スノージャスミン

一宮けい

名前

 人はおれに会うと二度驚く。


 一回目はこの高い身長。こう言うことを言われることもある。

「日本人じゃないみたいですね」

 そして二度目。

 目の前にいる人物は驚くというより戸惑う。おれは笑いかける。噛みつきませんよ、と思いながら。


―――――――――――


 朝、大講義室の後ろでもなく、最前列でもない前よりの窓際に腰を下ろす。朝の光の粒が木漏れ日となり、きらきらと照らされた年季の入った机は水面のようにゆらゆらゆれる。スマートフォンを置くと、水没したように見える。いっそ水没しちゃえばいい。恐る恐るスマートフォンを開けると、まだメールは来ていない。


「おはっよー!って、どうしたー? 浮かない顔しちゃって」

 浅黒く焼けた岡は表面に穴が開いた、アヒルのような黄色いサンダルをばたばたさせながらこちらへ歩いてくる。

「何にも」

「ねー、中国語の発音のテストなんだけど、全然上手く読めねえの。教えてよ~」

「おれもできないって」

「えー、そうなの? ふーん? ま、いいや、今のうちに練習しとこ」


 岡は『シンプルに中国語』という教科書を取り出す。おれは文学部日本文学専攻で、岡は地域政策学部なのだが、この言語学の共通科目と英語のクラスが一緒である。英語のクラスは20人ほどの少数クラスなので、そこから仲良くなった。


 ぞろぞろと生徒たちが集まって来ていた。これを担当している和崎先生の話は興味深い。言語学の専門知識だけでなく、NPOの活動も行っているためか、地域政策学部の学生も多い。よって、この大講義室も人で埋め尽くされる。ざわざわとした教室では誰が何言っているか聞き取りにくくなる。


「らおしー、にんはお」

 岡はこのざわざわした教室で恥ずかしくないのか、声に出して中国語を話している。そんな中でもすっと聞こえてくる声がある。


“え、本当に話せないの?”

“そうみたい”


 聞こえてる聞こえてる。今日は後ろにいるようだ。


「ほあいんほあんいん」

“だってでも”

「にーじあおしぇんまみんず?」

“あの子の名前は———。”

 

 おれは頭をかぶり振り、となりの岡を見た。

「ほあいんほあいん。にーじあおしぇんまみんず?」

 岡は無邪気なこどもの劇のように同じフレーズを繰り返す。たぶん音を面白がっている。意味なんて何も考えてない様に楽し気に。


 おれは教科書を見る。漢字の羅列を見ても、ローマ字みたいなピンインも全くわからない。中国語を話すことはできない。でも岡にも、他の友達にも同級生にも話していないこと。

 それはおれがということだ。


 ほあいんほあいん。にーじあおしぇんまみんず?

———ようこそ。あなたの名前は何ですか?


 “中国人的名字吧中国人の名前でしょ

 

 おれの名前は範浩然ファン・ハオランだ。

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