさかのぼる、昼下がりのこと。

 バイパス道路ができたおかげ、車の往来がなくなった峠の一本道に大粒の雨が降っている。

 その道をトボトボ上っていく女の子がいた。学生なら授業を受けている時間帯なのだが、傘をささず、雨に打たれ、力ない足取りだ。

 心ここにあらず、そんな女の子の耳には、山頂より駆け下りてくる車のエンジン音は聞こえなかった。

 曲がり角の出会いがしら。けたたましいブレーキ音で横滑りしながら迫ってくる赤い車体が女の子の意識を跳ね飛ばした。


 ブレーキペダルを踏み込む足、ハンドルから手が離れない。くすぶり続けるエンジンと屋根を叩く雨、停止した車内で男は呼吸を整えていた。

 瞬間的なことであったが、女の子をはっきり見た。鉄の塊が迫ってきているのにまるで気にしていない、空虚な顔が脳裏にこびりついている。

 なにかにぶつかった感覚はない。亡霊だったのか。落ち着いた男はわずかな期待を持って車外へと出た。

 降りしきる雨の中に女の子が倒れている。見た目十五歳前後、外傷は見受けられず、眠っているようだ。車にへこみなどの傷は見当たらない。

 雨がすべて洗い流してくれるのでは。結論を急いだ男は女の子を抱え上げるとせまい後部座席に押し込み、もと来た道を引き返していった。


 赤い車が通り過ぎる峠道の所々に建つ民家は、どれも草むらに隠れて人の住んでいる様子はない。

 そんななかでただ一軒、手入れの行き届いた庭に車は入っていった。

 黒くくすんだ木造の廃屋の前に車を止め、男は物置小屋へ向かう。

 滑らかに戸は開いた。外見は古くみすぼらしいものだったが、内側はしっかり防音の利いた作りになっている。中央に鎮座する発電機を回す。

 車に戻った男は後部座席で眠ったままの女の子を引きずり出して母屋へ運び込んだ。

 母屋の内部も近代的に改装されていた。取り壊し、建て直すほうが安上がりだったろう。

 カーペットの上に濡れたままの女の子を寝かせ、毛布をかける。そして目覚めるのを待つ。

 意識が戻らなかったとしても判決はすでに下っている。あとは罪の重さを測るだけだ。


 日が暮れる前に女の子は目を覚ました。ゆっくりと体を起こして辺りに目配せする。

 男の存在に気づいても怯える様子はない。まだ意識がもうろうとしているようだ。

「どこか痛むところはないか」

 男は携帯電話とここの住所をメモした紙を女の子の手元に置く。

「これで親なり警察なりに電話してくれ」

 覚悟の言葉を口にした男だったが、女の子に電話をかける様子はない。それがなんなのかわかっていないよう、つまみ上げて首をかしげている。

 まさか脳に障害が。男は自分の立場がより悪い方へ傾いていくことを嘆いた。


 女の子は記憶を失っていた。と言うよりは幼児退行して言葉を話せない状態になっていた。それ以外は健康そのもので戸を意味なく開け閉めしたり、蛇口をひねったりと元気に家の中を動き回っている。

