三本指

「…読んだんですか?」

「読んだわ、“魚の小骨”のエッセイ」

 浩然は顔を赤くした。


 そう、エッセイは結局昔の出来事を思い出して書いた、“魚の小骨”の話を提出したのだった。タイトルも『魚の小骨』。


「日記文学の藤川先生が面白そうにファンさんの作文持って来てね、読ませてもらったの」

「…恥ずかしいです」

 その中には小学校の“魚の小骨”事件を書き、その上で、もちろん名前は伏せてあるが、シャンプーのことから、岡チョップまでオチとして書かれていた。

「藤川先生、ほめてたわ。エッセイとして実に面白いって。

その人にしか体験できないことをうまくまとめてて。変に凝った言葉を使わず、ありのままの素直な表現で書いているのもあなたのエッセイの魅力だそうよ。

わたしも読んだけど、痛みも悲しさもも優しさも全部そこに書いてあって、読みごたえあったわ」

「…ほめすぎですよ」

 

 上手く書けたか解らなかったが、書き始めたら止まらなかった。その瞬間が最高に楽しくて、ただただ夢中だった。悲しい思い出かもしれないけど、書いている時は痛みだって“楽しい”ってことに気が付いた。


「あなたみたいな人が希の近くにいることは良い事だと思ったわ。だって話せないつらさが解るから」

「…おれだって希と一緒にいるのが楽しいですから」

 浩然はちょっと声がかすれそうになるのを我慢してそう答えた。

「恥ずかしかったですけど、感想聞けてうれしかったです。藤川先生のことについても」

「いいのよ、だってうれしいじゃない? 藤川先生が子どもみたいに眼を輝かせてあなたのエッセイ持ってきたのよ。あ、これは伝えなきゃって思ってね。褒めていた“又聞き”ってものすごくうれしいじゃない」


 又聞き。


―――…中国人のくせに聞くに耐えないと思うのなら、わたしに直接言えばいい。それなのにわたしの知らないところで、わたしを指導した先生に対して言うなんて…卑怯だよ。


 15人全員が遅刻したあの事件で引き金となったのは雪梅シュエメイが又聞きで自分のスピーチをけなされたことが原因だった。そう又聞きってどちらにせよ威力が強い。深く傷つけることもできるし、人を舞い上がらせることもできるのだ。


「…先生、ありがとうございます」

「何回礼を言うのよ、たいしたことじゃないわ。むしろわたしのほうがいろいろ解ってすっきりしたし…でもこのことは…」

「誰にも言いません、誓って」

 浩然は人差し指、中指、薬指を立てて、“3”のハンドサインをした。

「何それ?」

「え…あ、これは…あはは癖です」

「クセ?」

「中国人は何かを誓う時に三本指を立てるんです」

「へえ…」

 和崎は自分の指で三本を立てて、しげしげと眺める。


「ああ、そういえば素朴は疑問なんだけど、あなたどうしてパソコンがほしいの? まだ持ってるパソコン動くんでしょ?」

「ああ、えっと…動画を見たくて…講座の」

「何の講座?」

「…中国語です」

 それを聞くと和崎がにっと笑った。悪だくみをする希の顔とそっくりである。


 雪梅やシャンプーが中国語を勉強している様子を見たり、偽名事件の話を聞いて、ちょっと勉強してみたいなという気持ちが浩然の中に生まれてきたのだ。ただ、いつまで続くのかもわからないし、今更恥ずかしいとも思っていた。


「…笑わないでください」

「笑ってなんかないわよ、いい事じゃない」

「途中で挫折するかもしれないし」

「したってしなかったよりマシよ」

 そうだと思うが…。

「まあ誰にも言わないわ、だってここでは給仕と客の間柄でしょ。はい、わたしも誓うわ、誰にも言いません」


 和崎は三本指を突き上げて宣誓した。浩然と和崎はしばらく無表情で顔を見つめると、二人同時に思わず噴き出した。



 ここを出たら、給仕と客ではなくなる。そんな束の間の秘密の会話だった。



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