後編 彼女と花火と夜のプール

 八月一日当日、午後六時四十分過ぎ。陽が落ちて暑さは若干和らいだ。

 僕はいざという時に生徒と分かるよう夏服。ハンドタオルと1Lペットボトルが入ったリュック。

 彼女も夏服は同じだけれど、何故か本校指定の大きなスポーツバッグ。


「なんで、そんなに大荷物?」

「高田くんに秘密があるように、わたしにも秘密があるのれす。ふふっ」


 と、胸を張る彼女。嫌な予感。


「秘密ねえ」

「ほほう、女子のバッグに興味ある? 漫画のネタかな?」


 それを言われると返す言葉がない……

 彼女の振る舞いは益々エスカレートしている気がしないでもない。

 

 夏休み中の部活動は午後六時終了、七時に閉門。この時期になると、職員室に残る先生方も居らず、用務員さんも七時半頃に退校する。

 花火の打ち上げ開始も同じく七時半。

 少し間に合いそうにないけれど、僕達は計画ミッションに入る。

 ささやかな非日常、罪の意識を高揚する気分で上書きする。

 ひと夏の小さな冒険。


 用務員さんは先に別館と体育館の施錠を済ませ、本校舎は最初に4F屋上、つまりプールの両更衣室を確認し、続いて各教室の窓の開閉を見て回る。

 一階ずつ消灯しながら降り、一階の出入り口全てを施錠、最後にほぼ車止めの正門を閉じる。本校舎は旧く、警備会社の防犯装置は一階全ての玄関と校舎裏口のみだ。

 僕達は正門を抜け、最上階の電灯が消えた時点で本校舎に入る。階段は建物両端と真ん中の三箇所。用務員さんは両端の階段しか使わないので、真ん中の階段を登ってやり過ごす。


