エピローグ 真美
普通で特別
夏休み中の集中講義の前、浩然は大講堂につくと、そこにはもうシャンプーがいた。うつ伏せで寝ていた。浩然はそおっと隣りの席に座る。
「…う、う~ん…」
振り返るとシャンプーが眼をこすって起きた。
「ごめん、起こした?」
「ううん、浩然くんのいい匂いがしたからね、ふふ」
それを聞いて浩然は胸の中がじんわりと暖かな感情がにじんでいく感じがした。
「何それ?」
シャンプーうつ伏せしてた下にはノートがあった。
「これ? 翻訳の勉強のために書いてたの、中国語の歌詞をね」
「なんてタイトル?」
「
確かに兜圈はぐるぐる回るという意味だ。どう訳すか、か。
「どんな歌詞?」
「あ、聞きますか?」
シャンプーがさごそとイヤホンを取り出そうとした。浩然は慌てて制した。
「いや、あの…さ、シャンプーから歌詞を聞きたい」
「え?」
「シャンプーの…真美の発音で聞きたい、聞かせてほしい」
浩然は顔が熱くなる感覚を感じていた。自分が甘えてる。真美もまた初めて浩然に『真美』と呼ばれて少しだけ顔を赤らませた。
「前もありましたよね…、初学者の反応を見たいって、漢字のない教科書読んであげた時」
「…そうだね」
そうだけど、違う。だってあれは初学者なら誰でもよかった。でも今は違う。
もっとたくさんの君を知りたい。そして誰にもわからない言葉で、おれだけがわかる言葉で、一人占めしたい。
こんなことを思ったことは今まで誰に対してもなかった。
「
たどたどしくも、真美が一生懸命に読み聞かせてくれる。それを浩然が眼を閉じて、自然と翻訳していく。
「学校、花屋、荒れ野を抜けて、海辺にたどりつく。
そんな嘘みたいに甘い愛には無駄な時間がかかるもの。
華やかな世界をさまよい続けて、やっとわかったんだ」
「え、“
「おれはそう思ったけど…変かな」
「いいと思いますよ? 浩然くんの日本語の感覚って面白いなあ」
真美がふふと笑った。
「
「あなたのその
「…やっぱりここって“普通で特別”って意味なんですね」
「そうだね」
「いいですよね、自分にとって特別な人に“普通で特別”って思われるのって。普通でありのままでも特別に感じるって意味ですから」
―――――――――――
この間岡が夏風邪で寝込んだ時、浩然と希でお見舞いに行った。岡の洗濯物を取り込むと、岡と希は『普通がいいか、特別がいいか』ということを話していた。
「おれは普通がいいね、普通で居られることが一番息がしやすい」
と岡は言った。
「僕は普通なんてやだね。特別、絶対に」
希も好戦的に言い返す。
何言ってるんだか、と思いながら浩然は洗濯物を広げて畳みはじめた。
「浩然は?」
「うーん…」
「普通のほうだろ? だからそんなに地味ーに目立たずにいるんだろ?」
と岡は言った。
「いーや、こういう地味で目立たない奴だからこそ、本当は特別になりたいんだよ」
「…」
二人が言いたいことを要約すると浩然は“地味”ということだ。
「普通で特別がいいかな」
「「え、意外」」
二人してびっくりした顔でこちらを向く。
「…なんで?」
「なんだ、浩然て、欲張りなんだな」
「ごーよく」
「あんのなあ…」
自分の名前や国籍は確かに特殊ではあるかもしれない。けど、それだけで特別って訳じゃない。マイノリティにいるけど、同じ華僑なら生い立ちは似たり寄ったりだ。けど、普通にもなれない。
「まあ、普通で特別だって思ってくれる誰かがいればいいかもね」
岡がからりと笑った。
「優馬クサ~」
希が茶化し、また言い争い。まったく。
特別にはなれそうもない。けど普通はもっと難しい。
だからさ、ほしいじゃん。
―――――――――――
「普通で特別がいいの?」
浩然が真美に聞く。
「当たり前じゃないですか。普通で特別なんて思ってくれる人がいたら泣けちゃうぐらいうれしいですよ」
「…うん、なんか解るかも」
漢字ばかりの歌詞に眼を落す。今はまだ読めないその歌詞に。
学校、花屋、荒れ野、海辺、華やかな世界。
でも結局後ろ姿が普通で特別って気が付く。ぐるぐる回る。おれなら…
「堂々巡り、とかかな」
「え?」
「この歌詞の題名」
「
普通と特別を行ったり来たり。そうやってこの先もきっと進んでいくんだろう。
「ぴんふぁんだとぅーびえ…」
浩然がぽつり普通で特別と中国語で言った。日本語訛りの発音だった。しかしその瞬間、真美が眼を大きく見開いた。
「…今なんて言いました? 中国語ですよね? もしかしてしゃべれるようになったんですか?」
「え、いや、それはあの…ちょっと勉強はじめて…」
「本当ですか。もっともっと」
真美が浩然へ詰め寄る。浩然は体をねじり避けようとする。
「聞かせて」
何をどう…! 目の前に薄ピンク色に潤んだ真美の唇に釘付けとなった。そうして今日真美に話して驚かそうと思っていた中国語の例文は一気に吹っ飛んでいった。
《『スノージャスミン』 終わり》
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