Act 5
ビリーから目撃情報の垂れ込みを得たエレノアは、即刻それを上司に報告した。そして今、早朝のドブ河を捜索隊が漁っている。エレノアは気が気でなかった。もし自分の見込み違いなら、偽りの申告によって公費を無駄遣いさせたことになる。何より汚れた臭う河で、多数のダイバーに無駄骨をおらせたとなれば心が痛む。どうか死体が見つかりますように。
「情報をくれたのは、あなたの受け持ちの少年ね?」ソフィアが尋ねた。場を仕切っているのは刑事課だが、少年課も数名参加している。
「はい。ビリーという子です」
「信用できるの?」
「そう思っています」嘘をつかせておいてなんだが、それは本心だ。「彼はわざわざ言わないでもいい嘘をつくタイプじゃありません。勘違いということはあれ、見てもいないことを言う子じゃない」
「あなたが言うならそうなんでしょう」一瞬嫌味かと思ったが、どうやら違う。エレノアは驚いてソフィアを見上げた。「あら。褒めちゃいけない? あなたはうちの誰よりも少年たちから信頼されてる。私が知る限り、確かな評価」
いい情報をとってきたことがお手柄だから、そう言うのだろうか。褒め言葉を素直に受け取れないのはこの国全体の病みたいなものだ。それでも上司の思いがけない評価にエレノアは嬉しくなった。
「見つかるといいけど」上司が爪を口元へやった。そして、すぐ離す。「ああ、やだ。外だった」
「なんの騒ぎだい?」
そのとき背後から声がかかり、二人は同時に振り返った。よれよれのスウェットの上下を着た妙齢の婦人が、険しい表情で二人を交互に見た。「朝っぱらから」
「すみません。ご迷惑をおかけしています」
「警察なの? 何探してんだい」
「目撃情報がありまして」ソフィアは当たり障りのない返答をした。
「あっそう。まあ、お上のやることなら仕方ないけどね。ただでさえ眠りが浅いのに、こうもうるさいと……いつ終わるんだい?」
「昼過ぎまではかかりません」
「そうじゃなくてさ。何日に終わるの」
「何日?」ソフィアは困惑をにじませた。「そう何日もは……」
「早く終わらせてくれないと、ぐっすり眠れないんだよ。もうここんとこずっとじゃないか」
二人は顔を見合わせた。「あの、どういうことですか」
「なに? だから、ここんとこ……」
「以前から、朝方に、こうした物音がしていたと?」
「そうだよ。なんの音かはわからなかったけど、今日見てわかった。モーター音だろ? なんだい、ありゃ。ボートというか……クルーザーとでもいうのかね」
二人は再び顔を見合わせ、そして正面を向いた。口を開くのは、エレノアが一歩早かった。
「あの、すみません。その件詳しくお聞かせください」
「は? どういうこと?」
「騒音というのは、いつから?」
「おたくが一番よくご存じでしょ」
「恐らく別件です。貴重な情報かもしれません」
「別件?」盛大に眉をしかめたあと、ようやく婦人はピンときたようだ。「つまり、あんたらじゃない?」
「はい。別人によるものと」
「ええと、ちょっと待ってよ」文句を言うべき相手が違ったことを知り、婦人は些かしどろもどろになった。「毎日じゃないんだよ。けどここんとこ、たまにね、……いつからだったかね。だけど先々月くらいかな……もしかしたらもっと前かも」
「二、三ヶ月ほど前から、度々、騒音があった?」
「うん。河のあたりから、ぶぅぅぅんってさ。今聞こえてるみたいな音」婦人は河に浮かぶ、捜査用の小型クルーザーを指した。「あたし、歳とって眠りがね。あんたたちにはまだ分かんないかもしれないけどさ。ちょっと何かあると、すぐ目が覚めちまう」
「分かりますよ」ソフィアが言った。「長い時間続けて眠れないと、辛いですよね」
「そうなんだよ」婦人がうんうんと頷いた。「しゃっきりしないし、気が滅入るし……」
「それはだいたい何時ごろに?」エレノアは焦れる気持ちを隠しきれなかった。
「ああ、ごめんごめん、朝のね……四時くらいかねえ、そんなところ。うん、四時だ。諦めてテレビをつけた日があったからさ。いつも変わんない時刻」
「四時ごろに、クルーザーの音が、河の方から……」婦人の言葉を反芻する。
「毎日ではないと仰いましたか。だいたい何日おきに?」ソフィアが尋ねた。
「ううん。一週間、……もっと長いかね。十日にいっぺんくらいかなあ。一回来ると、しばらくいてさ。でも窓の外からは何も見えないし。なんだろと思って……」
二人は婦人の背後を見上げた。一階が居酒屋、二階が居住スペースと見える。婦人が首だけ後ろを向いて、すぐ向き直った。「そう。あの窓から。でも窓を開けて身を乗り出すまではしなかったよ。面倒だもの」
ならばこの家の正面ではない。「音は、どこから?」
「上のほうかねえ」婦人は首を傾げた。「多分そうだね。窓から見て、右のほうだったから……」
もっと手前、上流のほう。エレノアとソフィアは河に向き、ダイバーたちに伝えるためその姿を探した。すると、彼らはちょうど上流へ移動しているところだった。何人かが既に潜っている。ふと、浮かんできた人影が、こちらを向いて腕をぐるぐると回した。何かを見つけた合図だった。
ジョイスは狭いビジネスホテルのテーブルに手帳とスマホを載せて、腕を組み、考え込んでいた。早朝に目が覚めてしばらくぐだぐだと寝返りを打ち、やがて起き上がり支度を済ませコーヒーとパンを胃に収めたあと、それからずっと、こうしている。自分がどうすべきか分からなかった。
知りたかったことは、もう全て知った。十年前の神父殺害事件は、ずっと昔に済んだことであり、誤解を恐れず言うならばクズが一人死んだだけのことだ。事件発覚直後なら明かすことで守れるものもあったが、ここまで土が古くなっては掘り起こすことを誰も望んでいない。それでもこれは殺人罪で、償われるべき罪なのだ。自分は追及するべきかどうか。きっと黙って埋め直しても、何の不都合もないだろう。
現在進行形で起きている残酷な殺人事件に関わっていると思えばこそ、ここまでスコップを突き立ててきた。だがそれが筋違いだったことはもはや明白だ。エレノアの言う通り、そちらの犯人があの下衆野郎なら、ますます自分にできることはない。そのうち優秀な本庁の刑事があの男を確保するだろう。そして今度こそ、死ぬまで牢にぶち込む。
それはジョイスの悲願でもある。四年前のあの日からずっと。
あの日、どうしても疑念を晴らせず、居ても立ってもいられなかったジョイスは、単独で男の家に踏み入ったのだ。真夜中、午前二時。最後に失踪した歳若い少女は、今までの犠牲者と違って親元にいた。帰る場所があった。帰りを待っている者がいた。家出をし非行に走るだけの理由はあったにせよ、娘を思って泣く母親の姿を見てジョイスは胸を締め付けられた。そして熱意に燃えた。絶対にこの子を殺させない。無謀だった。向こう見ずだ。何より愚かだった。それでも、自分があの日行かなければ、少女は警察が足踏みしてる間に殺されていただろう。つまり結果は同じだった。それで消える十字架ではないが。
ジョイスは男が拐った少女をまだ殺していないと確信していた。遺体の状況から推察できることだ。犯人は女性たちを散々いたぶった後に殺している。行方不明になってまだ一日だ。まだ間に合う。今の時点では令状は取れないが、強行突破すれば必ず証拠がある。その分で多少の減刑を奴が得たとしても極刑は免れないはずだ。だからやってやる——それでもし自分の思い違いなら職を失うことになるが、それでもいいとジョイスは思った。人一人の命より大事なことなんて何もない。
男の家の敷地は広く、原生林の一部が含まれた。裏山からこっそり忍び込み、地下室や人目につかない小屋などがないか探し回った。秋露に濡れながら小一時間、歩き続けて、何もない。だんだん阿呆らしくなり、自分がとんでもない大馬鹿者に思えてきた。もう帰ろうか。今戻れば少なくとも失職はせずに済むだろう、——だがその時、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。それはほんの微かな、気のせいかとも思う細い声で、だが確かにジョイスには聞こえた。駆け出した。明かりのついた小屋が見えた。木々の間に隠されていた。
小屋の扉の前に着くと、また悲鳴がした。今度は疑いようもなく、——どころか耳を塞ぎたくなるほど悲痛な叫びだった。胃の腑が握り潰されるような感覚を味わいながら、ジョイスは頭を一気に働かせた。どうすべきだ? それで携帯を取り出し、当直の寝ぼけた声を遮るように居場所を伝え、応援をよこせと怒鳴って切った。あとは踏み込むしかない。ジョイスはスーツから小型拳銃を抜いた。これも違反だった。
