第6話


「……オ。……、リオ」


 自分の名前を呼ばれた気がして目を開ける。

 なかなか焦点が定まらない。滲んだ水彩画のような曖昧の景色を、ぼんやりと眺める。

 やっと視界がクリアになって、視線を右隣に向けた。何か気配がある。

 なんとそこにいたのは、色白で顔立ちがはっきりした金髪持ちの異国の王子……ではなく。


「……ウズメ、さん」


 真っ赤に目を腫らしたウズメさんが私の右手を握りしめていた。両手で、何かに願いを請うように。

 少しつっかえながら出した声は、掠れてしまった。

 残念ながら死に際のJCにお伽噺的でロマンチックな展開は降ってこない。


「なんで、泣いてるんですか」


 私と目が合ったウズメさんは表情を、動きをぱきっと固まらせる。


「アマちゃん……?」


 目の前のことを頭の中で整理しようとしているのか、綺麗な顔を微妙に歪めている。少し面白い。


「はい、起きました」

「……っ、アマちゃぁぁぁっ」


 ガバッと抱き締められる。体にかかった重さのせいで少し苦しい。言ったら絶対怒られるやつ。

 時計を確認する。どうやら、一日以上寝ていたみたいだ。朝の9時半。寝ていた、っていうか意識を失ってたんだろうけど。なんか、週末を寝て過ごしちゃったような喪失感がある。

