今村京香

「思い出した?」

「思い出せた?」

顔が写り込むまで磨かれた巨大な鉄の円柱を背にして顔を右左、互いに見合って右左、正面に戻る。

他に京香しか居ない。

利用者の歓談の一切が消え失せた静寂とそれに起因する寒々しさがヒノコムの世界を隅まで満たしていた。

 ここから助け出してくれる人達は消失した。

元の世界を思い出し、暗澹あんたんたる記憶にひどく打ちのめされる。

京香から口にする言葉も考える気力も抜け出していった。

膝から崩れ落ちてゆく。

初めて素足で踏んだ時は心地良かった絨毯の繊維も、今は鋭く深くまで刺さる針のむしろとなって責めてくるようだ。

身体に沿って、空気が凍りつき絨毯に霜柱が立っていく。

動きを一切止めた身体が冷たく固まっているのだ。

 視界の端で、双子はいつまでもそこにいる。

京香自身が。

答えを示さなければ永遠にこのままだと。

双子は永遠に待つだろう。


 ヒノコムの世界から明りが少しずつ消えていく。

青空の天辺で燦燦さんさんの正午の太陽がゆっくり西へ傾くように。

沈黙の帳が降りて夜を迎える。

このまま独りでいたい。

京香が心から願う世界で。



ずっと独りだった。

私はいつも泣いていた。

不器用で口下手で周りと同調できなくて。

保育園の時のお遊戯の時間が嫌いだった。

周りの子より明らかに折り紙の出来上がりが汚かったから。

保母さんに手を取られながら折るのが恥ずかしかった。

周りの子はひとりで出来るのに。

幼いながら出来るからと抵抗しても、やっぱり出来なくて。

おうただって。ダンスだって。おえかきだって。

 私の心に植え付けられ、生涯を通して育った劣等感。

小学校も嫌いだった。

ランドセルを背負うとずっと遠くに見えた姉二人と同じ世界にいるのだと。

私は何も成長していないのに。無理矢理引き上げられたようで。

「もう小学生になったんだから!」

母が姉を叱る時に口にしていた文句が私にも降りかかると思うと、ずっと保育園児のままでいたかった。

だって、ずっと劣る私は姉よりずっと叱られるはずだから。

 字が綺麗に書けるようにと書道を習わされた。

苦痛でしかなかった。

同級生がずっと上手く書いているのに。

私は一歩も前進しなくて。

普通なら上手くなると言われて。

普通。普通。普通なら。

 授業中に名指しされて意見を述べるのが怖かった。

静まり返る教室でひとり立たされて。普段から喋らないものだから、いざ話そうとすればしどろもどろして。

私が話せばクラス内で失笑が漏れた。

話し方がおかしい。

その考えはおかしい。

漏れ聞こえてた。

軽蔑の目を向けられた。

普通ならそんな考えはしないと。

普通。普通。普通なら。

 音楽の時間だって。体育だって。図工の時間も嫌い。

周りの普通に合わせられないから。

 小学校は保育園と違って絵本は読み聞かせじゃなくて図書室で自発的に読めた。

国語の教科書の載っていた話も好きだったけど、もっと上の学年が読むような本も読んだ。

背伸びしてたんじゃない。

読みたくて読んだ。

初めて自発的に。

周りから本を読んでばかりで変だと笑われても本が好きだった。

難しい本を読めるのを鼻にかけるつもりは無かった。

周り子達が勝手に自慢してると思い込んだだけだ。

 私が気に入らないと嫌がらせをしてきた。

ちょっかいを掛けられた。

読んでる途中で取り上げられたり。それをクラス中に回されたり。

どうして放っといてくれないの?

私は本を読んでいるだけなのに。

変わっている私なんてどうでもいいでしょ?