ドアノブをゆっくりと回す。鍵は開いている。
中に踏み込むと、声がはっきりと聞こえた。すすり泣くような声に変わっている。何かを懇願していた。ジョイスは怒りで吐きそうになるのを堪えながら声の場所を探った。一階部分は普通のログハウスに思えたが、寝室に地下室への扉があった。普段はベッドで隠しているようだ。だが開いている。ヤツが来ている。
銃の安全装置を外す。足音を抑えて地下室を下る。階段の先に、また扉があった。扉についた小さな窓から人の頭部が見えた。短い金髪。あの男。間違いない。こちらに気付く気配はなかった。
小窓から中を覗く。少女! 裸で台に縛りつけられ、既に多くの傷を作っている。男の手には、サバイバルナイフが握られていた。少女の顔は涙でぐちゃぐちゃで、恐怖に染まり切っていた。慌てて目を逸らしたが、露わにされた秘部からも血が流れている。歯軋りするのを懸命に堪えた。
踏み込むタイミングをどうするか。この部屋に関しては、鍵がかかっているに違いない。木製だから力尽くで壊そうと思えばできるだろう。だがこれ以上中の少女を傷つけさせるわけにいかない。どうしたらいいか、迷った。
その時、男がナイフを振り上げた。少女の子宮に、差し込もうとしていた。
「やめろ!」
思わずジョイスは叫んだ。男が、ギョッとして一瞬こちらをむいた。だが鍵がかかっているのを見て、男の顔は薄ら笑いを浮かべた。ジョイスはドアノブに手を当てて必死で回し、体当たりをした。それから気づいて拳銃を構えたが、一歩遅かった。
絶望的な悲鳴。頭が真っ白になった。
「やめろ! ふざけるな、開けろ! この野郎!」
男はもちろんやめなかった。刺したナイフを抜いてもう一度、今度はそれを左胸に刺した。そのあとのことを、ジョイスは覚えていない。
気がついたら同僚に羽交い締めにされていた。目の前には顔中を腫らし、血を流したあの男がいた。呆然として目を移すと、少女の裸体があった。血の気が失せ、冷え切っている。虚ろな目。視界が歪んだ。息が出来ず、とめどなく涙が溢れた。嗚咽しか出ない。同僚が、気の毒そうな目で見下ろしていた。
ジョイスの様々な勤務違反と法規違反、そして傷害罪は、少なからずあの男に有利に働いた。それ以前に彼は用意周到で、ほとんどの罪の証拠を処理してしまっていた。立件できたのは、最後の殺人一件だけ。自分のしでかしたことの報いとして、港町への左遷はむしろ温情が過ぎるとジョイスは思った。職を失うどころか牢に繋がれたって文句は言えない。
それからはその日の夢ばかり見た。少女に罵られ、少女を喪った母に罵られ、あの男に嗤われた。ジョイスの目の前で彼女は何回も殺された。自然と不眠になった。だがそれも時が経つに連れ収まり、今では彼女が死んだあの日に見る程度だ。いずれは当日にさえ、何も見なくなるのかもしれない。それが怖い。簡単に罪を忘れ、簡単に過去にできてしまう自分が、許せない。地下室で、助けが来たのを目の当たりにしながら殺された彼女の無念はいかばかりだったろう。考えるたびに頭を掻き毟りたくなる。少女の無念は、自分の無念でもある。もう取り戻せない。
ふと、スマートフォンが振動した。エレノアからのショートメッセージ。内容を見て、ジョイスは腰をあげた。手帳を手に取り、スマートフォンを仕舞って、出かける準備をする。今の自分にできることは、開けてしまった棺の中身を片付けること、それだけだ。カーティスの住居は知っている。十五分とかからない場所だ。
19
愛する者がない人生は不幸だ。
何も恋人だセックスだという話をしているわけじゃない。もっと根本的なことだ。友人、家族、ペット、育ててる花。なんだって構わないけれど、愛情を傾ける相手が人には必要だと思う。少なくとも僕には必要だ。僕には僕一人のために生きていくのは無理だった。だってお金はあって、家はあって、やるべきことはほとんどないから。他の誰かが作り上げた素晴らしいものを消費するだけで、自分に生きる目的がない。なんら生産性がない。あるものを使うばかりの人生。
両親の事故を聞いたとき、僕は頭が真っ白になったが、一方で、頭蓋の裏側に、笑ってしまっている自分を感じた。面白がっているのではなく、あまりのことに笑うしかない。僕は恵まれた環境に生まれた人間なのだろうが、それを差し引いてもかなり運が悪いと思っている。姉には虐待されるし、神父には手を出されるし、おまけにまだ二十二なのに若い両親が一度に死んだ。両親は五十にもなっていない。跡を継ぐのだって、まだまだ先と思っていたのに。
とはいえ僕は自分で何かを考え出さなくていい立場だった。提案される考えの中から、一番良さそうなものを都度選んでいけばいいだけだ。まもなく僕は、案外この家を運営していくのは難しくないかもしれないと気付いたが、そうした実務が片付いて後に残るのは結局のところ、どう足掻いても片付けられない、喪失だけだ。「無い」ということを、すっきり片付けることはできない。顔もろくに合わせていない親類縁者をさておけば、僕は血の繋がった家族をみんな失ったことになる。あんまりだ、とまた思った。
もちろん僕はいい人間じゃない。神に愛されていない自覚は誰よりもあるつもりだ。僕は人を愛するときは、その人になんでもあげる。その人に痛みや苦しみや悲しみがないことを祈り、良いことだけがあるように、心穏やかにあることを願う。だから神が人を愛してるなんて僕はそもそも信じていない。愛おしかったら苦しめない。僕を慈しんで育てた父母と神のどちらを信じるかといえば、父母に決まっている。彼らの愛が正しい。
今や僕のものになってしまった父の書斎に立ち入ったとき、僕は書物机に腰掛け、彼からいつも見えていた景色を確かめてみた。無数の書籍と、高い天井。祖先の肖像画。机の上に、僕たち家族の写真がある。どの写真にも姉の姿がないことに満足したが、とはいえ僕は確信しながら引き出しを開けた。案の定、彼の愛しい娘の写真はそこに隠してあった。僕はそのことにも満足した。何を犯した人間であれ、父は娘への愛情を捨てられなかったはずだった。つまりそれは、僕が何をしても、父はきっと僕を愛し続けてくれるだろうと信ずる根拠だ。天国で父は様々なことを知ったろう。それでも僕は捨てられていないと信じられた。あんな女さえまだここにいる。
けれども、では僕は、誰を愛してこの先を生きていくのだろうか? 父母のように夫婦となって、子を儲け慈しむことは僕には無理だ——無理に決まってる——なら養子を探す? それは妻を必要としないことを思えばいい案だった。けれど結局は同じだ。大きな賭けだ。自分一人が痛い目にあうなら賭けてみるのも構わないが、愛せなかったらどうするのか。どれだけ尽くしても、心の有無は伝わる。そんな切なさや絶望を味わわせることになってしまうなら、いっそ何もせぬほうがいい。
それでは、一人で? もういない者を思いながら、死ぬまでをただ生きていくだけ?
ぞっとした。なんて空虚! そんな状態で生きていたって、死んでいるのと何も変わらない。
愛すべき人が欲しい。愛する理由がある人が。愛していると確信できる相手が。それも今すぐに必要だ。いずれあるかもしれない出会いを気長に待つなんて、心がもたない。この不安と未来への怖れを抱えたままでいったい何年耐えられるというのだろう。兄弟がいたら、——僕をまるごと叩き壊して笑っていたあの女じゃなくて、支え合い、言い合いもしながら、それでも固く結ばれた兄弟が僕にいてくれたら。
その時、ふと、過るものがあった。
僕の〝
彼を忘れたことなどなかった。あの日渡した電話番号は、ずっと契約し続けている。でも十年間ただの一度も彼から連絡が来たことはなかった。彼は忘れているのかもしれない。彼にとっては僕なんて、ちょっと顔を知ってるだけの同級生に過ぎないだろう。僕にとってはそうでなくても、……でも、それでいい。僕は確かに彼が好きだ。間違いなく、彼が好き。僕は彼を愛している。
家族になってくれないかな。できれば、血を分けた兄弟に。
探そうと思った。きっとこの街から出ていない。しばらくは当主としての仕事がごたつき、なかなか時間が取れないだろうが、ちょっとずつでいい。行方を探す。死んでいる可能性は、もちろんあったが、僕はなぜだか、彼は生きているはずだと思った。信じたかっただけかもしれない。でも予感があったのだ。あの気高い鷹のような彼が、そう簡単に死ぬはずはないと。そうしていたら、なんと、彼から、連絡が来た。あの番号に!