 陽が落ちて益々蒼暗さが増す校舎の中、僕達は慎重に足を運んだ。

 校舎の灯りは、外から発覚する恐れがあるため点けられない。懐中電灯は用意したけれど、同じく発覚可能性が低い帰り道で使う—— と全ては彼女の調査リサーチによる。


 校舎に入ってから一言も口を利いてない。けれど、後ろの彼女は時々含み笑いを漏らす。

 はしゃぎ過ぎではないか、と若干引いたのはここだけの話。


 たたんっ、ばららっ……


 最初の破裂の音が聞こえる。大会が始まったようだ。

 前情報通り、女子更衣室のレバー錠は抗うことなくドアを開ける。先に女子の聖域に踏み入るのは憚れる。彼女が先行して後に続くと、音はさらに大きくなった。

 先に行ってて、と彼女の声。不審に思うも目前の花火の誘惑には勝てない。

 更衣室から屋上のプールへと続くドアを開けた。


 しゅっ、どどんっ、だらららっ……


 僕達の目の前で、大輪の花を咲かせる色とりどりの「菊」。

 丸く火の玉が大きく広がる「牡丹」。

 続いて鳴るのは、無数の火花を散らす「小割物」。


 おお…… と思わず声が漏れる。本校舎は長辺を東西に向けたL字型で南に校庭がある。K競輪場は南東およそ1・3キロメートル先に位置し、音が一秒ほど遅れる。

 決して大迫力とは言えないけれど、手に乗せたバスケットボールぐらいの大きさ。屋上のフェンス以外に目立った遮蔽物もないから、穴場は言い過ぎではない。

 照明は消灯されているけれど、更衣室と監視室扉の非常灯のお陰で真っ暗という程でもない。

 腰を落としてフェンス越しに校庭を覗くと、用務員さんが最後の正門に向かう姿が見える。小走りなのは用務員さんも祭りを楽しむためだろう。

 僕達の存在に全く気付いていないと、胸を撫で下ろした。


 しゅっ、どんっ、どどんっ、どどんっ、ばちばちばちっ……


 名前通りヤシの木のような火を散らす「椰子」。

 カラフルに細々とした花を咲かせる「千輪せんりん」。

 高く上がって長い光の尾を垂らす「冠菊かむろぎく」。


「お待たせ」


 その声に向くと、非常灯に照らされた浴衣姿の彼女が居た。

 暗い所為で色がよく分からなかったけれど、白地に浅い朝顔の花が踊っている。

 まるで、夜闇に浮かび上がったゼリーフィッシュのよう。

 彼女の大荷物はこのためだったのである。

 僕が言葉を失っていると、照れ臭いのか流石の彼女も声を上擦らせた。


「ああん、今年はもう着れないからっ。そろそろ受験の準備を始めないといけないし」


 普段の強気に僕を翻弄する彼女とは、まるで異なる声色。

 僕は迂闊にも素直な感想を口にしてしまう。


「かわ……」


 どどんっと僕の声をかき消す花火。


「んんー? 聞こえんなあ」

「カワウソ」

「もうっ、なんで言い直すのっ? なんでカワウソっ!?」


 意趣返しもあるけれど、もちろん照れ隠しである。


「僕がクマなら、小野さんはカワウソかなって」

「きーっ、すっごく失礼っ!」


 彼女は怒った振りをしながら、フェンス手前に立つ僕の真横まで駆け寄った。

 からころと軽い音を鳴らすのは、周到にも下駄である。


「あ、きれい」


 ざーっと無数の火の玉が枝垂れ柳を描くように落ちる「柳」。

 彼女がフェンスに向かって手を伸ばすと、浴衣の袖が僕の腕に触れる。

 花火の瞬きに照らされる、端正な横顔。


「ねえ、進学先、やっぱり美大とか目指すの?」

「いや、普通に文系。どこの大学かはまだ決めてない。小野さんは?」


 たっぷりと汗をかいて、1Lの清涼飲料をがぶ飲みする僕。

 対する彼女は、ペットボトルのお茶を舐めるようにちびちびと飲んでいる。

 灯りを点けられないので、トイレは極力避けたいのだろう。


「そっか。わたし、まだ深く考えてないけど、親がとりあえず四大行っとけって」

「へえ、小野さんもこれからなんだ」


 ハート型や土星型、魚型など、図形を模った「型物」。

 ぶーんっと高い音を立て、回転しながら無秩序に飛び回る「蜂」

 様々な花火が夏の夜空を彩っていく。


「栞は美大を目指すんだって。そっちは考えない?」

「美大は絵に偏り過ぎるから違うかなって。うちに余裕がないのもあるけど」

「ふうん、わたしもどうしようっかなあ。大学行って、その先」

「小野さんだったら、普通じゃつまらないよね」

「酷いなあ、これでも普通の女子のつもりなんだけど」


 こつこつと下駄を鳴らして、花火から僕に向きを変える。

 息が掛かる距離、すごく近い。

 動揺した僕は、ふとプールの方に視線を逸らした。

 二十五メートル・六レーン、文部科学省のガイドラインに沿った標準的なプール。お盆直前まで水泳部が使う予定で、水はまだ抜かれてない。

 風通しが良いので塩素臭は気にならない。水面が非常灯の光を返す以外は真っ暗だ。


「そう言えば、凄く早くない? 着付け」

「ふふん、横着なわたしの強い味方。かんたん浴衣ーっ!」


 自分で横着って言っちゃうのか……

 

「かんたんだから、脱ぐのも簡単っ。あーれぇー、良いではないか、良いではないか」

「は……」


 在ろうことか、くるくるとその場で回りながら、彼女は帯を解き始めた。

 丸めた帯を口が開いたバッグに投げ入れると、次は浴衣に手を掛ける。

 そして、浴衣の下から現れたのは淡い色合いの水着である。

 無数の小花がプリントされたそれが、彼女のトルソーを覆っている。

 もちろん僕は唖然とし、再び言葉を失うこと数秒。

 

