学校を見つける

 浩然は一人暮らしのアパートに戻ると、インスタントコーヒーにお湯を注ぐ。お茶とは違う、コーヒーの苦く香ばしい香りが開く。


 興味…ね。

 今まで真正面ましょうめんで聞かれることなんて、中学生以降なかった。どうでもよかったか、みんな遠慮してたんだと思う。


 そして自分自身も高校生の頃、中国語勉強に挫折して以来、遠ざけてきた。

 二つ原因があった。1つは自分の発音はあまりにも悪いことだ。聞いて分かるという特性を持っているから余計に自分の発音の汚さに情けなくなってしまう。

 だんだん嫌になって、最終的に覚えようとしたのに忘れようとした。結果、一度は勉強したはずなのに今ではピンインの読み方すら覚えていない。蓋をしてしまったのだ。そしてもう一つ。


 知らず知らずのうちに兄・思遠スーユエンと比べてしまうのだ。わかっている。兄の思遠は13歳で日本へ来た。浩然よりも日本語を覚えるのに苦労したが、13歳という、この年齢で来た思遠はバイリンガルになるとしたら運が良かったのだ。


 思遠の努力と時期、それは自分には敵わないものだ。それを周りや自分自身が比べてしまうことが苦痛だった。


 でもあんなにもうやりたくないって思ったのに、どうしてまた惹かれるんだろう。



 牧瀬の叔母の教科書の作者、倉石武四郎の自叙伝『中国語五十年』を読む。古い本で、外側に向かうにつれて、コーヒーか何かで染めたようにじんわりと茶色い。古い文庫本特有の湿った紙の香りがコーヒーの匂いに溶けていく。


 明治生まれの作者が日本で中国語教育を行っていくことを書いた自叙伝なのだが、中国語が外国語として学習されるために活動した奮闘記であった。これによると、どうしても日本人は中国語を習う時、発音が漢字に引っ張られてしまい、きれいな発音ができないという。そこで、初級は中国語のローマ字であるピンインだけの教科書を作った、らしい。


――そうか、これがあの漢字のない中国語の教科書だ。写真も載っていた。一緒だ、漢字がない。


 そしてその教科書は“倉石の講習会”で使っていたようだ。ということは『倉石の講習会』に牧瀬の叔母の和田量子と澤田眞人が通っていた可能性は十分高いということだ。


 倉石は講習会を開いていたのは1951年には西神田の東方学会だったらしいが、のちに後楽園こうらくえんに近い善隣ぜんりん学生会館へ移ったと書かれている。


 浩然は東京の地図に疎いので、パソコンを立ち上げた。よくわからないが、このパソコンがものすごく遅い。辛抱強く起動するまで待ち、起動したら検索エンジンに『グーグルマップ』と打ち込んだ。


 後楽園とは東京後楽園駅だろう。文京区で東大に近い…のか。一方、善隣会館は今でも存在し、場所は六本木。いずれも神保町ではないが、後楽園から神保町までは歩きで20分。遠くはない。しかし徒歩でなら近くはないだろう。神保町の中国語教室というにはちょっと無理があるか。


 しばらく読み進めると、こう書いてある。


——政治上の問題から内紛がおこり、会館はまったく戦争のような状態におちいりましたので、


 政治的、戦争のような状態。どんな治安の悪い会なんだ…。あ、そうか、1960年代だから、きっと学生運動とかそういうことがあったのだろう。大学だけでなく、この民間学校でも起こったのか。それが元で、教室は場所を放浪したらしい。

 そして、見つけた。


——そして放浪の末、たまたま神田の内山書店がすずらん通りに店を新築する機会に、その二階三階を借用し、一九六八年九月から日中学院神田教室を開設することができました。


 神田、内山書店。グーグルマップで『内山書店』と入力。すると『中国の本 アジアの本 内山書店』と出てきた。場所は…神保町。


 今度はグーグルマップで『日中学院』と調べてみる。今も日中学院はあった。場所は後楽園。ルート検索で内山書店と付けてみると、内山書店から日中学院まで歩いて23分と出た。


 要するに、この『日中学院』は後楽園から神保町に行き、また後楽園に戻った、ということだ。なるほど、つまり和田量子たちが通っていた時と現在の場所は異なるのだ。だから単純に『神保町 中国語教室』ではヒットしなかったんだ。


 この特殊な教科書、そして神保町にあった中国語教室。それは日中学院。今もあるなら、日中学院の資料を探せば、もしかしたら澤田眞人の偽名についてわかるかもしれない。

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