Act 4



     16



 ジョイスはホテルのベッドの上で、スマートフォンを開いていた。カーティス・シザーフィールドについて調査を始めて三日。シザーフィールド家について詳細を調べるのはネットだけでは困難で、公的資料の検索や聞き込みに骨を折ることになった。しかし具体的な容疑もないのに大した情報は閲覧できず、また大義名分もないまま聞き込みをしてみたところで、通りいっぺんのことしか聞き出せない。それでもいくつか分かったこともある。

 まずシザーフィールド家の現当主はカーティス本人で、両親は二年前に若くして他界している。事業の展開、つまりビジネスへの進出は彼の父親、スティーブ・シザーフィールドがすでに着手していたらしい。その他の面でもスティーブ氏は進歩的かつ現代的で、貴族社会においてはある意味、はみ出し者でもあったようだ。特に一番大きな点は無宗教者ということだろう。かつて王権はキリスト教を根拠に主張され、それらに付随する貴族の特権もまたキリスト教が根底にある。そうでなくともこの国で完全な無宗教というのはかなり珍しいことであるが、実際彼らは火葬されている。クリスチャンならばあり得ない。

 彼に存命の兄弟はないが、どうやら姉がいたらしい。姉は十年前に亡くなっている。カーティスとは六歳差で、享年十八歳だ。これも事故。ただし両親の死は交通事故で、姉の死は転落事故だったらしい。それ以上のことはなかなか聞き出せなかった。つまり、他人の口からは言いにくい事情があるのかもしれない。そういえばこの姉も火葬されたようだが、一家揃って信仰を持たなかったのだろうか。無宗教者は建前で、実は仏教徒だったとか? あり得ない話でもない。

 オリバーに連絡を取る口実が必要だったが、それは未だに思いつかない。適当なことをでっち上げ丸め込んでしまえばいい、どうせ最後にはそうするのだ——そう思いつつ、もう少し材料を揃えたい気がしていた。何かしらの理由を設けておかなくては、あれこれ尋ねられた場合に言い訳が立たない。十年前に同室だった生徒のことを尋ねたいなんて急に言い出すのは不自然だ。十年前か。何かないか。

 ひとまず校名で検索をかけた。間も無く画面に様々なページや記事のタイトルが並び、その多さにジョイスは驚いたが、話題は似たり寄ったりで興味を惹くものもない。続けて西暦を打ち込む。すると、少しスクロールした先に扇情的なタイトルが見えた。『——校のタブー? 二◯——年の神父死亡事件』。予感に従いアクセスする。

 ふざけた見出しの割にはずいぶんちゃんとした記事だった。目で追いながら、知らず、つぶやく。

「『二◯——年七月、——校で聖書の授業を受け持っていたある神父が、同校敷地内の教会で倒れているのが見つかった——』」


『発見したのは同校に住み込みで働く掃除婦で、その際、倒れている神父を軽く揺すってしまっている。もっとも彼女が身を揺すったときには彼はすでに息絶えていたようだ。同氏は今年度より赴任し、週に一日、同校に通って聖書の授業を担当していた。金曜日の担当だったそうだ。その他の平日は、以前から勤めていた神学校にて教えていたらしい。

 遺体の頭部に殴打痕があると報告されたにもかかわらず、なぜか事件としては処理されず、死因は急性心不全となった。遺族も抗議せずそれを受け入れ、どころか何かから隠れるように葬儀を手早く済ませてしまった。近親者のみの小さな葬儀だった。だが、さらに奇妙なことがある。それは火葬だったのだ。

 神父の一家は墓を買えないような貧しい家庭だったわけではなく、また妻も子もクリスチャンである。なのになぜ神父は焼かれ、神の御前での復活が叶わぬ身となってしまったのか?

 同氏は穏やかな人柄で地元民から慕われており、教えを受けていた生徒の中にも参列したいとの声があったが、彼らがそれを知った頃には神父は灰と成り果てていた。不可解極まりない対応である。これは一体、どうしたことだろう。』


 確かに妙だ。他の点も気になるが、何よりもなぜ火葬なのか。シザーフィールド一家のように無宗教だと言うならともかく、カトリックの聖職者を葬るのに火葬とは相当異様なことではないか。まるで何かの罰のよう……それほどの感情はどこから来る?