「ちょ、ちょっと待てっ、なんでまた水着……」

「だって描きたかったんでしょう? にだーんへーんしーんっ、ふふっ」


 右に腰を傾け、グラビアのポーズのようにショートの髪をかき上げて見せる。

 連絡があった夜、僕のジョークに即乗っかったのは布石だったのである。

 彼女は下駄を脱ぎ、つま先をプールに入れて水の温度を確かめる。


「いや、ノート持ってきてないしっ」

「おやそれは残念。もう一つのお楽しみだったんだよん」

「えぇ……」


 呆れている僕を尻目に、彼女は足からプールに飛び込んだ。

 高い水飛沫を上げ、すぐ髪までずぶ濡れになったけれど、お構いなしに泳ぎ始める。

 プールの中央に向かって、人魚の背中がぐんぐんと遠去かる。

 みるみる真夏の夜に溶けていく。


 この瞬間を描きたい—— と、つい本気で思ってしまう。

 流石に描くには辛い暗さ。だけど、ノートを置いてきたことを少しだけ後悔。


「ああ、気持ちいい。一度やってみたかったの、暗闇プール。クマさんもどう?」

「僕はいいよ、海パン持ってきてないし」

「暗くて見えないから、素っ裸でもわたしは平気だよ?」

「いやだから、いいって」


 まだ花火が続く中、しれっと刺激的なことを言う。


「ふふ、何ならわたしも脱ごうかな?」

「…… あ、あのさあ」

「一瞬、考えたな。オヌシも男の子よのう…… あっ、いっ、痛ぁっ!」

「あ」


 突然のこむら返り。要するに彼女は脚をつったのである。

 飛び込み台のあるプール両端は水深一二〇センチ。だけど、中央付近は一六〇センチまで増す。つまり彼女の身長では水面から顔を出した状態で足が付かない。

 恐らく原因は脱水症状。トイレを気にして水分補給が足りなかったのだろう。

 ばしゃばしゃと水面を叩きながら、何度も浮き沈みしている。

 このままでは溺れる——


「小野さんっ、今行くからっ!」


 迷っている暇がない。夏服のままプールに飛び込む。

 溺れ掛かった彼女に辿り付くと、その薄い身体を抱え上げた。

 踵を浮かせばつま先が付く。この時ほど己れの身長を有り難く思ったことはない。

 彼女はしきりに咳き込みながらも、必死に僕の首に両の腕を回す。

 込められた力が、溺れる恐怖を物語っている。

 ようやくプールの縁まで辿り着き、僕達は一息ついた。


「う、うう、ごめん。た、高田くん……」

「いいよ、しょうがない」


 華奢な腕、撫で肩でほっそりとした身体、びっしょりと濡れて顔に張り付く髪。

 僕の腕の中で小さくなった彼女。

「エキセントリックな女」が「普通の女の子」になった。


 結局、彼女が次に口を開いたのは、花火大会が終わった頃だった。





 用務員さん、ごめんなさい——

 そう心の中で呟いて一階校舎裏の窓から外へ出る。残る正門も無事クリア。

 彼女は歩ける程には回復したものの、大事を取って駅まで負ぶうことにする。

 もちろん僕の夏服は乾くはずもなく、彼女との間にタオルを一枚挟む。

 以下、ようやく陽気さを取り戻した彼女。

 

「はあ、高田臭が移っちゃうな、わたしに」

「はは、酷いな」

 

 彼女の頬が僕の側頭部に触れる感触。

 続いて、すぅーっと匂いを嗅ぐような長い呼吸。


「くさい」

「ちょっ、えぇ……」

「ふふ、助けてくれて、ありがと」




***




 お盆が終わり、受験の資料集めのため池袋に足を延ばす。

 ついでに画材店に寄ると、後ろから馴染みの声。

 小野さんの親友、斎藤栞さんである。


「あら、高田くん偶然」

「斎藤さん、こんなところで」


 手には大判のスケッチブックと数本のリキテックスを抱えている。

 予備校と言っていたのは、恐らく美大向けだろう。

 その斎藤さんが意外な言葉を口にする。


「あれ? もしかして美鈴、一緒じゃないの?」


 あれから時々電話で話すようになったけれど、本来二人だけで出歩くような仲ではない。

 そう言えば、斎藤さんは僕達の「借り」、ノートの件を知っているのだろうか?

 僕は今まで一度も考えてなかったことに動揺を始める。


「え、え? いやその、なんで?」

「てっきり……」

「てっきり?」


 斎藤さんは何かを察したか、さり気なく話題を変えた。


「あ、ごめんなさい。ああ、それより美鈴から聞いた。花火大会」

「それは……」


 再び言葉に詰まる。それはそれで反応に困る顛末、と言うか。

 ふふっと唇の端を僅かに上げる斎藤さん。


「いいこと教えてあげる。私ね、美鈴に誘われてないの」







 あ。




 ええっ!?





――――――――――――――――――――




※この物語はフィクションです。学校等、公的および私的施設への許可なき侵入は不法行為であり犯罪です。本作はそれらを推奨するものではありません。

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