第5話  間違いに気づかないことが一番の過ちである

 「おはようございます」


 俺はそう言いながらEvangelistに入った。


 外は真っ暗で、サラリーマンたちが仕事帰りの一杯目の酒をあおっているような時間だが、いつも挨拶はこれだ。

 あまりにも二日酔いでグロッキーなことが多いマスターに対する俺なりの皮肉で言い始めてから変わらず使い続けている。


 「…あぁ、おはよう」


 今日も辛そうだ。

 …昨日あれだけ飲んでればそりゃそうなる。

 これを見るとお酒は飲むのを控えようと思える。いい反面教師だ。


 そんな状態でもマスターは立ち仕事をしている。今は今あるお酒の最終確認中だ。これが終わったら仕込み諸々をこなす。

 そして店を開けるころにはいくら辛かろうとそれをおくびにも出さないで接客するのだ。

 

 さすがプロだ。


 俺はマスターの様子を一目見ると、カウンターから店の奥に向かう。


 Evangelistの奥には、厨房とロッカールーム兼休憩室、それに食品庫という名のもの置き場がある。どれもそんなに広くはないが、俺とマスター二人しか従業員がいないからそこまで手狭に感じない。

 

 俺はロッカールームに向かう。ここまでは私服で着て、ここで指定の服に着替える。少し面倒ではあるが、さすがに制服姿でこの店に出入りするわけにはいかない。

 

 そしてここでセッティングもする。…といってもそこまで本格的なことはしない。

 

 まずは、目の近くまでかかっている前髪をワックスを使ってセンターで分ける。これだけでもだいぶ印象が変わる。…まあ前の前髪の長さがひどすぎるだけだけどね。

 さすがに手慣れたことなので1分もかからない。

 

  次に軽く化粧をする。

  首と同じくらいの色合いのファンデーションを使うと小顔に見えていいらしい。学校にいるときはこれより明るめの色で塗る。顔が大きく見えるらしい。…あんまり詳しくは知らないけど。

 

 リップクリームを塗り、最後に置いてある鏡で全身チェックしながら襟を整える。

 

 ほんとは目の周りも何かしらした方がいいのだろうが、俺の今の技量と時間を兼ね合わせるとこの辺で落ち着く。


 マスターに言われて化粧などをし始めたが、かなり印象が変わって見える。こういう細かい努力がモテるイケメンになるためのコツなのだろう。


 これからはマスターの仕込みを手伝いつつ、店の軽い清掃をしなければならない。

 物事は何をするにしてもこの準備が大事だ。準備をしていると何事にも余裕を持って対応できる。

 

 そう思いながら店の表に出る。

 

 マスターは玄関先にいた。誰かと話しているようだ。

 この時間に人が来るのは珍しい。きっと業者の人とかだろう。

 その証拠に見慣れた制服を着ている。…紺色のブレザーに赤のタイ、、、


 …ちょっと待て


 あれうちの学校の女子の制服じゃん。

 

 思い起こされるのは今朝の七星さんとの衝突。

 …すごく嫌な予感がする


 ここは撤退だ。

 そう思い体を反転させ、

 

 「…あっ、彼です」


 …られなかった。

 予想通りの人物からの声がした。いつもより丁寧な言葉使いをしているが、それがなおさら彼女が来たことを俺に実感させた。てか、こういう店に制服で来るなよ。


 「俊君、この子がお礼言いたいんだって」


 マスターに引き留められた。そしてそれだけ言うと仕事に戻っていった。

 