運命だと思った。やはり、僕には家族が必要なのだ。
ジョイスは思いがけないドライブに据わりの悪い心地がしていた。泊まっていたホテルから徒歩で十五分ほどの、カーティスの在家を訪ねたら、メイドは家主の不在を告げた。実家のある都市部近郊へ戻っているところだという。正確な行先を彼女は知らず、代わりに彼の実家に繋がる電話番号を教えてくれた。車中でかけてみると、今度は豊かな声をした老年の紳士が出た。カーティスは実家に来ておらず、恐らく所有の陶芸園へ足を運んでいるだろうという。
彼は陶器のコレクターで、若いアーティストを支援しており、彼らにいつでも貸し出せるよう、潰れかけていた窯をいくつか買い取っているそうだ。また空いた土地にそうした窯を新たに建設してもいる。彼が建てた「陶芸園」には、さまざまな形式の窯を備えた多くのアトリエと、そこに籠りきりで暮らしても支障がないような施設があって、また彼がプライヴェートな時間を過ごすための特別な場所が敷地の奥にぽつんとあるらしい。彼がそこにいるという確証はないものの、他に行くところもないので仕方なく車を走らせている。
園の電話番号は分かったが、彼が一人で過ごすというその奥地のアトリエには電話線が引かれていない。携帯の番号は、警察手帳を提示できるでもない通話では教えてもらえなかった。当然だろう。往復二時間のドライブが、無駄足になるかもしれないことがこの居心地の悪さの原因なのか。とはいえジョイスは車の運転を嫌っているタイプではない。特にこうした田園地帯を、それも夏の美しい時期に、のんびり味わいながら行くのは悪くない。なのに、落ち着かない。
もしかしたら引き返すべきなのかもしれない——虫の知らせという言葉もある。どういう理由か分からないが、俺は彼を訪ねに行くべきではないのかもしれない。思ったが、過去の記憶がすぐさまそれを否定した。単身、犯人の元に向かったあの夜、俺は少しもそんなことを考えなかった。だが失敗した。行くべきでなかった場所に向かっていたのに、何のざわめきもなかった。今のこれだって役に立つまい。
無心で車を走らせる。代わり映えはしないものの、目に快い新緑が道路の脇に延々と続く。陽が明るい。陽光というのは、やはり人間の心持ちを確実に上向かせてくれる。イタリアやスペインの人々がああも陽気なのは、始終太陽を浴びれる土地であるからに決まっている。俺たちだってきっとそういう土地に生まれれば違ったのだ。だがしとしとと雨の降る分厚い曇天が我々の故郷で、今更移り住んだところで、たぶん性根は変わらない。雨雲にも雨雲なりの美しさはあるものだ。それに満足するのがせいぜい。
遠くに、風景の途切れる一角があった。いくつかの建物が見え、門らしきものも窺える。カーナビを覗くと、思った通り、目的地が近づいていた。まずは管理人に話をしなければ。その説明の段取りを組む。だが結局、その必要はなかった。門へ向かうとややふくよかな体形の女性が一人立っていて、ジョイスの車を止め、窓を下げさせた。
「こんにちは。お名前を伺っても?」
「ジョイス・ハーディ警部です」ジョイスは窓から身を乗り出し、警察手帳を開いた。
「ダウンシー署のジョイス・ハーディ警部ですね」女性はスマートフォンを開き、警察手帳と見比べて何やら細かく確認している。署に電話をかけられやしないか、ジョイスは内心不安だった。今のジョイスにはこのような捜査を行う権限はない。署の上役はジョイスは今ごろ、メキシコのバーでタコスの一つも食べているものと思っている。
「ロードにご用件がおありだと伺っております」
やがて女性はスマートフォンの画面を切ってポケットに仕舞った。どうやら手帳が本物かどうか、ネット検索で細部を確かめていたらしい。先ほど電話口に出た妙齢と思しき紳士が話を通してくれたものと見える。ということは、〝ロード〟本人にも連絡は行っているのだろう。
「ええ、捜査中の事件のことで、ご協力賜りたいことがあって」ジョイスはいつも以上に言葉に気をつけることにした。
「ロードは喜んでお迎えすると仰っています。道案内を致しますので、同乗しても構いませんか」
「はい。お願いします」
車内に戻り、それから反対側へ乗り出して助手席のドアを開けた。女性は正面を大きく回り助手席へ乗り込んでくる。シートベルトを締め頭を下げると、また車道に出るように言った。別の入り口があるそうだ。園内を走り回るよりは、そのほうが帰りも楽だろうと言う。
案内に従って走り、すぐに脇の細い道へ入った。私道だそうでほとんど車一台分の広さしかない。基本的には伯爵一人が行き来する道なのだろう。曲がりくねる私道を道なりに進むと、次第に森が濃さを増してきた。頭上を覆う樹々が増え、空が暗くなる。
「こちらです」
女性の合図で車を止める。また背の高い門があり、奥に道が続いていた。
「ここからはお一人でどうぞ。迎える準備はしてあるとのことです」
「分かりました。ええと、」彼女の名前を聞きそびれていた。「お名前は」
「アシュリーです」
「アシュリーさん。あなたは? 足はありますか」
「ええ。そちらのバイクで戻ります」アシュリーが門の脇を指した。生い茂る草木に隠れて見逃していたが確かにある。バイクというよりスクーターだ。
「そうですか。ご案内どうも」
エンジンを切って車を降りる。アシュリーも車から降りて、そのままスクーターのもとへ歩くと、草木の中から引き摺り出した。一応ヘルメットも備わっている。走り去るエンジン音を背後に聞きながら門を見上げると、カメラでもあるのか、一人でに開いた。
アトリエまでの道は舗装されていて、石畳が敷いてある。安い革靴の底で叩いても良い音が鳴った。小鳥の声を耳にしながら森林を抜けると、不意に広く開けた空間に出る。刈り整えられた緑の広がるなだらかな丘の中央に、美術館を思わせる外観の、近代的な建物がある。テラスに面した大きな窓から家主が見え、こちらに手を振った。真っ白な壁には少しも風雨の跡が見られない。
ドアがどこだか分からずにジョイスは数分行ったり来たりした。やがて思いがけない場所が横にひらいた。ジョイスは驚きながら振り返り、頭を下げる。
「どうも。アイゼルレイン伯爵ですか」
「ええ。カーティス・シザーフィールドです。どうぞカートと」
「では、……カーティスさん。すみません、おくつろぎのところ」
「いえ。夕方人を呼ぶ予定がありましたから」笑顔で中へ招きつつ、彼は眉根を下げた。「なので、それまでしか時間を取れないのですが」
「大丈夫です。さしてかかりません」
富裕層の住む家というのはどこも代わり映えしない。彼らが買うブランドは大方共通しているし、彼らが好むデザインの傾向も大体統一されている。対して小市民の住む家は、その生活感ゆえに、住む人の人柄や性格、人生までもが滲み出て、何とも味わい深いものになる。仕事柄さまざまな家を訪ねる機会があったジョイスは、まるでインテリア雑誌の一ページのような内装に密かに眉をひそめた。個人的な好み云々の前に、この部屋からはカーティスについて何のヒントも得ることができない。
「紅茶でも? ハーブティーもありますが」
「ああ、いえ、お構いなく。急に押しかけたわけですし」
「ついでですから。じゃあ、紅茶にしよう」
リビングダイニングと一続きの広いキッチンへ向かうカーティスは、白のコットンシャツに細身のデニムという出で立ちだったが、よく見るとシャツのほうは少し変わった形をしている。写真を見たときも思ったが華奢な印象で脚が長い。間近で見た顔は事前の印象と変わることなく中性的で、喉仏もあまり目立たなかった。もちろん声にしろ体格にしろ青年に違いないのだが、ふとした瞬間女性にも思える。幼い頃はさぞかし愛らしかったことだろう。——胸が悪くなる。
「どうぞ、そちらに」テーブルに着くよう促して、カーティスはポットとカップを置いた。こんな家に住む人間はきっとガラス製のものを使うだろうと思っていたが、意外に陶器だ。柄のない白のものだがころんとした形に愛嬌がある。そういえばそもそもここは「陶芸園」の中であった。
「それで、お話って?」
ジョイスは閉口した。どう切り出したものか。
時間を稼ぐような気持ちで出された紅茶に口を付ける。芳醇な香りとその温かさが心を和らげてくれる。カーティスはそんなジョイスを窺うように見つめていたが、やがて悪戯を思いついた子どものようにくすりと笑った。
「神父様のことですか?」
思わず噎せ返るところだった。「どうしてそれを?」
「すみません。実を言うと、オリバーから連絡があって」彼もまた紅茶を口に運んだ。「十年前のことを話してしまったと。電話口で必死に謝って……」
「そうでしたか。彼にはつらい告白をさせてしまいました」
「僕は怒っていないし、むしろすまなく思っていると伝えました。彼は何にも悪いことをしていないのですから。僕が彼に強いたことは残酷だったかもしれません。心根の優しい人だから、抱えているのはつらかったでしょう」
