かわいい

「こんな教科書は初めて見ましたね…」

 月曜日のお昼の時間、浩然はシャンプーを呼びだした。牧瀬から預かった教科書を見てもらう。シャンプーはチェーンの取っ手がついて、happiness とか手書き風の英語が書かれた、小学生が持っているようなペンケースを取り出して自分のノートにメモしながら考えている。そんなペンケースをまだ使っているシャンプーにノスタルジーを感じざるを得ない。


 岡とも待ち合わせしているが、岡は購買で昼ご飯を買いに行っている。

 名前は伏せた上で、だいたいの事情を話した。でないと、中国語が解らない浩然にはわからないことが多すぎた。そして希よりも学習者としてより近いシャンプーの意見を聞きたかった。

「でもこれは四声を表してますね」

「アクセントってやつ?」

「そうです。中国語には漢字一つひとつに決まった5つのアクセントがついています」

「あれ、四声だから四つじゃないの?」

「軽声という音があります。正確には軽声にもアクセントありますが、表記上は何も書きません。これ、言語学の音声学の実験に近いので、和崎先生なら何か知ってるかも」

「へえ…。和崎先生、こんな時に限って先生学会で今週休講したんだよな…」

 浩然はうなだれた。しかしシャンプーは食い入るように教科書を注視する。

「でもこれ…初級ですよね? わたしもこの間中国語検定4級受けたばかりの初級者なのですが、正直書いてあること全部はわかりません」

「どうして?」

「全部ピンインで書かれているからです。日本語なら全部ローマ字で書いてあるような感じですね。漢字がないとやっぱり読みにくいというか…」

 シャンプーはまじめな初級者だ。そのシャンプーが解らないのなら、この初級の教科書はだれにとっての初級なんだ? 目的はなんだ?


「そうだ、『眞』っていう中国語ってどう書く?」

 シャンプーのノートに旧字体の『眞』と書く。

「写真の『真』、ですか?」

 と言って、『真』と書く。やっぱり目が三本で、下がつながっている。

「この教科書も50年代に発行された古いもので、もしかしたら昔は『眞』と書いていたかもしれませんね。大学図書館の古い辞書を見ればわかると思いますよ」

「ちなみにこの漢字って、よく使うの?」

「はい、よく使いますよ。初級で習うと思います。発音は『ジュン』。わたしの名前の漢字でもありますし。でもまあ、わたしあんまり中国語で下の名前言いたくないんですよね」

「なんで?」

「『真美ジュンメイ』だから」

 本当に美しい、という意味だ。

「きれいでもかわいいわけでもないのに、なんだかなあって…。あはは、すみません、こんな話されても困りますよね」

 フォローしなきゃとは思いつつも、どう言ったらいいか解らなかった。浩然が戸惑っていることを察してか、シャンプーは眼をぐるぐる動かして再び話始めた。

「初級では、そうですね、例えば、真的吗ジュンダマ?とか」

「本当に?」

「そうそう。あとは真有意思ジュンヨウイース

「面白い?」

「わあ! 本当に漢字は解らないのに聞いて意味が解るんですね! 本当に面白い。えっとではでは、真好吃ジュンハオチー

「おいしい」

 この言葉遊びが面白いのか、シャンプーは顔を寄せ、まっすぐ浩然の眼を見た。浩然も戸惑いながらもその視線を受け止める。

真便宜ジュンピエンイ

「安い」

真厉害ジュンリーハイ

「すごい」

真可爱ジュンクゥーアイ

「かわいい」

「え?」

「え、かわいいでしょ、今の」

 聞き間違えたか、と思って浩然は首をかしげると、やがてその言葉の意味が『かわいい』という意味で、シャンプーが動揺しているということに気づいた。それに気づいて浩然も慌てた。え?え?

「いや、あの、ただ意味を答えただけで」

「わ、わかってます…。あれ?」

 シャンプーの目線が浩然より後ろにいく。後ろにはカップ麺片手に持った岡がいた。岡は、

「何二人でやってんのさ? あーやだやだ」

と言って、口をへの字にして野次を飛ばす。

「違うって」

 まさか自分がなんて、と浩然は慌てながらも、そんなことを思っていた。

「あー、やだもー、あー。見てるこっちが恥ずかしいわ。おれはどっか別の場所で食べてくるよ」

「やだやだ行くなって!」

 シャンプーと浩然は慌てて岡のリュックをひっつかんだ。カップ麺のお湯がたっぷんと大きく波打つ。


「ぅわっ、あぶね!」


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