 火葬に決めたのは妻だろう。妻は地元民に慕われていた夫の葬儀に誰も呼ばずに、駆け込むように済ませてしまった。その態度は忌々しげでもあり、何かを隠しているようでもある。ジョイスは予定を変えることにした。オリバーの前にこの神父だ。妻とやらを訪ねに行こう。古い資料が出たとでも言って。



 夜の気配がする。日の高いうちに出たのに、ジョイスがリーヴズ家に着いたころ東の空は青くなっていた。道路のすぐ脇に車を停め、そこから少し離れたリーヴズ家へと草地の中を進んでいく。この辺りは民家と民家の間に車で十分弱の距離があり、周りをだだっ広い平野とまばらな森が埋めている。亡くなった神父、ティモシー・リーヴズは、ここから——校に通っていたのだろうか。だとすると片道二時間は掛かる。

 門の前に立ち、呼び鈴を押す。かろうじて電気式だが、カメラなんぞは付いていない。すぐ目の前にあるドアの上部にはすりガラスが嵌めてあり、中の電気がついていないことが分かる。と、思った途端についた。人の重みで床が鳴り、影がガラスの向こうに揺れる。濃い緑のドアが、きしみながら開く。

「どちらさま」不機嫌な声だ。黒いワンピース。低い位置で一つに束ねた髪。肌はくすんでいて、あまり生気がない。

「お電話いたしました、警察の者です。ダウンシー署のジョイス・ハーディ」

 警察手帳を開くと、彼女の顔が歪んだ。忌々しげに言う。「来ていいなんて言ってません」

「ええ。ですが、来ないわけにも」こうした態度には慣れっこだ。それに対する自分もまた、同程度には嫌な人間になっているだろう。「捜査ですので」

 告げてから、ジョイスはふと西の空を見た。沈みかけたオレンジとシアンの見事なグラデーションに思わず目を細めてしまう。反対側を向けば、藍色の闇がその濃さを一層増していることだろう。話が終わる頃にはとっぷり日がくれているに違いない。手近なホテルがあればいいが、今日は車中泊になりそうだ。

「一体なんだっていうんです」ちくちくトゲが刺さる。「こんな時間に、非常識な」

「いや、早いうちに出たのですがね。薄給の身の上で、ろくな車を持ってませんで。これでもロンドンからきたんですよ。ダウンシーから車できたんじゃ三日はかかる」

「そこまで遠くないでしょう。この狭い国で」

 短く深いため息を吐くと、婦人——グレタ・リーヴズは門の鍵を開けた。

「どうぞ。来ちゃったものは仕方ない」

「どうも、すみません。失礼します」

 後について家に入る。小さな玄関を直角に曲がるとすぐリビングだ。奥に暖炉があり、玄関側にキッチンがある。丸テーブルと、椅子、それからソファ。西日の差す広い窓。とはいえ、その向こうは石造りの塀だ。

 グレタは何を用意するでもなくソファに座った。じっと外を見ている。しばらく突っ立ってみたが一向に椅子を勧められないので、勝手に腰掛けることにした。内ポケットから手帳とペンを取り出す。

「どういった御用で」

「電話でも申し上げましたが、十年前のご主人の死亡事件について、少々」

「あれは病死ですよ。心不全です。不審な点はなかった」

「殴られた痕があったのに?」

「警察も立件しなかったじゃない」

「それが妙なんですよねえ。明らかにおかしいってのに……」手帳を開きながら、ペンをカチリ、と鳴らす。「万が一ですよ。万が一ですが、もしも警察に不手際があれば、これは大問題でして。身内の不祥事は、身内で片付けないと」

 グレタの眉がぴくりと動いた。だが依然、視線は向けない。「知りませんよ。おたくの都合なんて」

 ジョイスは改めて部屋を見回した。壁際の本棚にあるのは多くが革の上製本で、一様に古く分厚い。背にタイトルがないものばかりだ。おそらくは夫の蔵書をそのまま置いているのではないか。それが証拠にテーブルの上に置き去られているのは流行りのミステリ本だ。確か女性作家のもの。半ばを過ぎたあたりのページにメモが挟みこまれている。

 一方、実に典型的だ。夫の写真が一枚もない。

「ご主人はどんな方でしたか。実はまだ顔を知らなくて」

「さあ。私もよく覚えてません。写真は全て焼きましたから」

「焼いた?」意外な答えについ声が跳ねた。「そうですか。それはまたどうして」

「もういない人です」

「いないから偲ぶんでしょう」

「思い出してどうするんですか。悼んで泣くの? 馬鹿馬鹿しい」

 馬鹿馬鹿しい? どういう意味だ。火葬にした時点で夫への悪感情は明らかだが、それにしても、写真まで焼くとは。単に仕舞うでも捨てるでもなく……それは不快への消極的な「対処」ではない。