 さすがに「人違いです」とごまかせる状況ではない。

 ここまで来たら七星さんの対応をするしかない。全く準備ができていないが仕方ない。


 「……今朝の、七星さんだっけ?」


 「そうですけど…、私名前言いましたっけ?」


 戸惑いながら七星さんは聞き返した。


 今朝の記憶を思い返す。


 …まずい。たしかに名前なんて言われていない。完全にやらかした。


 やらかしたときに真っ先にやらなければならないことは後悔ではなく、行動。


 マスターが言っていた言葉だ。

 確か俺が発注ミスってチーズが大量に来た時だ。そこから客にチーズを徹頭徹尾すすめて在庫を消化しきったことは今となってはいい思い出だ。


 だから俺は今日一番に頭をまわす。ここから逆転するために。


 「俺の母校で有名だったんだよ。津田高校のすごい2個下にすごい美人が入ったって」


 そう笑いながら答える。さも当然のように。


 「…そうなんですか。この辺出身なんですね」


 「そうそう」


 …納得してくれたみたいだ。その証拠にさっきの戸惑った顔が、柔らかくなり口元も緩んでいた。

 …ただ笑っただけでも七星さんはめちゃめちゃ美人に見える。

 でも見惚れているわけにはいかない。


 俺は話題を変えることにした。


 「こんな店にどうしたの?」


 「今朝のお礼をしようと思いまして…」


 そう言って彼女は手に持った小さめな袋を俺に渡してきた。

 そこには俺でも知っている有名な菓子ブランドのロゴが書いてあった。中身は見てないけど多分高い。少なくともバイトが原則禁止されている高校の女子高校生にしてはいいお値段だ。


 あまり大したことをしてないのにこんなものをもらって申し訳ない。


 だけどここは素直に受け取っておくことにした。

 受け取らないとさらに会話がこじれて、そのうちさらにぼろが出そうだから。

 

 「ありがとね」


 素直にお礼を言った。

 

 「いえ、つまらないものですので…」


 恐縮した感じでそういわれる。きっと居づらいのだろう。

 

 だから彼女から会話を始めるとは思わなかった。


 「俊さん…で大丈夫ですか?」


 「別にいいよ」


 「俊さんは、ここに長く勤めているんですか?」


 「ううん、入ったばっかりのぺーぺー。それがどうかしたの?」


 「…いえ、仕事にすごく慣れてるように見えたので」


 「うちのマスターにこってり絞られてるからね」


 「すごく優しそうな方なのに」


 「仕事病だからあの人」


 そう笑っていうと、七星さんも少し困ったように笑った。


 「いい雰囲気のバーですね」


 「七星さんも大きくなったら来なよ。歓迎するよ」


 「そうします」


 七星さんはそう言うと、床に置いてあった自分のバッグを手に持った。世間話もお開きのようだ。

 それを察して俺は、入り口のドアを開けて待っておく。


 「ありがとうございました」


 「今度は気を付けてね」


 彼女の見送りを終えると俺は店に戻った。

 

 するとそれに気づいたマスターがはなしかけてきた。

 

 「彼女とは知り合い?」


 「クラスメイトです。でも、向こうは僕のこと知りもしないと思いますよ」


 「俊君、学校だと暗めだからね」


 七星さんは俺とは学校では関わり合いすらしない存在だ。今日こうして話せたのは世間でいうところの役得というものなのだろう。

 

 マスターは俺の事情を納得すると厨房に仕込みをしにいった。

 

 俺は七星さんからもらった袋を開けてみた。

 そこには予想通りきれいにラッピングされたチョコレート菓子が入った箱とハンカチが入っていた。俺が持ってたやつと似ているが違うやつだ。おそらく新品を買ってくれたのだろう。


 七星香菜は律儀な人なのだとわかった。 


 とりあえずロッカールームにこの袋ごとおいてくる。

 そしてふきんを持ってくると気持ち急ぎ目にテーブルの上を乾拭きしていく。七星さんと話していた分ロスしたからここから挽回しなければならない。


 急な訪問にしてはうまく乗り切れた。一時危ない状況ではあったが、よく対処できたと自分をほめたい。

 

 俺は今まであったことをいったん頭から取り除く。


 これから開店だ。ぼーっとしていたでは許されない。そう気を引き締めた。

 

 だから思いもしなかった。


 すでに俺は詰んでいたことに。

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