第9話 便所クライシス
魔王は便所でウンコをする。間違いなくそう言った。
「閣下、なぜこんな汚い便所で糞を?」
俺が尋ねると彼は面倒くさそうに頭を掻く。
「別にどこで用を足しても構わんだろうが。
たまたま近くにあったのがこの便所だったんだ」
「他にも便所は沢山あるでしょう。
専用の綺麗な便所もあったはずですよね?」
「ここから遠いんだよ。
とにかく俺は直ぐに糞がしたいんだ。
どいてくれ」
ダメだ……なんて言い訳をすればいい⁉
便所は個室で中が覗けない仕組みになっているが、万が一のことも考えられる。今すぐ追い返すのが得策だ。
しかし……なんて言えばいいのか思いつかない!
「閣下、恐れながら申し上げます。
この便所には……でるのです」
「でるって……何が?」
「おばけが、です」
我ながら苦しい言い訳だ。それを聞いた魔王は……。
「なるほど、アンデッドがたまり場にしているのか」
と、変に納得してしまった。
歩く死体が普通に存在するこの世界で、お化けなんて脅し文句にもならない。
何を言っているんだろうなぁ、俺は。
「おばけと言ってもですねぇ。
ただのおばけではないのです。
トイレの花子さんをご存じで?」
「は? はなこ?」
「ええ、便所の中で待ち構えて、
異界へと通じる便器に引きずり込み、
連れ去ってしまう恐ろしいおばけです」
「ほぉ、面白い。
勝負して俺とどちらが強いか確かめてやる」
逆にたきつけてしまった。俺は馬鹿か。
「わっ……分かりました!
勝負をなさるのですね?
それならまず、礼装にお着換えください」
「礼装? なぜだ?」
「トイレの花子さんは便所の王。
戦うにはそれなりの礼を持って……」
「冗談はもういい。
俺は糞がしたいんだ。
そこを退いてくれ」
「ああっ!」
立ちふさがった俺を強引に押しのけ、魔王は便所へと入っていった。
ナムサン!
「え?」
「あ?」
案の定、二人は鉢合わせてしまった。用を足して個室から出て来たミィと、便所に入ろうとした魔王とが向かい合い、目を合わせたまま固まってしまう。
「あっ、花子さ……」
「いやあああああああっ!」
金切り声を上げるミィ。そして……。
ぼぐぅ!
彼女は目にも止まらぬ速さで拳を繰り出し、レオンハルトの眉間に強烈ヒット。魔王は気を失い仰向けに倒れてしまった。
「え? あ? 閣下?」
倒れ込んだ魔王の無事を確かめるべく、俺は傍に寄る。すると……。
ブリブリブリブリブリ……じょばぁ!
強烈な音と共に垂れ流される便と尿。茶色い液体が辺りに水たまりを作る。
「きゃぁ! この人、漏らしちゃった!」
「そんなことはどうでもいい!
早く逃げるぞ!」
狼狽するミィの手を引き、俺は一目散に部屋まで戻って行った。
「ハァ……ハァ……とんでもない目にあったな」
「あの人、大丈夫かなぁ」
レオンハルトを心配するミィ。
あれだけ酷いことをしておいて心配するのか。
「大丈夫じゃない。すぐに戻って様子を見てくる」
「あの……ごめんね。本当はこんなこと……」
「不可抗力だ、気にするな」
俺はミィの頭をポンポン撫でる。
本当ならちゃんと相手をしてやりたいが、今はそれどころではない。
「閣下ぁ! ご無事ですか!?」
俺は大急ぎで便所へ引き返す。魔王は気を失ったまま倒れていた。
「閣下! お気を確かに!」
「うーん……俺はいったい……」
良かった、死んでなかった。
「大丈夫ですか?」
「ああ……大事ない。しかし何があった?
俺は確かトイレに行こうとして……あっ」
股間を見下ろす魔王。辺りには強烈な匂いが立ち込めている。
「うわぁ……なんじゃこりゃ」
「トイレに行こうとして転倒し、
頭を打って気を失ってしまわれたのです。
そのショックで……」
「いや、痛むのは眉間なんだが?」
「頭を打ってから眉間をどこかにぶつけたのでしょう」
「どんな転び方だよ?」
冷静に突っ込む魔王。突然のことで気が動転しているかと思ったが、そうでもないようだ。
「とりあえず今は下の処理をしましょう。
身体を清めて服を着替えるのです」
「……うむ」
「私はご入浴の手配を致しますので、
閣下は服を脱いで尻を拭いておいてください」
「なぁ、一ついいか?」
「はい、なんでございましょう」
魔王は鋭い目つきで言った。
「トイレの花子と言ったな。
あのアンデッドは何者だ?」
覚えてたんかーい。
「さぁ……私も話を聞いただけで……」
「恐ろしい強さだった。
不意を突かれたとはいえ、
この俺が不覚を取るなど初めてだ。
できれば正式に手合わせを願いたい」
ううん……面倒なことになったぞ。適当にした作り話が本当になってしまった。
「分かりました。
コンタクトが取れ次第、すぐにでも」
「あの強さは本物だ。
できればわが軍に加えたいものだ」
気を失った挙句、糞と尿を同時に漏らしたと言うのに、魔王は実に冷静だった。
これが王たるものの器なのか。少しだけ尊敬する。
その後、特に騒ぎになることも無く、魔王は風呂に入って着替えを済ませ、何事もなかったように就寝。
俺は汚れた服を洗濯し、垂れ流しになった汚物を処理。
ついでに便所の掃除もしておいた。
全てが終わるころ、夜明けが近づいていた。
ああ……また仕事をしなければ。ミィとゆっくり話す時間が取れなかったな。
とりあえず、部屋まで戻る。ミィも心配しているだろう。
「すぅ……すぅ……」
俺が部屋へ戻るとミィはぐっすりと眠っていた。あれだけの騒ぎを起こしておいて呑気なものだ。
この華奢な体をした少女のどこに、魔王を倒すだけの力があるのだろうか。
か細い腕をそっと撫でても、その質感は普通の人間のもの。獣人を一発で殴り倒せる筋力があるとは思えない。
まったく不思議な少女だ。この子はどこから来た? どうして俺の部屋の前で倒れていた? 誰かに連れて来られたのか?
一度、きちんと話をした方がいいな。彼女のことを知っておかないと。
俺は椅子に腰かけて安らかな寝顔を眺める。いい夢を見ているのだろう。心なしか楽しんでいるようにも見える。
不思議と満たされた気分になる。
この部屋にいる時はいつも一人だった。誰かが当たり前のように存在していることなど、今までで一度もない。
なんとも言えない暖かさを胸に感じ、俺は彼女の寝顔を見守るのだった。
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