淡々と述べる彼の表情は穏やかで、感情のうねりは見られない。だが彼がどんな人物なのか、ジョイスには全く見当もついていなかった。だから鵜呑みにはできない。人の善悪は容易に測れないが、一つだけ、刑事が見抜くべき重要な点がある。嘘がつけるか、つけないかだ。
「つまり、貴方は、……オリバーの話したことを、全て認めるということですか」
「ええ。些細な記憶違いくらいはお互いあるかもしれないけれど、わざと偽りを述べるような人ではありません」カーティスはティーカップを置いた。「そうであったら苦労もなかった」
「苦労?」
「なんと言ったらいいか……彼が完全に知らんぷりをできて、有る事無い事でたらめに言い立てて平気でいられる人なら、そもそも彼は悩むはずがないんです。つまり僕の秘密で、彼を苦しめることもなかった」
ジョイスは注意深くカーティスを見ていた。彼の言葉は本心に思える。だが一方で彼を無害な人間と認めることはできない。何につけても判断の早そうなあの青年——エドワードが、カーティスをどう見るべきかずっと迷っていたのは、おそらく、彼が容易に理解し難い人間性を持っていたからだ。あの青年も、嘘や本心を見抜く鋭さを持っていた。ジョイス自身も見抜かれた——であれば彼はカーティスの善良さも分かっていたはずだ。それなのに警戒心を捨てられなかった。
「はっきりさせておきたいのですが」ジョイスは一歩踏み込んだ。「カーティスさん。貴方は、十年前ティモシー・リーヴズを殺したと認めるのですね?」
「ええ」穏やかな表情のまま、彼は頷いた。「殺しました。盥に沈めて」
胸をうそ寒い風が吹く。その様子からは強がりも開き直りも感じられない。心底から、「大したことじゃない」と思っている。自分が人の頭を押さえて、その手で溺死させたことを。
「殺人罪に、時効はありませんよ」
「知っています。あったとして、十年では短すぎるでしょう。でも今更立件するにはあらゆる証拠が足りないのでは?」彼の声はひどく落ち着いていた。「ここで僕が自供したといっても、法廷で裁く段になったら僕はいくらでも覆せる。オリバーの証言だって十年前の遠い記憶です、見間違いだと言い張ればそれを否定する根拠はない。そもそも貴方は休暇中で、これは正式な捜査ではないのに、僕がここで何か話したところで収穫になりますか? 録音をしていたとしても、そんなものは採用されない」
滑らかに話した後で、彼はふと目をあげ、ジョイスの強張った顔を見た。悪戯っぽい笑みがまた浮かぶ。
「貴方の身元くらい、調べはつきます。僕のスタッフは優秀なんです」
ジョイスは声を発せなかった。カーティスは些か、わざとらしいため息をつく。
「貴方だって本気で僕を逮捕する気はないでしょう? 僕が今言ったくらいのこと、貴方に分からないはずがない。それともその気でいたんですか」
「……いえ……」
「ならもっと別の話をしましょう。貴方はそのためにわざわざきたのだと思っています。違いますか」
ジョイスは後悔していた。やはり一人で来るべきじゃなかった。というより、こんな状態で対峙していい相手ではない。
カーティスの言う通り、ジョイスに彼を逮捕する気は毛頭なかった。やろうとしても不可能だ。すでに遺体は灰になり、殺害現場に残っていたかもしれないあらゆる痕跡は証拠能力を失っている。立件できっこない。道徳と職業倫理の狭間で懊悩するまでもなく、その試みには意味がないのだ。だからもとより、勝負を仕掛けに彼に会いにきたわけじゃなかった。ただ自分の目で直接見て判断しておきたかっただけだ。事件の中心にいる、一番大きなピースを。
「エドワードとは」自然と、口をついた。「どのような関係で?」
「なかなか説明が……難しいですね。貴方は何を知りたいんです?」
「どういうつもりで、あなたが彼に近づいているのかを」
それを聞いてカーティスはけらけらと笑った。口を引き結んでいるジョイスに気づき、すぐに収める。
「ああ、すみません。どうしてかな。僕はどうも怪しまれてばかりで。おかしくなって」
「怪しまれてばかり?」
「悪意や企みがあるんじゃないかと。当のエドワードにも」
「正直なところ、意味が分かりませんから。あなたが彼を支援する意味が」
「そうですか? 単なる恩返しだとは思いませんか」
「恩返し?」
「あの虫を潰してくれたのは、彼ですよ」カップに手を添えながら、彼は言った。「沈めたのは僕でも」
虫、——強い侮蔑のはずだが、不思議とそうは聞こえなかった。悪意をもってその様に称しているのとは響きが違う。「彼が神父を殴ったことを言っているんですか」
「ええ。僕はその場にいました。とても鮮やかな瞬間だった」
「エドワードはそのことを?」
「たぶん知りません。気づいていなかったと思います。僕はこっそり中へ入って、ずっと、息をひそめていたから」
思いを馳せる。教会のどこかに潜み、神父がまた同じように同級生の少年を襲おうとしている様を、何もできずに見ていた、十年前の彼……だがその同級生は、神父に屈することなくキリスト像を振り翳し、彼に言わせれば、「虫を潰してくれた」。彼の中でエドワードが特別な存在となるには十分以上の出来事だろう。しかし、なぜ、今になって。
「盥に沈めた後、僕は急いでエドワードを追いかけました。彼は学校の敷地の外のバス停でバスを待っていた。そこに僕は追いついて、電話番号を渡したんです」
「電話番号、ですか」
「ええ。何か困ったことがあればここへかけてくれと。いつでも力になると……それから手持ちの現金を全てあげました。食堂でお菓子を買うために持ち出していた、ごくわずかなものだったけれど」
なるほど。エドワードはその金で行けるところまで行ったのだろう。とはいえ男爵家に引き取られるまでスラムで生き抜いてきた彼は、無賃乗車もお手の物だったのかもしれないが。
ジョイスは考えを巡らせながら、ふと壁際の戸棚を見つめた。天板の上に陶器がいくつか並んでいる。形はさまざまで、シンプルなシルエットのものから、デコラティブなものまであるが、色はどれも温みのある白一色だった。また、全て花瓶らしい。
「僕が作ったんです」視線の先を見て、カーティスがはにかむ。「手慰みですけれど。自分で作ると愛着が湧いて……他の誰が来るでもない家ですから、普段でしたら」
「そうですか。てっきり作家ものかと。私のような素人目には立派な作品に思えます」
カーティスは恐縮したように言った。「ありがとうございます。でもやっぱり、芸術品とは別物ですよ」
「花瓶がお好きなんですか」ジョイスは話を広げることにした。本題からは逸れるが、彼の人となりのヒントが得られるかもしれない。
「ええ。昔、ウサギを飼っていて……ほんの小さい頃に」案の定、彼の口は滑らかだ。「そのウサギに食べさせようと、よく花を摘んでいたんです。もちろん食べても大丈夫なものか調べて、選んでいましたよ。それで自然と草花も好きになりました」
「ここに来る前、陶器もお好きと聞きましたが」
「はい。花を好きになったのが先で、陶磁器はそのあとでした。うちには祖父母が遺した陶磁器のコレクションが結構あって。摘んできた花を飾るのに綺麗な器を使おうと思って、そのコレクションを眺めていたら、また自然と」
「それで花瓶が多いのですね」
「そうですね。僕にとっては、亡くした友を偲ぶ品でもあるのです。友に捧げる、と言ってもいいかな。友といってもウサギですが」
「分かりますよ。私も実家で犬を飼っていまして。幼い頃から一緒ですから、無二の親友のようなものだった」
「いなくなると、とても辛いですよね」
「辛かったですね。最初の犬が死んだのは十歳の頃だったんですが、悲しくて翌日は、学校を休んでしまいました」
「僕も悲しかったです。僕のせいで死んだようなものだったから……今も思い出すと苦しくなる」カーティスの眉根が寄った。
「ですが、大事になさっていたんでしょう。きっと恨まれちゃいませんよ」
「どうかな、そうだといいけれど。……ジョイスさんでしたか。貴方は、花瓶や花にご興味は?」
「無粋なもので、あまり。墓参りの時に買うくらいで」
「どなたか、ご親戚でも」
「いえ」死んだ少女の墓だ。「けれども最近は行ってません。行く資格がない気もするもので、……あなたと同じで」
喋りすぎた。無言を作るために、淹れられた紅茶を口に運ぶ。先ほど自分の身元について、彼はある程度調べがついていると匂わせた。過去の事件のことまで知られているだろうか。そもそも自分の身辺を嗅ぎ回られていることに、彼はいつから気づいていたのだろう。
「よければ、花瓶を一つもらってくれませんか」
「え?」
唐突な言葉につい声が出る。カーティスは戸棚の上の花瓶たちに目を向けて、一つ一つをなぞるように見つめた。