「ずいぶん、激しいですね」少し踏み込む。「見たくないだけなら捨てればいい」

 グレタはしばらく、険しい横顔で、唇をひき結んでいた。ほとんど表情は動かなかったが、黒目の奥に様々なものが渦巻いているように思える。神経質な瞬きや、鋭い呼吸のあとで、グレタは、不意に声を発した。

「もういいです」

「いえ。そう言われても——」

「違います。もう、結構です。遠回しに探られるのはうんざり」

 また短く息を吐いて、ようやく彼女はこちらを向いた。少し体を回したという程度ではあったが。

「どうせ根拠があるんでしょう? いい加減、飽き飽きしてた。夫のことを思い出すたび独りで歯軋りすることになる。もう十年ですよ。うんざりよ。灰にしたのにまだ許せない」

「許せない。つまりグレタさん、ご主人は清らかな死者でなかったと——」

「〝ご主人〟なんてやめて! あんな男」ついにグレタは金切り声をあげた。

「同罪よ、あなたたちだって。なかったことにしたんだから。私ばかりが責められる謂れはないわ」

「当然です」ジョイスは慎重に声を調えた。「今さらこの件を立件するとか、そういう話でもないんです。実のところ。僕はただ、……事実を知りたい。その事実が鍵かもしれないんです。僕が追っている、別の事件の」

 グレタは小さく肩を上下させ、ジョイスを睨むように見ていた。やがて無意識的な仕草で両の手を組み膝に置くと、首をふいとジョイスから逸らし、その視線は下を向いた。

「あの日のことを話したらいい?」

 ジョイスが頷くと同時、グレタは語り始めた。だがきっとジョイスのことは視界に入っていなかっただろう。グレタの瞳は、相変わらず、床に据えられたままだった。



 バラの香りがする。学校の隅、立入禁止のバラ園を抜けると教会までは早く着いた。その日オリバーは教会に読みかけの本を忘れてしまい、慌てて取りに戻ったのだった。今となっては何を読んでいたのか思い出せないのに、その日はすぐに続きが読みたくて、規則を破って近道してまで本を取りに戻っていた。聖書の授業の後は昼食で、たくさん続きが読めるはずで、だから逃せない。自然と早足になる。

 学校自慢のバラ園は大切に管理されていて、賓客をもてなすのに使われる。悪戯盛りの生徒たちに荒らされてはかなわないからと、普段から立ち入らぬよう厳しく言いつけがされていた。とはいえ通路を使うだけなら構うまい。花や茎には手を出さないし、葉をちぎったり、枝を折ったりもしない。傷つけないよう慎重に通るだけなら問題ないはずだ。制服が棘に引っかかってバラを散らすことがないように、気を遣いながら通路を駆ける。バラ園の東の出口の一つが、教会の裏庭に通じている。

 裏庭の門はいつも開いている。門の奥の、教会の出口も。

 扉の前で、息を落ち着けた。神父に話しかけなくちゃならない。すみません、さっきの授業で、席に本を忘れてしまったみたいで、——あまり勢いよく開けるのも失礼だろう。だから、そっと押す。

 開けたとき、声がした。なんの声だかわからなかった。

 突然いやな予感がした。入らないほうがいい気がする。でもここまで走ってきたのに、なんの成果もなく戻るなんて。大したことじゃない、と思う一方、妙な怯えが拭い去れずに、黙って教会の中へ入る。なぜ大声で神父を呼ばないのか、自分でも不思議だった。奥へ行くほど、声ははっきりしてくる。荒い息遣い。それと、細い声。……何してんの?

 もはや尋常ならざることが起こっているのは明らかで、オリバーはつい、好奇心に駆られた。足音をひそめ、忍び足で進む。じきに祭壇の裏へ行き着く。左右に表からは見えない出入り口が開けられていて、教会で演し物をするとき、演者はここから出て、キリスト像の前に立つ。オリバーは聖歌隊にいて、だから仕組みをよく知っている。

 かみの隙間からそっと覗いた。神父が這い蹲っていた。キリスト像の前、赤い絨毯の上で。

 丸まった背が、前後に揺れている。すごく変な動きだ。いったいなに? 四つん這いのような格好でまったくなにをしてるんだろう。荒い呼吸は神父のものだと分かったが、合間に聞こえる、か細い声は——と思った刹那、神父の脚の横に、細くて白いものが見えた。脚が投げ出されている。オリバーと同じ靴を履き、同じ靴下を履いた、細い脚。