 中学校は幾分か楽だった。

まだ小学校の頃の雰囲気を引きずっている所もあったけど、周りの小学校と一緒になって新しい顔ぶれでの集団生活。

ずっと目的と明確になる学習と部活動。

各々が進路を見定め、小学校の頃よりずっと限られた交友関係での生活。

その他への関心が薄かった。

思えばこの頃からよく夢を見るようになった。

 でも、三年生の時は少しだけ楽しかったな。


進路を見据えてクラスが一致団結して。

進学したらどの部活に入部するかとか。

アルバイトは週に何回入ろうかとか。

未来の話を沢山お喋りした。

テレビ番組の話とか、漫画やアニメの話も。

音楽や好きな本の話も。

男女とか趣味でグループが隔てられたりせずに、本当にクラスで仲良しだった。

 進路が分かれ道で本当にこの先もう一生会わなくなると思うと必然、みんながみんな一日一日を噛み締めていた。

楽しかった。

 ああ、だから私はあの頃の姿をして、あの時をここに反映していたんだ。

 高校。

私は相変わらず飽きもせず本を読んでいた。

同級生たちの間では誰がクラスの誰と付き合ってるとか部活の先輩とどうやらとか。

進路や就職よりも色恋沙汰が一番の関心事だった。

授業は選択制でわざわざ嫌いな音楽や美術を学ぶ必要がなかった。

 日々を淡々とこなせばよかった。

路傍ろぼうの石に興味を持つ変人はいない。

進路の為に学んだり部活で実績を積み上げるのに時間を割く。

そんな同級生を傍目に私はまだ本を読んでいた。

成績は良くも悪くもなく。

特出した物がない私は無事に無貌の大衆のひとりとなり社会へ送り出された。

 それでも私の不器用さは変わらなかった。

大人になれば自然に治ったりしなかった。

内心恐れていた通り。

ずっと私の中で劣等感は身体と成長を共にしていた。 

気が付かないふりをして目を背け続けていた。

「もういい歳なのに」

仕事で小さなミスを連発した。

正しくは毎日のようにミスを犯していた。

少年が苦難を共に乗り越え大人へ成長する胸躍る冒険譚を愛読しても、私自身が成長した訳では無かった。

 逃げ場だった空想の世界には年齢制限があったんだ。

「もういい歳なのに」

空想の世界を愛する私を周りの人間達はそう嘲笑った。

 空想の世界にも現実にも逃げ場のないべっとり粘度が高くふちがほんのり蒼い真っ暗闇の絶望が、幹がねじ曲がった葉のない劣等感の木を育てていった。

伸びた先に真っ赤な一輪の大花と咲き、脳髄を酩酊めいていさせる濃醇のうじゅんな香を放った。

 いつも通り叱られた会社の帰り道、私は馴れない酒を呷っていた。

自分の限界なんて知らない。振り返れば今まで全力で何かに打ち込んだことが無かった。

 今なら認められる。

毎日のように勉強に部活動に交友に打ち込める同級生達が羨ましかったんだ。

私は路傍の石だから。

そのくせ。もし、誰かに拾って貰えればと蜂蜜に漬け込んだ砂糖より甘い考えに浸っていた。

 酒を限界まで呷る。

今の私にひとりでも出来る手軽で安価な挑戦だった。

どこで何をつまみにいくら呑んだかなんて憶えていない。

どうやってあそこまで行ったか知らない。

少なくとも貧弱な私の徒歩で行ける距離じゃない。

酩酊しててもちゃんと電車なりタクシーを使える無駄にしっかりした自分に腹が立つ。

 防波堤の先に立っていた。

夏の夜の海風が潮臭い湿気を肌に当てる。

思いっきり鼻から吸い込んで体を満たしていく。

 あははは!最高の気分!真ん丸のお月さんで餅をついてる兎さんが見たら私はどこまで下劣で仕方ない人間なのだろう!?なにもない!ただ繰り返し朝を迎えて夜に寝てを繰り返しただけの人間を!

掲げた両手の間から月を覗いた。

 ありのままの私を受け入れてほしい。

海面の月を目指して、防波堤を駆け抜けた夜。



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