「僕の作ったもので良ければ。ここにあるものは渡せませんが、一つお作りしたくなって。ご迷惑でしょうか?」
返答に迷う。「そんなことは。でも、花は滅多に買いませんよ」
「ええ。使うのは、一年に一度でいいんです。貴方が思い浮かべた人のために……墓を参ることができないのなら」
せめて慰めに、家で花を手向けると。それは、いい考えかもしれない。
改めて花瓶に目をくれる。素人目には立派に見えると言ったのはお世辞半分だが、正味で感心もしていた。あまり装飾的なものは好みでないが、シンプルな形の二つは嫌いじゃない。だが、そこで気づいた。装飾的な花瓶は四つのうちの半分だが、少し度が過ぎていはしないか? そもそも部屋の中にあるのは洗練されたデザインのものばかりなのに、なぜこの花瓶だけがここまで——悪趣味なまでに飾られているのか。花瓶全てがそうなのではなく、他の二つはあくまで家具と調和するシルエットなのだ。
「いつごろ作られたものなんですか」花瓶を見つめながら問う。
「右の二つが二年前。左の二つは、ごく最近です」
「二年前? というと、この陶芸園ができた頃ですか」
「ええ。念願叶って、といったところです。ずっと前から作りたかったので」
つまり、この陶芸園ができて、真っ先に焼いたのが悪趣味な二つの花瓶。二年前といえば彼の両親が亡くなった頃だ。家を継いですぐこの園を建てたのか。まさかこのために両親を害したはずはあるまいが、まだ何かあるように感じる。
すると、彼は急に話を戻した。「エディのほうから連絡したんですよ」
「はい?」
「言ったでしょう。バス停で、電話番号を渡したと。いつか掛かってくることを祈って、ずっと契約しておいたんです。そしたら、つい最近、突然」
「用件はなんだったんです」
「一緒に暮らしている子供のうちの一人が高熱を出したそうで。なんとかしてくれないか、と。それでうちの屋敷に住み込みの医者を連れていきました。駅で待ち合わせたけれど、十年ぶりでもすぐ分かった」
エドワード本人の養子縁組はまだ切られていない。彼の保険はもしかしたら存在するかもわからない。だが子供たちには当然、そんなものはないだろう。保険無しではほんの風邪でもいくら取られるか知れない。
「市販薬は空き箱が飾られていて盗みにくいそうです。自然に治るかとも思ったけど、でもとても高い熱に思えて、すごく不安だったみたい。僕のあげた電話番号が残っていたのはほとんど奇跡で、偶然見つけたと言っていました。リュックの底に入れたままだったと」
「それで……あなたはそれからずっと、彼に金銭的支援を?」
「はい。支援といっても僕にとっては端金です。なんてことはない。でも彼らの生活からしたらそうではないでしょう。疑われるのはそういう差によるものだろうかと思っています。それに仮に、僕から見ても大金を彼に渡したとしても、僕にはそれだけの動機があるのだけど、彼はそのことに全く気づいていなかった。鋭いんだか、抜けてるんだか」
無理もない。カーティスが神父からどのような仕打ちを受けていたか、察することのできた人物がそう多いとは思えない。神父が死亡した当日も、教会に彼が居合わせたことに気づいていなかったとすると、あまりにも手がかりに乏しい。エドワードは今に至るまで真相を知らないのではないか。神父を殺したのは自分だと、まだ思っているかもしれない。
「品のないことではありますが、」カーティスはそう言いつつ、どこか開き直ったようなさばけた口調で言った。「僕はお金を持て余しています。有り余るほどあるんです。でも、自分で築いてきたものではない。単に受け継いだだけのことです」
「ですが、そういう立場の人間も必要なのでは?」
「もちろん承知しています。多くの金銭がひとところに集まることが必要な場合もある。贅を凝らした文化財の創造や保護は、そうした〝異様な〟富裕がなければまず実現できないでしょう。社会的支援、呼びかけについても同様です。遠い未来により理想的な仕組みが考案されるとしても、今時点では、僕は僕の立場と生き方でできることをするのが最善だ。それをただ放棄するというのはヒロイックな陶酔に過ぎない」
ジョイスはつい感心してしまったが、話を逸らされていることを思い出した。「それが、あなたとエドワードとの関係にどう繋がるんです」
「本当は、……見知らぬ他人や社会全体に貢献するだけで、満足したっていいのでしょうけど」カーティスはカップに目を落とした。「僕には、飢餓感があるんです。僕は有るものを使うだけ、不足を感じたこともない。僕の手にあるものを誰かに捧げたい。自分だけが満たされていても、余裕のある範囲で誰かに分け与えても、虚しいというか……分かっていただけますか?」
ジョイスはしがない一警官で、正直なところ彼の語る感覚は理解できそうになかった。だが想像をすることはできる。不足を感じたことがないというのは、それはそれで、張り合いのないことなのかもしれない。何かを欲しいと思わないで日々を生きていくというのは確かに難しいことのような気もする。仕事終わりのビールや自分の評価への期待、少しいい家具を買ったりいい靴を見繕ったり……そういう欲が一切なかったら、自分はどうやって生きていくだろう。
「僕は、……そう。分かち合いたいんです。誰かと、自分に恵まれたものを、自分の手のなかにあるものを、文字通り共有したい。できればとても身近な、愛情を注げる、大切にしたいと思える相手と。僕の手の中に何も残らなくたっていいと思えるような相手、その人の幸せのために僕の人生があってもいいと思えるような、そういう相手、——僕には、いません。いたのですけど、もうみんな死んでしまったから」
「ご家族は、一人も?」
「はい。両親も死んでしまって……」
「恋人や何か、作る気は?」
「作るというのは、よく分からないけど……ありません。というより、不可能に近い。僕は女性が……とても苦手だから。でも男性が好きというわけでもない。恋や愛ではない形で連れ添える相手を探すのは、本当に難しいことです」
実際ジョイスには、恋愛関係でないパートナーというものが想像できなかったが、それよりも今ジョイスの心を占めているのは、彼が決して語らないことのほうだった。しばらく話していて気づいたが、彼は口に出せること、伝えても良いことを明確に選んで話をしている。これまで幾度も、その話をする機会はあったのに、『シザーフィールド家』について調べた際に見つかったある情報が、彼の口からは一度も出ていない。踏み込むべきか? それを知ってどうなる? おそらくこれは神父の事件とは無関係な事実だ。だが、彼という人物においては——
そのとき、携帯が震えた。驚いて確認すると、エレノアからショートメールが来ている。通知の存在だけ確認し、メッセージは見ずに画面を切った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ショートメールで。それで……」この一瞬で心は決まった。「あなたはつまり、エドワードを『分かち合う相手』にしたいと?」
カーティスは、花が綻ぶような笑みを見せた。思わず見惚れてしまい、あわてて気持ちを取り戻す。彼は嬉しそうな笑みのまま、大きくゆっくりと頷いた。
「そうです。僕には、そういう相手が必要だったのです。彼に対して僕は恩があるし、幼い頃も、彼に憧れていました。たとえば彼のために尽くすなら、僕は自分で納得がいく。彼に自分の資産や気持ち、時間や何かを使うことに、僕は躊躇いを覚えない。そういう相手は、今のところ、僕には彼しかいないのです。きっと彼には理解できないでしょうが」
判断がつかない。というより、ジョイスはカーティスが語りたいことをただ素直に聞いているだけだ。彼が語ってきたことは恐らく嘘ではないだろうが、あえて言わずにおいていることが他にいくらでもあるだろう。見せられる面だけを見て判断したら、彼にとって都合がいいものになってしまうのは明らかだ。だが会話の主導権は向こうにある。それを奪おうと思うなら踏み込まなくてはならないのに、奇妙な怖れが袖を引き、なぜか少しも動くことができない。先程の刹那の逡巡、引き下がることを決めた時点で、ジョイスはすでに諦めていた。彼を判断することは、自分にはできない。少なくとも今の自分には。
「お時間いただき、失礼しました」紅茶を半ば残して席をたった。「いきなり押しかけてしまって」
「いえ、ちっとも」同じように席を立った彼はまだ微笑んでいる。「僕もあなたがどんな人だか知りたかったから」
「どんな人間でした?」
「さあ。こんな短い時間では、確かなことは言えません。でも少なくとも、『悪い人』には見えませんでした。『ひどい人』にも」
ジョイスは軽く笑みをこぼした。「買い被りかもしれませんよ」
「そうかな。エディほどじゃないけど、僕も見る目はあるつもりですよ」