 やっと理解した。叫び出しそうになった。

 慌てて両手で口を押さえ、呼吸を抑え込む。心臓がバクバクと鳴る。逃げ出したいのに、見たくないのに、体が固まって動かない。それに変に動いてここにいることがバレたら……黒いかたまりがかくかくと、妙な動きを続けている。気味の悪い虫みたい。湿った、激しい息遣いが、耳をびちゃびちゃ濡らすようだった。合間に響く、微かな悲鳴が、脳裏を離れない。息が苦しい。

 全身が震えた。嫌だった。ぞわぞわ何かがこみ上げてくる。全身がそこで起きていることを拒絶している。とにかく離れたい、——ふらつく足で一歩、二歩、下がる。光景は狭まり、音が遠ざかる。何も見えなく、聞こえなくなるまで、少しずつ後ずさっていく。開けたままだった扉から、後ろ向きに庭へ出た。何も聞こえない。初夏の陽が教会を照らす。

 だけど扉の奥は真っ暗だ。

 気づくと走っていた。全力で。きた道を必死に引き返し、そこら中に服を引っ掛けながらバラ園を駆ける。バラの匂い。濃くて強い、噎せるような香り。あそこにいたのは誰?顔は見えなかった。あの細い脚しか。どうしよう。どうしよう。どうしたらいい。先生に言う? 誰か頼れる人に。でもあんなこと信じてくれる? それにあの子は、——あの悲鳴の主は——誰にも知られたくないかもしれない。公になれば親に知られて、友達に知られて、みんなから、「そういうことをされたんだ」って思われる。僕だったら嫌だ。

 校舎に戻っていた。でもとても、いつも通りには振る舞えない。喉をひゅうひゅう鳴らしながら、ふらつく足で保健室へ向かった。よほどひどい顔をしてたのか先生は何も言わずに、奥のベッドで寝ていい、と言った。その日は一日、毛布に包まって、震えていた。ずっと目眩がしていた。

 夜、寮室に帰ると、同室の彼はまだ起きていた。机のライトを点けて、本を読んでいる。その橙色の明かりに少しほっとした。息をつくと、オリバーがいることに気づいたのか、彼が振り返る。読んでいた本をぱたりと閉じた。

「面白いね、これ」

「え?」

「はい、どうぞ」

 立ち上がり、歩み寄ってきた彼が、本を差し出す。息が止まった。

「教会に忘れていったでしょう。僕が見つけて、拾っておいた」

 表紙を見たまま、返事ができなかった。彼は構わず話している。視線がつい、足元に落ちる。同じ靴。同じ靴下。

「慌てて取りに戻るなんて、よっぽど面白いのかと思って……栞の位置は動かしてないよ。図書館にある本だよね。僕も、後で借りようかな」

 もし同室じゃなかったら、これが僕の借りている本だとバレなかった? いや、本の裏に、貸出カードが入っている。だめだ。この皮肉な偶然があってもなくてもいずれバレたんだ。あのときそのまま去っていれば。今さら何を思っても遅い。

「オリバー」名を呼ばれて、恐る恐る、顔をあげる。真っ青な瞳。

「誰にも、言わないで」

 オリバーはただ頷いた。他にできることはなかった。



「雨の日でした。確かにいつもよりティムの帰りが遅くて……どうかしたのかと案じていました。学校は遠いものですから、夫はいつも昼食をとってから家へ帰っていた。それにしたって少し遅い。もう日も沈みかけていたし……」グレタは不意に顔をあげ、また窓の外を見た。「そうね。こんな時間帯だった」

 ジョイスは音を立てないように気を配り、彼女を見つめていた。メモは必要ない。覚えておける。

「そしたら電話がなったんです。肝が冷えました。もしかして、事故にでもあったんじゃないかと。出てみると、警察だと言う。気が遠くなりかけて、慌てて首を振りました。リーヴズ氏の奥様ですかと聞かれて、ええ、いかにも、と答えた。そしたら、至急学園へ来てくださいと。なぜかと聞いても、答えてくださらなくて。とにかく、来てくださいと。そればかり。……だけど車がないんですよ。夫が乗っていったんですから。それを伝えると、迎えをよこすと言われて、待ちました。気が気じゃなかったわ。空がどんどん暗くなって、不安で、いらいらして。……二十分ほどで車がきました。近くの署からやってきたみたい。車中で色々尋ねてみたけど、その警官さんは何も知らない様子で、ただ面倒そうにしていたわ。私も気を削がれて、あとは黙っていました」

