第2話 運命は唐突に…
「ふう」
そう一息つきながら、モップを動かしていた手を止める。
このお店は女性客が多いからかそんなに汚くはならないのだが、お客様には常に清潔な環境でというマスターの方針から狭い店内を隅々まで毎日モップをかけている。…まあ飲食なら当然なんだけどね。
「マスター、掃除終わりました」
厨房のほうに、声をかける。するとマスターが店に出てくる。
そして店内の状況をざっと確認すると、
「お疲れ。ごみだけ出したら上がっていいよ」
そう言われたので、ごみをまとめ始める。
「そういえば圭子さんと長々話してたけど、どうかしたのかい?」
「仕事に問題があったらしいですよ」
「彼女結構見栄張るタイプだからね。そういうこともあるさ」
この一言だけでだいたい何があったか分かったらしい。さすがだ。
こういう情報交換はかなり大事だ。
もちろん客から直接から聞いていない話は基本的に聞いてないですよ知りませんよという風に装うのだが、そんななかでも対応をわからないように少し変えるのがバーの仕事だ。
俺もマスターが話す客の情報を、ごみをまとめながら頭にインプットしていく。
マスターの話が一区切りついたのを見計らって俺は口を開いた。
「じゃあこのごみ捨ててきますね」
「お願い」
ひとしきり話し終えたマスターはそういうと厨房にまた入っていく。
ちなみに、マスターは厨房で今日の片付けをしているわけではないし、明日の仕込みをしているわけでもない。なぜならどちらもとっくに終わっているからだ。
じゃあ何をしているかというと多分寝てる。
マスター唯一にして最大の欠点であまりお酒に強くないのだ。それなのにお酒は好きらしく、営業中にも接待て銘打ってがばがば飲むので手に負えない。
まあマスターがお酒が好きでないなら、おいしい酒を広めようという目的のこの店はなかったからそういう意味では感謝しているのだが。
でも店の営業中に裏に引っ込むのはやめてほしい。さすがに酒に弱いマスターは少々かっこ悪いからというどうしようもない理由で、厨房で何の音もしてないのにいまマスターは明日の仕込みしてますとかごまかしたくない。
この人もかなりの見栄っ張りなのかもしれない。
俺はごみ袋を両手に一つずつ持って店を出る。
ビルの入り口から表通りに出るとすでに朝日が出ていて周囲が明るい時間帯になっていた。自分の腕時計を見ると五時十五分を指していた。つい二週間前はこの時間でもまだ暗かったため春が過ぎて行っているのを身にしみて感じた。
ごみをビルの裏手にあるごみ置き場に出す。出し終えると、手をぱんぱんとはたき、ついでにそのまま伸びをした。やっぱり、日があったほうが伸びは気持ちいと感じる。
これで業務終了だ。あとは制服を着替えて家に帰ろうと思い、表通りに出た。
あの時エレベーターに乗っていたら、きっと俺は全く別の人生を歩いていただろう。
あの時伸びをしてなかったら、俺はまた別の人生を歩いていただろう。
でも俺はエレベーターに乗らなかったし、伸びをしてしまった。
だから俺は出会ってしまったのだ。
運命に。
◇
表通りに出た瞬間、自分の体の横側から衝撃をくらう。それは少し硬く、だけどそこに確かな熱を持っていた。
その衝撃に負けそうになり俺はよろけたが、徹夜明けの足を使い必死にこらえる。
そしてその衝撃の正体を見た。
それはしりもちをついていた人だった。
さらに美少女だった。それもなかなか見ないレベルで。しかも俺はその少女の名前を知っていた。
七星香菜
俺の通っている津田高校で一番といわれている美少女だ。何でこんなことを知っていたかというとクラスの男子が言っているのを盗み聞きしてた。…なんか悲しい。
でもこうやって正面から見てみると彼らが一番ともてはやしていた理由がわかる気がした。
ぱっちりした黒目に、長いまつげ。だけど、鼻・口など顔のパーツが小さいため不思議とあどけなさが残っている。
今はランニング中だったらしく、ピンク色のナイロンパーカーに、黒のランニングタイツという体のラインが出る格好だが、すらっとしているいわゆるモデル体型のためばっちり着こなしている。
そして彼女の黒髪は走りやすいようにするためかポニーテールにされており、学校ではいつもストレートのため新鮮でより魅力的に見える。
芸能人とくらべても遜色ないくらいで、なんならこんなに美人なら売れっ子でしょうといわれるレベルで七星香菜は美少女なのだ。
きっとギャルゲならば見事なまでの主人公ムーブなのだろう。
だけどこれは現実だ。
だから見惚れている場合ではない。いまはかなり
そう自分を鼓舞した俺はいつも以上にかっこつけることにした。
「大丈夫?」
そう転んでいる彼女に手を差し出す。
「…ありがとうございます」
申し訳なさげに七星香菜は感謝した。いつもどちらかというと強気そうに見える彼女にしてはえらくしおらしげな対応だ。
しかし手を取ると、彼女はわずかに渋い表情をした。よく見ると、彼女は手のひらにけがをしていたのだ。おそらく転んだ時に擦ったのだろう。
「あっ、ごめん…」
そういって慌てて手を放す。
「…いえ。大丈夫です…」
そういいながらけがをした右手を隠すように左手で覆った。痛いのだろう。それと俺に対する申し訳なさ。
そこからは自然と体が動いた。思い描くのはマスター。あの人を思い浮かべるとうまく体が動く。この一年間ずっとまねしてきたから。
まず自分のポケットを確認する。必要なものは三つ。
…大丈夫持ってる。
「ちょっと待ってて」
そう言うやいなや俺は駆け足で裏手にある自動販売機の前に行く。後ろのポケットから財布を出すと、急いで飲料水を買って彼女の元に戻った。
そして左ポケットからポケットティッシュを出すと、彼女に手を出すように促した。そして出された手の平の傷口に濡らしたティッシュをあてて、汚れや菌を落とす。
仕上げに右ポケットから取り出したハンカチを手に巻き付けた。新しく買ったやつで、全然使ってないが仕方ない。
「…ありがとうございます」
一連の手際を見た七星香菜は少し戸惑った感じに言った。そりゃ見ず知らずの男にこんなことされたら戸惑うだろう。でも確実に感謝はしていることを示すように彼女は少しお辞儀した。
…完璧だ。
内心ほくそえみながら俺は何事もなかったかのように答えた。
「ハンカチは返さなくていいよ。…それとこの辺は繁華街だから朝でもあんま通んないほうがいいよ」
七星香菜ほどの美少女だったら朝といっても何が起こるかわからないし、それにそちらのほうが俺にも都合がいい。
それだけ少し早口で言うといそいそと
俺が読み間違えたとするならばそれはたった一つ。
…その優れた容姿にかかわらず、七星香菜がまだ一回も恋をしたことがなかった乙女だったということだ。
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