カーティスは門へ続く小道のあたりまで見送ってくれた。にこやかに手を振る彼に、片手をあげて応え、立ち去る。消化不良のような違和感が胃の腑のあたりにわだかまっているが、これ以上はどうしようもないように思われた。明らかに準備不足だ。だがだとしたら自分は一体、何の準備をして彼に相対するべきだったのか。そもそも自分は神ではない。法に反した行いがあれば捜査し、犯人を捕まえる。それが役目で、善悪の審判をするのは全く別の話なのだ。
黒い門がまた独りでに開き、独りでに閉じていくのを最後まで見ずに背を向けて、歩きながら携帯を取り出す。車に乗り込む前に画面を見ると、ショートメールが来ていたことを思い出した。ロックを解除し、メッセージを読む。
風が遠のく。葉の揺れる音も。代わりに鈍い耳鳴りが、ジョイスの耳朶を覆っていく。
「どこへ行くの?」
地下鉄の駅へ向かう途中で、エドワードは声をかけられた。警察署の前でエレノアは向かいの道路から声を張っている。そのどこか切迫した調子に彼は驚き、訝しみながら顔を向けた。
「地下鉄だ。なんで」
「そう。誰かに会うの?」
「距離を取るのがお好きみたいだな。言いたいことがあるんなら聞き取りやすくしたらどうだ」
彼の言い草にエレノアは怒ったようなため息をつき、左右を確かめると、車道を渡った。目の前に立った彼女を見下ろす。エレノアの背は平均的だが、彼の背は度を越している。
「死体が見つかった」どこか焦りの見える表情で彼女は言った。「河に沈められてた」
「死体って、誰の」
「みんなの」エレノアは軽く唇を噛み、また強く息を吐く。「いなくなった男娼たちみんな。イーサンも。骨や内臓は見つかってないけど、剥がれた皮が束ねられていた。DNA鑑定なんかはまだだけど、ざっと、体格でね」
反射的に顔をしかめる。同時に、皮を剥ぐという言葉が引っかかった。そういえば何年か前、テレビで観た。
「被害者の皮を剥ぐってシリアル・キラー、前にいたよな?」
「そうよ。そいつが最重要容疑者。いま、警察で確保に向かってるんだけど」緊張した面持ちの理由が一つ分かった。「行方が知れない」
「犯人の?」
「そう。いえ、まだ犯人と決まってはないけど」
「それで俺を心配してんのか。俺は男娼じゃない」
「それだけじゃないの」
片眉を上げる。エレノアは、誰に会うの、ともう一度訊いた。
「関係ないね。少なくとも犯罪者じゃない」
「本当に? あなたがそう思ってるだけではなくて?」
「どういうことだよ」
「遺体、一人だけ見つからないの」
「一人だけ?」
「ロナルドだけが」
エドワードは眉根を寄せた。まだ話が見えてこない。
「だからなんだ? ロナルドが死んだにしろ殺されたにしろ、その犯人が別にいるにしろ、俺と一体なんの関係がある」
「あなたがこれから会う人が、犯人だってことはない?」
「カートのこと言ってんのか? ありえねえ。どうしてそうなる」
「彼はあなたに拘ってるんでしょ。あなたに出会う前に、ロナルドと会っていたとしたら」
エドワードは鼻を鳴らした。「俺に似てるからロナルドを殺したとでも言いてえのか。イーサンだったらまだ分かるが、あいつと俺のどこが似てる? あんなちっちぇえ細っこいヤツ」
「今のあなたとはね」エレノアはほとんど睨むような目だ。「でも彼が知っていたのは、十二歳の時のあなただけよ」
はっとした。その瞬間、脳裏にカーティスの声が響いた。
かわいい子だったよ。小さくて細くて。
「ねえ、彼に会うのよね? 本当に大丈夫なの?」
エドワードは大きく舌打ちし、首を振った。確かに会っていたかもしれない。だからってなぜ彼が殺す?
「関係ない。あいつに俺を殺す動機なんかねえよ。絡んでくる理由が分かったしな」
「うそ。どうして?」
「言いたくない。じゃあな」
「エドワード、」
「的外れだ。それよりロナルドの死体を探せよ。あいつは特別華奢だから、流されちまったのかもしれねえぜ」
追いかけようか迷う気配が背中に伝わる。エドワードは振り返らなかった。やがて、もどかしさと焦燥を音にしたような足音が響き、カツカツと遠ざかっていく。肩をいからせる後ろ姿が目に浮かぶ、——彼女は決まって、俺たちを案じるときに怒りを見せる——もうしないと言った翌日に補導されたときではなくて。信号を無視して渡り、クラクションを鳴らされたときに。
螺旋階段を地下へと降りる。最寄りの駅までいつものように無賃乗車をしようとして、ふと足を止めた。券売機が見える。ポケットに手を突っ込んで手触りを確認し、数秒迷って、券売機へ向かった。路線図を探し、料金を見る。乗り換えの駅を確かめるために路線図を眺めたことはあったが、駅名の下の料金を確認したことはなかった。小銭数枚で、案外遠くまでいけるものだ。
電車は空いていた。席に座って脚を伸ばす。ほんの数ヶ月前までは聞いたこともない駅だったのに、もう道中の駅にまで馴染みができた。平日の昼間に下りの電車が混む理由はなく、どの駅でもほとんど人は乗ってこない。降りることもない。代わり映えしない面々がただ俯いて揺られている。と、突然、窓の外が明るくなった。《アンダーグラウンド》と言えど、たまには地上に出ることもある。今まで意識していなかったが、なるほど、土地そのものの高低差がこの現象を生んでいるのか。不意に新鮮な気持ちになって、エドワードは窓を振り返った。
とはいえさして面白みのない風景だ。弦楽器の音が微かに聞こえてくる。どこかの車両でセッションしている一団がいるのだろう。この国ではさほど珍しくない。他にすることもないので、その微かな音色に耳を澄ませる。まるでスコティッシュ・パブで聞く民謡のような曲調だ。バイオリンとアコースティックでは仕方がないかもしれないが、もう少しイケてる曲はないのか? 不満げに眉をひそめてまた車内を向いたとき、ふと、スマートフォンが目に入った。少し考えて、ロックを外す。ブラウザを立ち上げて検索した。しばらく辿っているうちに、関係のありそうな見出しを見つける。目的の駅へ着くまでの間、エドワードは気の向くままにあれこれと調べ、読み耽った。
駅を降りると、迎えが来ていた。恰幅のいい金髪の女性だ。
「リンダじゃないのか?」
「リンダ? ああ、本家の使用人でしょうか」彼女は近所の世話焼きなご婦人、あるいは親戚のお節介な叔母のような顔つきで言った。「今日の行き先は本家ではないのです。ロードは所有の陶芸園にいらっしゃいます。送るようにと」
「陶芸園? まあ、どこでもいいけど」
「アシュリーと申します。さあ、どうぞ」
また高そうな車だ。エドワードは、中古車販売の個人店でアルバイトをしたことがあった。売り上げを盗んだと疑われてすぐに辞めたが——とんだ濡れ衣だ。仮に自分が盗むならあっさりバレるやり方はしない——念入りに磨かれた車は確か都会の真ん中にマンションを買える金額である。それを自分ごときの送迎に使うとはなとエドワードは思い、乗り込んで気づいた。天井が高い。
「車酔いなどは?」アシュリーがエンジンをかけながら尋ねてくる。
「しない。ぶっ飛ばしてくれていい。さっさと着いちまいたいんでね」
「そうですか。どこまで飛ばしますか?」
「じゃ、飛ばせるだけ」エドワードは笑った。「あんたが飛ばせる限界まで」
「分かりました」
バックミラー越しにアシュリーが頷いた次の瞬間、エドワードは座席に体を叩きつけられて息が止まった。タイヤの擦れる凄まじい音が外から車の中を満たす。急激にかかった重力がエドワードの背を席に貼り付け、彼は驚いてミラーを見つめた。目が合い、彼女が楽しげに笑う。
「シートベルトを締めてください。事故るようなヘマはしませんけどね」
なんとかベルトを掴みながらエドワードも笑った。あいつの家の使用人は、どうも愉快なやつばっかりだ。
真っ白な壁のどこが扉か分からず右往左往していると、思いもかけない場所が突然横に開いて、肩が跳ねた。扉の先に人影はない。誰が見ているわけでもないのにほんのり羞恥を覚えながら、背をかがめて中へと入る。家の中央からカーティスの声が聞こえてくる。声はいまお茶を淹れているから、適当に入って寛いでくれと言うが、どの通路を進んでいけばダイニングにたどり着くのか、すんなりとは分からなかった。
「ああ、洗面所は入ってすぐの扉。手を洗うならそこでどうぞ。何でも使って」
再び声が聞こえた時、エドワードはちょうどその扉を横に引いているところだった。大きな鏡と暗い緑の壁、ガラスと陶器の組み合わさった洗面台の下に、重たげな木製の戸棚が造り付けになっている。鏡の左右にあるガラスのウォールラックには瓶やボトルが並んでいるが、どれが何なのかまるで見当がつかない。いっぺんで嫌気がさした。扉はそのままに奥へ進むと、陽の光が見えた。ダイニングに足を踏み入れる。
「やあ、ごめんね、案内できなくて。ちょうどいま目が離せなくって」