 頷きながら、その時の様子を思い浮かべてみた。雨の降る平野。厄介ごとを押し付けられて不機嫌な警官と、夫の身に何が起きたのかわからず不安でいるグレタ。車内は不穏に静まって、ワイパーの音だけがする。

「学校に着いて、教会に案内されたわ。もう夜で、生徒たちはとっくに寝ていて。校門や寮のあたりには先生が一人いるだけだったけど、奥へ行くにつれ物々しくなって、警官たちの姿が見えた。教会には規制線が張られて、私は何事かと震えた。入り口のあたりに、掃除婦がいたわ。今思えば、彼女が見つけたのね……」重い、ため息が漏れる。「どう思ったかしら」

「え?」

「あれをみて、どう思ったのかと」グレタの目元が歪んだ。「恥ずかしい」

 恥ずかしい? だが今ここで尋ねるべきじゃないだろう、——案の定、グレタは話を続ける。

「教会の中へ入ったわ。真っ先にトレンチコートが見えた。刑事さんが二人いた。それから赤い絨毯。ついで、ようやく、床にうつ伏せに倒れた夫の姿が見えた。どうしてか、虫みたいだと思ったわ。その時は何も知らなかったのに。心のどこかで気づいていたのかしら、……近づくと、トレンチコートの、背の高い刑事さんが、ティモシー・リーヴズ氏の奥さんですかと。私は頷きました。すると、もう一人の刑事さんが、気まずそうな顔で言うの。奥様、大変ショックかと存じますが、……何も言わないでと叫びそうになったわ。夫が死んでいることはわかった。でもそれよりも恐ろしいことがきっとあるのだと思った。それは当たっていた」

「恐ろしいこと?」

「死体を見ろと言うのよ。本人の確認のために。それで、鑑識の人たちが、夫をひっくり返した。その、——そのザマと言ったら!」突然、グレタは声を張り上げた。「私が何を見たと思います? 仰向けになった夫の! あの男、下着をふくらはぎまで下ろして、露出していたの。それは、……それが、勃起したままで——」

 そこまで言ってグレタは顔を覆った。ジョイスは心が曇るのを感じた。とはいえそれは、ある程度、予想していたことだ。

「信じられない! あの変態、——最初は女性を襲ったのかと思って、それでも心が凍ったわ。でも違った、……傷痕の状態から見て、襲った時に返り討ちに遭ったと見られると刑事さんが言って、でも、……その日学校にいた女性は、みんな別の場所にいたことが確認されているというのです。掃除婦の彼女も含めて。傷ができた時刻のだいたいの目安があって、その時間の前後、みんな別の場所にいたの。当然といえば当然よね。彼女たちはみんな教師なんだもの」顔をあげた彼女の唇が、皮肉げに引きつった。「また、傷の深さからして成人男性の手によるものではない。とすれば、ですよ。そんなもの、もう他にないじゃない。夫が襲ったのは女性じゃなく、成人男性でもないのなら、もうあといたのは、——少年だけよ!」

 やはり、そうか。ジョイスは、事前に書いていた手帳のメモを丸で囲んだ。何者かに殴られて死んだことがさやかな死体が、立件もされず即座に焼かれたのは、表沙汰にしたくない恥があったからだ。彼の職業を思えば、それはおそらく宗教上のタブーに触れる行いであり、また外聞も大変悪く、何より、妻が、怒り狂うものであったはず。加えて起こった場所を思えば自ずと予想されてくる。彼は学校の生徒をレイプしていた。

「少年ですよ! 幼い子どもに手を出すなんて、……夫の部屋にはほとんど入ったことがありませんでした。それでも入ってみたわ。そしたら、許し難いものがいくつも……気が変になりそうでした、あの男は今までどういうつもりで私と生活してきたのか、何を思ってあの学校での授業を引き受けることにしたのか、考えれば考えるほど、気持ちが悪くて、吐き気がしたわ。あの男と共にいた時間の何もかもが悍ましくなった。それに、……刑事さん。私たちには、息子がいたのよ、……息子が! もう大学生だったけど、息子がいたの。なんてこと!」