 所持品に身元の分かるものはなく、持っていたのは一冊の本だけ、それは男が書いた二作目の小説だった。

 よりによってこっちのほうかよ。はしゃぐ女の子を怪訝に思う男だが、因果応報と受け入れるほかなかった。

 実際の幼児ではないし食事に気を使う必要はなかったが、素手でつかみ取ろうとするのはさすがに止めた。

 赤の他人であるのに、フォークの使い方や、手洗いなどのマナーを教えるようになっていた。

 男に育児の経験があったわけではない。そのように自分がしつけられていたことを反復しただけだ。おれも育ちが良かったんだ。と男は苦笑いした。


 山奥のすたれた民家を訪ねてくる者はいない。女の子も家から出ようとはしなかった。

 隔離された日常が平穏になっていく。男の気分もずいぶんと緩んでいった。

 女の子を隠れ家に残して、男は町へ下りる。買い出しのついでにおもちゃの一つでも買ってやろうとホームセンターへ向かう。

 入口の壁に、行方不明。と題された女の子の顔写真が貼ってあった。

「この子、スポーツジムの子じゃない」

 張り紙を見た買い物客の会話が男の耳に入る。

「江夏さんのトコの下の子だね。事件かしら」

 平穏に浮かれていた男が現実に立ち返る。そうだよな。おれは犯罪者なんだ。


 隠れ家に戻ると女の子は居間で眠っていた。

 人生は選択の連続だが、決断をすることはあまりない。大抵はその場の流れに任せてしまう。

 スポーツジム、江夏、二つのワードで住所は特定できた。

 親元へ帰そうと一大決心をしたわけじゃない。男は起きた女の子に帽子を深くかぶせると手を引いて家を出た。戸惑っている女の子を赤い車の後部座席に押し込め、慎重な運転で山を下っていく。

 近所で降ろせば誰かが保護してくれるだろうか。大雑把な計画で最寄りの駐車場の端っこに車を停めた。

 人通りのない住宅街を歩いていく。女の子は男の腕をしっかりとつかみ、せわしなく外の世界を見回す。見覚えのない景色に不安な顔をしていた。

「理奈っ」

 前から歩いてきた女性が立ち止まり、手さげカバンを落として叫んだ。

 この子の母親だと男は直感した。女の子は女性から身を隠すように男の背後へ回る。いつになく狼狽している。

「理奈、理奈なんでしょ」

 にじり寄ってくる女性から逃れたい一心で女の子は背を向けて駆け出した。

 女性は高ぶった感情のはけ口を立ち尽くす男に向ける。

「あの子になにをしたのっ」

「なにかしたのはあんたのほうじゃないのか」

 売り言葉に買い言葉、男のほうは感情を押し殺してつぶやき、女の子を追いかける。

「人さらい。人さらいよ」

 住宅街に女性の声が響いた。


 女の子は車のそばでしゃがみ、男が戻ってくるのを待っていた。

 男がドアを開けると女の子は自主的に乗り込む。隠れ家へ戻る道中、ずっと黙り込んだままだ。運転する男はミラー越しに違和感を感じながらも声をかけることはなかった。

「三浦さん、ですよね」

 男が玄関扉を開けたところで、後ろに立つ女の子が遠慮がちに言った。

「お前、記憶が戻ったのか」

「ご迷惑をおかけして、すいません」

 正常に戻った女の子は男に促されるまま、居間の椅子に腰かける。距離を置いて向き合い二人、間が持てなくなった男が話しかける。

「おれのことを知っているようだな」

「はい。三浦先生ですよね。小説家の」

 デビュー作がヒットしただけの男に小説家はおさまりの悪い言葉だ。

「確かにそうだが、初対面の男を前に、よく落ち着いていられるな」

「サイン会に行ったことあります。握手もしたんですよ」

「そうだったのか」

 女の子の強い反論に押されて、男は苦笑いを浮かべた。  

「親とケンカでもしたのか。なんであんなところに」

 気を許したことで詮索が入ってしまい、男は問うて後悔する。案の定、女の子の表情が落ち込む。

「私、お腹に赤ちゃんがいたんです」

 小さいながらもはっきりとした声だった。胸の内に秘めていたモヤモヤを整理するよう独白する。

「相手の人は誤ってばっかりで、それでおろすことに。そしたら、なんか空っぽになっちゃって、泣くこともできなくて、雨の降るほうに歩いてました」

 心境の程を測ることはできないけど、味方になってくれる人がいなかったのだろう。男は対応に困るばかりだ。

「おれのデビュー作、あれは姉が子に語り聞かせていた話を文章にしただけなんだよ。評判の悪い二作目が実力ってわけさ」

 男も腹の底に抱えていたことを口にする。それが人生の糧になることもあろう。言葉を覚えた人の歴史は、ようするに苦労自慢だ。

 庭先に数台の車が入ってきた。複数の赤い光の点滅が部屋に届く。警察が来た。二人は同時に立ち上がった。

「わたしが行きます。全部、わたしが勝手にやったことで、三浦さんは何も悪くないって、そう言ってきます」

「いや、すぐ警察に届けず、こんな状況になったのはおれの選択だ。それに、脅して口裏を合わせたと疑われかねない」

「そんなことは、それに家族の人に」

「姉のことか。その心配はないよ。きみは警察の質問に頷いていれば良い」

 戸惑っている女の子を引き留めて男は玄関を出ていった。

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