「どうでもいい。お前がどんなにこだわったところで、どうせ俺には分かんねえぜ」
「いいんだよ、分からなくって。ただ僕が君のために手を尽くしたいだけなんだから」カーティスはオーブンから一瞬こちらに顔を向けた。「もう少し待ってて。すぐできる」
再びオーブンのガラス扉と睨めっこを始めた彼をしり目に、エドワードは仕方なく室内を見回した。本家の邸とは打って変わって現代的でシンプルな家だ。どこか未来的な——というよりドイツ的な——内装を見るでもなく眺め、そこでふと振り返る。知らず知らず手をついていた壁際の戸棚の上に、花瓶が四つ並んでいた。随分アンバランスに見える。手前の二つはごてごてと鬱陶しいほどの細工があるのに、奥の二つはすっきりとモダンなデザインだ。どうしてこんな? エドワードはつい気になって、手前の花瓶の一つに触れる。口に指をかけ傾けていると、不意に、カーティスが声をかけた。
「あ! ねえ、紅茶に砂糖は入れる?」
驚いた拍子に手が滑る。あっと思う間もなく、その一つは床に落ちて割れた。
がしゃん、と音が大きく響く。一歩後ずさったまま固まってしまう。カーティスが急いで駆け寄ってくる足音が耳を打つ中で、オーブンが完成を間抜けなジングルで知らせた。
「大丈夫? エディ。怪我はない?」
「平気、……悪い。これ……」
「え? ああ、」カーティスは視線を床に落とした。白い陶器がバラバラの破片に変わっている。
じっと見つめる静かな顔が、突然、けらけらと笑った。エドワードはまた驚いて、カーティスの顔に目を移す。
「いいの、いいの。僕もいい加減、うんざりしていたとこなんだ。こんなもの飾ってたって、気分が良いわけないんだから」
「どういうことだ? 高いんじゃないのか」
「ぜんぜん。記念にと思って作ったけど、綺麗に仕上げてやるのも癪で。でもちょっと醜悪に作りすぎたよ。部屋に合わないし、目に入るたびにどんよりしちゃう。君が壊してくれてよかった」
戸惑う彼の目の前で、カーティスは隣の花瓶に手をやる。そして流れるような動作ですんなりと床に落とした。よく似た二つの花瓶が、同じように砕け散っている。ほとんど恐怖に近い不安が胸元に迫り上がってくる。
「いい機会だから。あとで掃除しよう。ここにある花瓶は全部、僕が作ったものなんだ。あ、でも、奥の二つはダメだよ。下手なりに綺麗に作ったの。満足してもらえるかはともかく、割ってしまうのは居た堪れない」
「これは、何なんだ?」彼の言っている意味が掴めない。「お前が作ったものか?」
「そう。なんて言ったらいいか」カーティスは顎に手を当てて、首を傾げる。「記念品?と言うべきか。それとも墓標?」
「墓標?」
「ああ、上手いことを思いついた」カーティスは目をあげて、エドワードに笑みを向けた。「東洋は火葬の文化で、燃え遺った骨を陶器の器に収めるんだ。知っている?」
「知るか、そんなこと」
「だよね。でも、この花瓶は言うなれば〝それ〟だ」
二人の視線は、自然と、残った二つの花瓶へ流れた。近い一つを手に取って、カーティスはエドワードに示す。
「これは、『骨壺』。彼らの遺骨」
気が遠くなる。ふらついた拍子に、また棚に手をついた。エドワードの脳裏にぼんやり蘇ってくるものがある。いつだったか彼に付き合って美術館を訪れたとき、彼が嬉しそうに説明していた。なんだっけ? 陶器を白くするための。この国にはそれがないからと、——そうだ。〝骨の磁器〟。
「人を殺した?」気づけば聞いていた。声が震える。「お前が殺したのか?」
「うん。あ、でも、全員じゃないよ。今割った二つだけ。あとの二つは、ただの弔い」
「……誰なんだ、これ」
「神父と、姉」
改めて床に目を落とす。二つの顔がこちらを向いているように思えて、身が強張った。
「骨って、焼かなきゃならないだろ。神父の骨なんてどうやって……」
「知らない? あの人、燃やされたの。きっと何をしてたか気づいた奥さんが怒ったんだ。近親者だけの葬儀だったけど、紛れ込むのは難しくなかった」
「姉は? クリスチャンじゃないのか?」
「家系的には。でも正直、僕の一家は無宗教だった。姉の火葬は僕が頼んだの。反対されなかった。知ってたんだろうね。証拠はなくたって、同じ家に住んでいたら薄々は、分かるものでしょう」
何を? とは聞けない。聞くまでもなく、大体の予想はついた。似たような話はいくらでも知っている。義父に、義兄に、実父に、実母に——姉というのはあまり聞かないが、そういうこともあるだろう。エドワードは呼吸を繰り返し、徐々に落ち着きを取り戻す——いくら金を持っていたって、そういう目に遭う奴もいるのか。真相は知ったことではないが、自分の予想が正しければ、少なくともこの二人はどちらも死んで当然だ。
そこでふと、疑問が湧いた。
「なあ、このクソ神父は、俺が殺したんじゃなかったか? だからお前は俺に随分肩入れしてたんじゃねえのかよ」
「あ、思い出した?」カーティスは愉快そうに笑う。「もちろん、君が潰した虫だよ。でも、とどめを刺したのは僕。あんな人、君が殺すのも勿体無いし、僕はそうしてよかったと思ってる。彼が生きてたっていいことないしね」
虫とはなかなかの言い草だ。「蚊みたいなもんってことか」
「蚊か……近いかもね。事情はあるんだろうけど、放っておくと害だって意味で」
「事情なんか知るか。どんな事情があったってガキに手を出す変態はいらねえ」
「僕もそう思う。だから殺した。蚊が血が欲しいと言ったって、人は困るから、潰すでしょ?」
分かるような分からないような微妙な気持ちだ。エドワードは一旦保留にし、無事な二つの花瓶に目をやる。
「その二つは? 誰なんだよ」
「これは僕の両親」手にしたままの花瓶を、カーティスは軽く振った。「二人はとっても仲が良かったの。引き離したら可哀想だろ」
「奥のは?」
「スラムの子だよ。なんて言ったかな……」
カーティスは花瓶を置いて、それから奥のものに手を伸ばす。頭を撫でるように、指先でなぞる。
「ロナルド」エドワードは唇を噛んだ。
「そう! あれ、知っているの」
「あの街にいる人間のことは大体知ってる」
「それもそうか。彼だって君のことを知ってたんだから」
「なぜ死んだ?」
「凍死。一月だったかな、酷く寒い日で。雪が降っていたよ」
腑に落ちた。エドワードはエレノアに言われたことが気になって、することもない電車の中、『皮剥ぎ魔』と呼ばれた殺人鬼について検索していた。出てきた記事によれば、その男は半年前に仮釈放されていたらしい。
仮釈放後すぐにこの街——エドワードたちのいる街に移り住んだのだとしても、そのまま殺しを始めたとは限らない。ロナルドが死んだのが彼の言う通り一月ならば、『皮剥ぎ魔』が出所してすぐ、あるいは出てくる前だったのかもしれないのだ。イーサンが姿を消したのは四月ごろ。殺しはその前後に始まったものと考えれば、辻褄は合う。
「お前はそれを看取ったってわけか」
「うん。僕、君を探してたの。君にまた会いたくて……特にあの日みたいな、凍えるように寒い日は、つい気になってしまってね」
「気になる?」
「君は笑うだろうけど」気恥ずかしげに彼は言った。「心配になるんだ。もしかして、こんな寒い日に家がなかったら……君が今まさに凍えて死んでしまおうとしていたら、って。大抵は考えすぎだと振り切るけれど、できない日もある。あの日はちょうどそうだったの。何せ、ほんとうに寒かったから……」
一月の酷く凍えた晩のことを、エドワードも覚えていた。ハリボテ同然のあの空き家には隙間風がびゅうびゅう吹き込み、子供らは綿の飛び出たソファーを中心に固まって、寄せ集めた毛布を被り、震えながら夜を耐えていた。エドワード自身もまたその群れの中央にいて、子供たちの冷えた肌を摩ってやりながら朝を待った。
この光景は何かに似ているとあの時エドワードは思い、やがて記憶の中からそれを見つけた。学校で理科の時間に見たペンギンのドキュメンタリーだ。南極に住む彼らは、吹き荒ぶ吹雪の中を皆で寄り集まって耐え、生き延びていた。外側を守る役割は交代制でやるらしい。目に雪が入るからかぎゅっと瞼を閉じ、俯きがちに忍ぶ姿が、エドワードにはどこか滑稽に映った。
「お前一人で行ったのか?」
「うん。危ないかなと思ったけど」
「危ねえよ。よく無事でいたな」
「でも、あんまりにも寒かったから、外にはほとんど人いなかったよ。セックスワーカーが立っていたくらい」エドワードは一瞬、何のことかと思った。貴族は立ちんぼをそんなふうに言うのか。「それも少なかった。あんな気温で肌を出していたら、凍っちゃうよね」
「でも、ロナルドはいた?」
「うん」呟くと、カーティスはうなだれた。「たぶん……帰るところ、なかったんじゃないかなと思う。それか、もう、逃げるところを探す体力もなかったのかも。僕が見つけた時は、路上に座り込んでた」