 グレタは両手をギュッと握りしめた。血が通わぬほどの力で、その手は白くなっている。

「怖くてとても聞けなかった。でもすぐカウンセラーをつけたわ。何もされていないことを切に祈った。どうか息子には手を出していませんように……どうか犠牲になったのは見知らぬ子どもだけであるようにと。自分が悪魔に思えた。でも祈らずにいられなかった」当時の記憶が蘇ったのか、彼女は握った両手に口付けるように身を折った。「今もわからないわ。あの子が無事だったのか。襲われたのは誰だったのか。何も知りたくなかった。ただ、あの男が『優しい神父さん』として、穏やかに見送られるなんて耐えられないことと思いました。だから焼いたの。灰にしてやった。あの男には神に裁かれる資格もないわ。その場で、滅びるべきよ」

 ジョイスの脳裏では、得られた裏付けを元にその先へ推理が伸びていたが、彼はそれを一旦切って、震えるグレタをじっと見つめた。そうしてペンの尻でこめかみのあたりを搔きながら、ごくさりげなく手帳へ目を落とした。

「つらいお話を、どうも。……耐え難いことだったでしょう。心中お察しします」

「そうですか」グレタの声は実にそっけない。

「しかし、……ミス・グレタ。やはりあなたはこの事件を見逃すべきではありませんでした」

 グレタは無言で睨みつけてきた。ジョイスは立ち上がり、帰り支度をする。短い廊下へ向かいかけて、彼女の怒りに満ちた目が自分を捉え続けていることに気づいた。だからジョイスも言うしかなかった。

「あなたは、——自分の息子には、カウンセラーをつけたんでしょう」

 グレタは動かないままだった。だが目の中が少し揺らいだ。小さく頭を下げて辞去をし、ジョイスは彼女の家を出て行く。


     17



 おなかを突かれると、勝手に声が出る。それは気持ちいいとか(ありえない!)、痛いとか、そういうこととは関係なしに、体の仕組みとして出るものだ。でも神父様はその声が好きみたいだった。きっと意味なんか分かっていない。

 彼に犯されている間、僕はとにかく暇だった。なるべく何をされているのか考えないようにするためには、何か他のことを考えなくちゃならない。最初のうちは新しく覚えた単語とか、諳んじなきゃならない詩とか、そういうことの勉強にこの時間を充てようとしたけど、だってつまらないんだもの、すぐ飽きてしまう。飽きると、されてることを思い出す。別に今さら傷つかないけど、すごく気持ちが悪いんだ。家にゴキブリが出たとして、処理をしないまま、何と無くこの部屋にいることを忘れていようとしてる、そんな感じだった。たまに思い出すと、怖気がふるう。だからなるべく意識せずにおく。

 正面を見ると、僕に覆いかぶさる神父様が見える。顔を傾けても視界の隅にかくかく動く神父様が見える。だから目をつぶっているしかなかった。そこで僕は、見えない祭壇を、事細かに思い出すことを暇つぶしの遊びに据えた。完璧に細部を思い出すのだ。これがなかなか、上手くいかない。

 手前に説教台があり、そのすぐ裏にキリスト像。十字架に磔になってて、なんだかとてもしょんぼりした顔の。確か金属でできていて、とっても重い。持てなくはなさそうだけど、ずっと運ぶのは難しい。上下に分かれる形になってて、分解するときは、床に置くスタンドから十字架の部分を引っこ抜く。全校集会のときとかに大講堂に運ぶことがあって、持ち運ばれるのを見たことがある。

 そんなキリスト像の裏には、赤い垂れ幕が下がっていて、でもこれは飾りのようなもの。背後に大きくパイプオルガンが見える。とってもきれい、……聖歌隊の子たちがこのオルガンの伴奏で歌うのを、入学の時に、一度だけ聞いた。クリスマスにも歌ってくれる。でもそのときは大講堂だった。大講堂にはグランドピアノがあるだけだ。このパイプオルガンで聞きたいんだけれど。十字架と違って移動なんかはできないだろうから、無理かなあ。

 大きなパイプオルガンのそこかしこを思い出そうとしてると、大抵、終わる。神父様は、清めていきなさいと言って、教会の入り口にある聖水で体を拭うように言う。あの教会の聖水盤は銀でできた薄い盥で、木製の台に載っていた。「清めていきなさい」なんて、汚しておいてよく言うよ。でも、僕だって気持ち悪いから、おとなしく言われた通りにしていた。