 外は小雨が降っているようで、さらさらと微かな雨の音が心地良かった。


「ベンチ行っても誰もいなくて! ずっと待ってても誰も来ないし! 看護師さんに訊いたら意識失っちゃっててってわけわかんないし! 心配したぁぁっ! 」


 耳元で叫びながら泣きじゃくられて鼓膜がおかしくなりそうになる。


「泣かないで、くださいよ。ほら、私、病人なんですから、退いてください。心臓に、悪いです」

「アマちゃんだって泣いてるじゃん~! でもアマちゃんが言うと冗談にならないから退く! 」


 そう言って座っていたパイプ椅子に戻る。素直だ。

 ウズメさんの言葉が気になって、自分の目尻を指先で拭ってみる。何故か少しだけ、濡れていた。泣いた記憶なんてないのに。

 ウズメさんの方に目をやると、彼女も同じように目元をごしごし拭っていた。あーあ、せっかくのメイクがよれちゃってるよ。


「アマちゃん、今は大丈夫なの?無理して話してない?苦しくない?」

「さっきまで、力任せに抱きついていた人が、言わないでください。まぁ、今は、落ち着いてますけど」

「うん……」


 ずずずっと鼻をすする。

 どうしてこの人は、ひとのためにここまで泣けるのだろう。血も繋がっていない、数日前に会ったばかりの、私なんかに。


「あ、待って。先生呼んでくるね」


 と思っていたらハッと顔を上げて病室を出て行ってしまった。

 その後ろ姿はさっきまで子どものように泣いていた人には見えなくて、こういうところがずるいよな、と思った。



 発作みたいなものです。

 そう、無表情の先生に言われた。

 先生を呼んでくれたウズメさんは家族ではないので、病室の外にいる。その代わり、近場に住む父を召喚。無表情な先生の話にも神妙な面持ちで耳を傾けている。

 もう覚悟は必要です、とついでのように言われた。

 確かにこんな風に倒れるのは、慣れるほど繰り返している。もちろん何度繰り返しても本当に慣れるわけではないけど、今回のものが一番苦しくて、怖いと思った。

 死ぬことが本当にすぐ隣にあるんだって、自覚するぐらいに。

 それなのに、そんな程度なのか。

 事実を文章にして、ただ述べただけ。

 もちろん、患者の不安を煽らないようにああいう態度をとるんだと、知っている。


 他人ひとのためにあんなに泣ける彼女が頭に浮かんだ。

 あの温かさを感じられたのは、きっとあの人が初めてだった。

 それを知ってしまったら、知る前には戻れない。

 物足りない、と感じている自分に思わず苦笑する。

 私ってやつは、こんな数ヶ月で…いや、たった数日で。随分と変わってしまったみたいだった。


 *


 正直、延命治療をしなかったことは、父に悪いと思っていた。

 治療費を払うのは父だ。そのための苦労をするのだって、彼だ。

 だけど、妻と娘が同じ病気で亡くなるというのは、父とはいえ同情せずにはいられない。


 母は、私を産んで間もなく息を引き取った。

 私と同じような病気で、ギリギリの状態だったのに。そんな中、私を無理に産んだせいだった。

 私を見る度に辛そうな顔をする父は、母のことを愛していたんだということが十二分にも伝わる。

 じゃあ私は?私のことは、愛していたのだろうか。

 愛する妻を引き換えにやっと産まれた娘は、なんとなく鼓動を鳴らし、なんとなく息を吸い、生きるのには消極的。

 誰がそんなやつを好くのだろう。

 父はよく、お前は母さんにとても似ていると言ってくれる。

 だけど母を見たことがない私には、それが皮肉に聞こえて仕方が無かった。お前が産まれてこなければ、って。

 こんなひねくれた娘が産まれてきて、愛想を尽かせているんじゃないかって。

 母の若い頃の話を嬉しそうに聞かせる姿。

 電話をしなければ病院には来ない。

 困った顔をして、延命治療を勧めるようなことはしなかった。

 そんな姿を見て。何度も、思った。


「……お父さんは、私にどうしてほしい?」


 先生が出ていき、二人だけの病室。

 時が止まったように空気が流れる静かな空間に、私の声がすん、と落ちた。


「愛する妻は出産のせいでいなくなるし、やっとして生まれた娘は愛想悪いし。病気になるし。こんな親不孝な娘、いら」

「待って」


 低い声で遮られる。

 私は、は、と顔を上げ。

 次の瞬間。どき、と心臓が大きく波打った。そのせいで、軽く眩暈まで感じるほどに。


「父さん、そんなこと、一度でも言ったかぁ……?」


 そう言いながら私を見つめた顔は、今にも、泣き崩れてしまいそうだった。


「お前が産まれてきてくれたことに意味があるんだ。だからそんなこと、言わないでくれよ……っ」


 そう肩を震わせて片手で顔を覆う。

 到底、演技には見えなかった。


「成長すればするほど、母さんに似てくるお前に、どう接していいか、わからなかった……。ちゃんとお前の好きなように、させてやりたかった。お前の意思で人生を生きて欲しかった。でもそれが、お前を不安にさせてたんだよな……っ」


 そこで一回言葉を切る。切られた声は、震えていた。


「お母さんと出会えた奇跡。お前と出逢えた奇跡。お前が、リオが生きてくれているだけでどれだけの奇跡が重なっているのか……っ。こんな奇跡に価値がなかったなんて絶対に言わないでくれ……」


 そう言葉を紡いで、顔を伏せる。零れた滴が床に煌めいた。


 大人は嘘をつく。

 笑顔という嘘の仮面を貼り付けて、うわべだけの言葉で笑い合う。

 天真爛漫な、子どもの何も知らない言葉とは違う。作った言葉だ。

 だけど、いくら汚いとわかっていてもそうするのは、その方がいいと知っているから。

 だから私は大人が嫌だった。


 でも。

 この目の前に置かれた言葉達はどうなのだろう。

 ついでにもうひとりの無邪気な大人の分も、隣に並べる。

 疑って、勝手に否定して、拒否していた言葉達。

 そのまま見れば、どこにも汚点はない。

 だとすれば。

 輝いているそれを、受け取らなかったのは。

 汚していたのは、こっちなんじゃないのだろうか。

 勝手に禍々しい感情のフィルターをかけて勝手に疲弊して、そのフィルター越しの世界を勝手に真実だと思い込んだ。それが正義だと、錯覚した。

 もっと早く、気がついていれば良かった。

 そのフィルターの先からは、どんな世界が見えていたのだろう。


 組まれた父の手を両手で包む。

 きっとこの温かさも、私が見ないふりをしていた。

 触れてしまうのが、怖かったんだ。


「お父さん……私、頑張るよ」


 もう何日もない人生で、何を頑張ると言うのか。

 だけど先に動いたのは口だった。

 私の声に顔を上げた父と視線がぶつかる。


「もう遅いかもしれない……。だけど、あとはお前を、生きてほしい」


 その瞳は、真っ直ぐ私を見ていた。



 その後父には、会いたい人がいるから、と告げて帰ってもらった。

 さっきまでへなへなしていたけれど、病室を出ていく頃にはなんだか頼もしく見えた。父は父で何か吹っ切れたみたいだ。

 そして、私は会いたい人と対峙する。

 まぁ、さっきまで廊下にいた人なんだけど。


「それで、改まって頼みたいことって、何?」


「私は、もう死にます。だから、ウズメさん。最後に私を連れ出してください」


 私を見つめるウズメさんは驚くような表情は見せない。

 まるで、こうなることを知っていたかのように、ただ静かに頷く。


「もしアマちゃんに何があって私が怒られたら……責任とってよ?」


 そして、寂しそうに目を細めた。


「もちろんです。……命懸けてでも責任とりますよ」

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