エドワードにはその場面がありありと想像できた。己の身にも覚えがある。極限まで体温が低下した体はがくがくと震え、寒いという感覚自体がだんだんに薄れていく。より酷くなると、逆に体が火照ってくるのだと言う人もいた。ロナルドはどういう状態だったのだろう。いずれにせよ、そこまで追い込まれてしまったら、よほどの根性がない限り逃げ場を探すことなんてできない。
「肌が真っ白で、唇が青くて。慌てて駆け寄ったけど、氷みたいに冷たかった。着ていたコートをかけても、もう、彼自身に温もりが残っていないみたいだった。震えが止まらなくて」
「……そうか」
「顔を見たら、微笑んでくれた。きっと優しい子なんだね。名前を名乗ってくれたけど、よく聞き取れなくて。ロナルドって言ってたんだ。君のおかげで、やっとわかった」
カーティスは花瓶から手を離すと、エドワードに目をやり、テーブルへ座るよう促した。頷いて席につく。カーティスはキッチンから紅茶と焼き菓子を持ってきた。差し出されたマフィンを手に取る。一口齧ると、カーティスが口を開いた。
「何か欲しいかって聞いたら、あったかいミルクが飲みたいと。買ってこようかと思ったけど、近くに何もなくて」
「だろうな」軽く首を振る。あの辺りにはヤる場所しかない。
「僕も名乗った。話していないと彼、意識をなくしてしまいそうで、ずっといろいろ話しかけた。それで君のことも話したの。エドワードっていう、金髪に碧い目の綺麗な人を知らないか、って言ったら、知ってるよって彼は答えた。でもみんなイーグルって呼ぶって。ぶっきらぼうだけど、あったかいって。きっと君に違いないと」
返す言葉が見つからず、エドワードはまた黙って焼き立てのマフィンにかぶりつく。ロナルドに対して特別の感情は持っていなかった。まだガキだからと多少気にかけるところはあったがその程度だ。だが、彼のほうは違ったのだろうか。自分に何かを見ていたのだろうか。
「君は少し、小さい頃の彼に似ているよと言ったら、ほんとう? って嬉しそうにしてたよ。でも、それからじきに、……」
「最期、なんて言ってた」
「きれいに死にたいって。路上に死体を晒すのは嫌だと。だから僕、連れて帰ろうか、って言ったの。そしたら、……お墓は作らなくていいから、僕をきれいに死なせて、って」呟くと、カーティスは再び花瓶に目をやった。「気に入ってくれたか分からないけど、これが一番かと思ったんだ」
「怒っちゃいないと思うぜ」一瞬目を移してから、すぐに戻してエドワードは言った。「アイツの趣味は知らねえけど」
すると、カーティスは口角を上げた。「その言い方、刑事さんそっくり。同じようなこと言ってたよ」
「刑事? ジョイスだっけ。アイツか?」
「そう。さっき来てたの。話をしてった」
「何の話?」
「十年前の話。立件する気はないらしくて、ただ事実確認をしに来ただけだけど」
「なんだ、そりゃあ」エドワードはひそめた眉もそのままに、大きく顔をしかめる。「趣味で掘り起こすようなことかよ」
「趣味というか……関係があると思ってたみたい。僕と、スラムの人たちの失踪」
「それで調べてたら知ったってことか」
「たぶんね。なんだか彼もどうしたらいいか分かっていないみたいだった。悪い人ではなさそうだけど」
「刑事にしてはマシなほうだが。足りねえな」
エドワードは目の前のティーカップを引き寄せる。少し手の跡を感じるような、凹凸のある表面だ。これはいくらくらいするのか、あるいはこれも彼の手作りか。試すようにやや乱暴に置いたが、カーティスは動じない。アホらしくなって鼻息をつく。
「もし僕を捕まえる気なら、とあれこれ用意をしていたんだけど。拍子抜けしちゃった」カーティスは紅茶を口に運んだ。「てっきりひどく熱心で、融通の利かない人かと思っていたのに」
岸から遠い沖の真中で、波が立つような感覚。
その波がゆっくりと心の淵に寄せてくるのをエドワードは感じた。おもむろに、ティーカップから目を離し、眼前の彼を見る。さっきまでと少しも変わっていない表情からは何も読み取れず、だが彼はこちらの視線に気づいて目をあげた。「どうかした?」
「用意って?」
「ああ、そう、地下にね。捕まえておいたの」
「誰を?」
「刑事さんのために」
「……誰だ?」
「この街に住んでたの。びっくりだよね。でも確かに地元で起こした事件で、釈放されて出てきたって言っても元の家なんか帰れないし……都会に紛れてしまうほうが却っていいのかもわからない。郊外で起きた事件のことなんか、都会の人は忙しくってみんな忘れてしまっている」
聞かなかったことにするべきだ。何も知らずにこの家から出たほうがいい。「地下にいる?」
「うん。ああ、そう、どうしようか? 処理に困ってたの。一緒に見てくれる?」
カーティスはティーカップを置くと、壁に寄ってパネルを操作した。複雑な順序でボタンを押し、最後に顔認証をすると、突然、ガラス窓の外から、地響きのような音が立つ。芝生に覆われた庭の一角に正方形の穴が開いている。真っ暗な四角はあまりに不似合いで、妙な夢でも見ている気がした。
カーティスがテーブルを横切り、ガラス窓を開けてテラスへと出る。軽やかな足取りで芝生を踏んで、四角い穴へ近づく。エドワードは動けなかった。逃げるべきか? 一体どこへ? 奴は俺の住む家を知ってる。この家に来るまでも迎えの車に乗ってきたのに、このまま駆け出したところで逃げ
「エディ?」穴の前に立ち止まり、カーティスはこちらを振り返った。「どうしたの? 早く来て」
「今いく」
実感がない。立ち上がり、フローリングを歩き、ガラス窓を開けて庭へ出る。何もかも夢の中のようで、感覚が脳に届いてこない。夏の日差しが肌を照らし、その熱射だけが質量を持つ。カーティスは微笑んで、暗い階段を降りていく。
コンクリートに囲まれた地下は湿って、ひんやりとしていた。足元のランプを頼りに狭い階段を苦労して降りる。降り切った途端、目の前に広い空間が現れた。除湿機能でもついているのか、階段と違ってからりとしているが、暗く冷たいことに変わりない。コンクリートの壁には蝶や昆虫を収めた標本箱があり、設けられた棚に剥製がある。小さな温室や、何を保存しているか知れない透明な冷蔵庫もある。
「趣味の部屋なんだ。劣化しやすいものはここに収めてる」
「気色悪い実験室みてえだ」
「まあ、確かに、理解し難いものもあるのはわかるよ。だけどほら、蝶はきれいじゃない?」
渋々、彼の指す先を見る。不思議な光り方をする青い蝶だけは目を引いたが、他はただのでかい虫だ。こんなものを集めてわざわざ飾る気持ちがよく分からない。
「ピンと来ないか。エディはリアリストだしね」
「なんだそりゃ」
「現実的ってこと」
「現実、現実。まあそうだな。夢は見ない」
「見たくなることはないの?」
「見ちまわないようにしてる。いいことがないから」
「そう? 僕は、夢を見たから生きてこれた。ねえ、現実を見るのも、夢を見るのも、生きるためなら、同じなのじゃない」
答えなかったが、考えはした。脳裏を青い光がよぎる。カーティスは返事のないことに別段気落ちするでもなく、部屋の奥の扉を見つめた。それは鋼鉄製の黒い扉で、閂やその他の鍵で厳重に閉ざされている。やはりすぐ脇にパネルがあり、彼はそちらへと歩いていった。
「ええと、長いんだよね、ここの……」
つぶやきながらカーティスはパネルを開け、キーを叩いた。しばらくして解除を示す短い音がピッと鳴り、直後に重々しい音を立て物理的な鍵が動き出す。部屋の空気を震わせながら横滑りに扉が開く。徐々に、少しずつ、確実に、開かれていく隙間から、眩ゆく白い光が漏れた。冷気が這い出てくる。離れて立つエドワードの靴まで。
扉が開き切ったとき、エドワードは道が閉じたのを悟った。あらゆる可能性が消え、眼前の一つだけが自分を待ち構えている。だってのに、この一本道に追いやられてなお実感がない。タイル張りの冷蔵室が、あまりに清潔だからだろうか。
三角座りで縛られて口にテープを貼られた男が、丸い眼鏡越しにエドワードを見ていた。ガタガタと震える瞳いっぱいに怯えが広がっている。その怯えだけがリアルだ。あとは、全てが嘘みたいだ。この部屋も数多のコレクションも、パネルの前で振り向いて柔らかく笑うこの男も。
「この人、どうしたらいいかな?」彼は言う。「どう処理したらいいと思う?」
夢うつつのまま目を逸らす先に、箱に入った甲虫があった。冷蔵室の光をガラスが反射して中がよく見えない。そこに映る己を見て、エドワードは不意に理解した。自分も虫だ。良い虫、悪い虫。役に立つ虫、立たない虫。草を食う虫、虫を食う虫、可愛い虫、怖い虫、嫌な虫。俺は、きっと、愛すべき虫だ。
やがて口元に笑みが浮かんだ。奇妙な安堵が、彼を包んでいた。
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