 教会の裏には庭があって、いろんな野花が咲いている。僕は花を見るのが好きで、すぐには校舎に戻りたくないとき、鐘がなるまでそこでじっとしている。鳥のさえずりや、お日さまや、風に柔らかく揺れる草花を見ていると、少し心が落ち着く。裏庭からはバラ園にも入れるけれど、生徒は立ち入り禁止だから行けない。家の庭にもきれいなバラが咲いてて、懐かしさに覗きに行きたくなる気持ちはある。だけど僕は規則を破るのは苦手だった。誰も見ちゃいないのに。

 そんなある日、そのバラ園から、ガサゴソ音を立てて、何かが来た。僕は相変わらず庭にしゃがんで、ただ花を見ていた。熊かと思った。

「あれ」確かに背は高いけど、熊と呼ぶには小さな少年が、やがて現れた。「なんでいんの」

「君こそ、」僕はちょっと弾んだ心を抑え込みながら聞いた。「どうしてここに?」

 というか、バラ園から来なかった? 聞こうとしたけど勇気が出なかった。彼、——エドワードは「べつに」と答え、それから僕の視線の先を見た。

「何見てんの」

「え? お花」

「花ァ?」

「うん、……お花、見てちゃダメ?」

「ダメってこたねーけど。ショボい花見てて楽しいの」

「楽しいよ。小さくてもきれい」

「バラのがすごいじゃん」

「でも、バラ園には入っちゃいけないよ」

「お前だってバラのがいいだろ」

「バラのがいいってわけじゃないよ。バラも見たいけど」

「ふぅん」彼は、なぜか少し得意げな顔をして顎をさすった。「じゃ、待ってろ」

 僕が何か言う前に、彼はまたガサゴソとバラ園の中に入ってしまった。やっぱり、気にしてないんだな。怒られるの怖くないのかな。でも僕が規則を破れないのは、怒られるのが怖いからじゃなくて、何か別の理由があるような気もする。破っちゃいけないものだ、って思うと、身動きが取れなくなってしまう。どうして?

 そのうち、あちこちに葉っぱをつけて彼が戻ってきた。その手に何か持ってる。

「やる」

 差し出されたものを、見上げた。バラだ。なんて深くて濃い色だろう。厚い花弁の渦の奥の暗がりにさえ見惚れてしまう、……でも、芳しい香りがほのかに鼻をくすぐって、ハッとした。

「それ、折ってきちゃったの!」

「そうだよ。べつにいいじゃん、いっぱいあるし」

「バレたら、怒られちゃうよ」

「バレなきゃいい。どうすんの。いるの、いらないの」

 好きな人がバラをくれるのに、受け取らないなんてあるだろうか。「いる!」

 受け取って、鼻を近づけた。ずっと強い香りがする。なんだか僕の体の中の、もやもやした、べたべたした、気持ちの悪いものが全部、すーっときれいになるみたいだった。他の香りなんてもう分からない。緑とあかの、くらくらする匂い。

 彼はそんな僕の姿を満足げに見ていた。それで、フン、と鼻を鳴らすと、そのまま、踵を返してしまう。

「行っちゃうの?」

「用もねえから。じゃーな」

 小さく何かを口ずさみながら、彼は悠々と庭を出て行った。僕は手の中にあるバラを見て、思わず笑って、指でくるりと回した。



 ジョイスは車を駅に向けて走らせていた。所轄に記録が残っていれば確認したい。見れるだろうか。都会から離れたのどかな町だ、同じ警察の申し出を疑うほど危機意識の高い人物がいる気はしない。今の自分には書類を閲覧する権限はないが、ごまかせるだろう。

 二◯——年の七月、神父に襲われかけて側頭部を殴りつけたのは恐らくエドワード。それで神父を殺してしまった彼はそのまま逃走した。だが詳しい捜査はされず、事件は闇に葬られ、当然同時期に逃げ出した彼のことを誰も追わなかった。事件に関わっていないなら、よりにもよって同じ日に何も持たずに逃げるはずがない。カーティスもまたこの件に関わっているのだろう。共犯か? いや、それならエディ自身にもっとはっきりと自覚があるはず。彼はカーティスに好かれる理由が分からなかったのだから。もし分かっていたなら、エレノアに対したときに不安を見せることもなかった。

