優しさ
「サザエさんの子どもがカツオとワカメじゃないの?」
アニメの『サザエさん』を見ていて、日本語がわかるようになっても疑問だったこと。それはカツオとワカメがずっと母であろうサザエを『お姉ちゃん』と呼び、おじいちゃん・おばあちゃんであろう波平・フネを『お父さん』『お母さん』と呼んでいるということだ。当時このセリフのままの家族関係だとは全く信じられず、サザエさんちも複雑なものがあるんだなと妙な親近感を抱いていた。何か事情があって、母であるサザエを『ねえさん』と呼んでいるのだろうと。この話を岡にしたら、
「ひーっ、おかしいや。でもまあ、同じ日本人といえど、生きてきた時代が違うから、おれたちの尺度では推し量れない部分があるよな」
サザエさんのシーンで、カツオが浪平にこっぴどく怒られるシーンがある。ある時カツオがこう言った。
「ぼくは大人になっても父さんみたいにならない」
このセリフを聞いて、自分だけじゃないんだなって思った。
浩然が来日した当初、日本語が話せない浩然に人々はどんな反応をしていたか。助ける? 無視する? いじめる? 浩然の場合は一定数の人間が助け、一定数の人間がいじめ、大多数が無視をするという態度だった。浩然がいた当時は学習サポーターのような制度はなかったから、自分で問題を解決するしかなかった。助けてほしいとお願いしても、いつもみんなが助けてくれるわけではない。冷たいのが普通だ。
言葉が通じない、言葉を勉強していくと言うのはそういうものだ。みんなそれぞれ生活があって、みんながみんな余裕がある訳ではないのだ。1つ1つを丁寧に教えてくれる人は少ない。それが当たり前なのだ。
でも。その時浩然は思った。
僕たちはみんな無力で生まれて、小さい頃はみんな迷惑をかけて育ってきたはずだ。そして、年をとればまた他人の世話になる。それって、みんな迷惑をかけてきて、これからまたかけるのだから、優しくしなさいっていう意味じゃないの? みんな忘れてるの? みんなだって外国へいきなり行かされたら困るはずなのに。
じゃあ、いいや。僕は自分のできる範囲で人に優しく接する。そうして大人になって強くなっても続けていれば、僕の勝ちだ。
優しくありたいと思うのに、怒っているのはなんだか不思議だった。こうして浩然は頼まれたことは極力応じるようになった。
―――――――――――
今は神保町にあったという中国語教室について調べている。もし教室名が解ったら、他の資料を引っ張りだせるかもしれない。個人情報がうるさくない時代だったのなら、何か情報を拾える可能性がある。そこからもう少し澤田の『偽名』について何か解るかもしれない。というか、今はまだこれだけしか資料がないというのも正直なところではある。
授業が終わった後に、もう一度、浩然とシャンプーは大学のラウンジで落ち合った。
周りにもちらほら学生がいて、カップコーヒーを片手に、自販機で買ったアイスクリームをほおばりながら、この放課後の優しく溶けたような時間を思い思いに過ごしている。
「図書館で、この教科書の作者の、倉石武四郎については調べたんだ」
『中国語五十年』という岩波文庫を取り出す。この教科書の著者で、自叙伝のような本らしい。岩波文庫は今は朱色に近い赤色の表紙だが、この当時は青色だったようだ。
「それでわたしのしてほしいことってなんですか?」
『ローマ字中国語初級』の教科書を取り出す。
「今の目の前のわからないことをつぶしていきたい。まずこの教科書、何が書いてあるかわからないし、本当に初級の教科書なのかわからない。もしかしたら、それが解ったら教室を探すヒントになるかも…。でもこれは自分だけでは読めないからシャンプーの力を借りたいんだ」
ここで言うローマ字はおそらく中国語のローマ字こと『ピンイン』だ。
「それが浩然くんの調べ方なんですね。わかりました。でもこれ…正直、わたしだけではピンインは読めても、意味がわからないかもです。わたしまだ初級なので…。漢字がないと予測できません。希くんやほかの中国人留学生の子ならわかるんじゃないでしょうか?」
「いや、それだと中国語初級者じゃないから、澤田たちと同じ視点じゃなくなる。澤田たちに近いのは日本人で学習者のシャンプーだと思うから、シャンプーの意見が聞きたいんだ。むしろなんで初級者がわからないような教科書なのか知りたいから。それが解れば何の目的の教科書かわかる」
「ですが、ほんとうにわたしにもわからない…あ」
浩然が笑った。
「おれたち二人でやれば解るでしょ」
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