 一方、ではなぜ、カーティスはエドワードに好意を持っているのか。彼も被害を受けた? それは実に考えうる話だ。むしろ、彼のほうが、ずっと前から虐待されていたのかもしれない。エドワードとはほんの数分言葉を交わしただけではあるが、大人しく食い物にされ続ける性格には見えない。そうか、——とジョイスはハンドルを叩いた。初めてだったのだ。神父が彼に初めて手を出したその日に彼は抵抗し、見事に返り討ちにした。カーティスはそれを知っていたか、きっと後から悟ったのだ。神父の死と彼の逃亡が同じ日であることくらい、当時の生徒にはすぐに知れただろう。

 徐々に建物が増えてきた。ガソリンスタンドや飲食店、たまに民家がまばらに見える。このまま進めば駅に着く。署はその小さな町の中だ。ジョイスは考えを巡らせながら、胸が悪くなるのを感じた。謎が解けていく高揚感とは裏腹に吐き気がわだかまる。一体神父は何人に手を出していただろう。どれくらいの期間、何度、子どもたちを貪ったのか。

 オリバー・ランバートに思いを馳せる。彼もまた何か知っているだろうか。その可能性はかなり高い。他の同窓会などの記録を見ても、彼は明らかにカーティスと顔を合わせることを避けている。やましいことがあるか、恐れているかのどちらか、——あるいは両方。それとも、と頭をよぎった推測が、またも心を曇らす。彼も被害者? だとしたら、思い出したくない記憶から逃げているだけのことかもしれない。

 事件の全容はもはや把握し難い。当時、学校や教会、そして遺族が、恥を恐れず報いを受けていれば、犠牲となった子供たちには適切なケアができたかもしれない。特にエドワードに関しては、家を飛び出してスラムに戻る必要はなかったはずだ。それがゆえに今の彼の貧窮があるのだとすれば、それは耐え難い不条理に思える。十年前、彼らは十二歳。自分はおおよそ今の彼らと同じくらいの歳だった。十二歳の少年が、襲われかけて人を殺し、一人逃げ出すときの気持ちを当時の自分は想像し得ただろうか。今の自分には、想像を絶する。

 駅前に入った。駐車場の類いが見当たらない。仕方なく交通の少なそうな、比較的広い路地に車を止める。マップアプリを立ち上げて署の位置を確認しようとしたところで、電話がなった。エレノアからだ。

「ジョイス・ハーディ」名乗ると、彼女の声が聞こえた。

『エレノア。あの、……言おうかどうしようか、迷ったんだけど。今なにしてる?』

「十年前に死んだ神父の住んでいた街まできてる。遺族に話を聞きにね。エドワードとカーティスが在籍していた学校で聖書を教えていた人物だ」

『そう、』声に影が差した。当然、彼女は事件の概要をほとんど予想できているだろう。『何か分かった?』

「いろいろ。だが君の用件は違うね?」

『ええ。本当は、あまり、言わないほうがいいと思うの』まだ迷っている声だった。『だから、できればあなたは、私から聞いたということを忘れてほしい』

「分かった。迷惑はかけない」

『半年前、フレディ・オースティンが保釈された。覚えてる?……ライデンナッツの皮剥ぎ魔』

 数秒、時が止まった。

「奴が何を?」声が震えないよう堪えるのが精一杯だった。それも上手くいかない。

『今回の件について、簡単な報告書をあげたの。伏せておくには問題のある件だと思って。小指の件は伝えてない。あなたが関わっていることも誰にも知られてない』

「ありがとう。それで」

『今日になって、上司が私に言った。何かわかればすぐに報告をあげろと。妙だと思ったわ。何か手がかりがあるんじゃなきゃ、今の段階で前のめりになるはずがない』聞きながら、ジョイスは頷いていた。『そしたら、ツイッターで見かけたニュースが気になった。ライデンナッツの皮剥ぎ魔って、娼婦ばかりを狙った男よね? もしあの男が今いる街がここなんだとしたら……その情報はもちろんうちの署に届いている。私が知らなくても』

 思いも寄らなかった。つまり、それは、ジョイスの見立てが間違っていたということになる。金髪碧眼の二人の他に、確かに多くの黒人男娼が行方不明になっていた。彼らが単に街を移ったのじゃなく同じように消されたのであれば、あのクソ野郎の餌食になった可能性は十分にある。あの男は、身寄りのない、いなくなっても誰も探さない、消しやすい相手としてかつて娼婦を狙ったのだ。娼婦じゃまた疑われると思って、安易に性別を変えでもしたか。

『彼を終身刑にできなかったのは警察としても悔しかったはず。再び何かやらかしてるなら今度こそ、と思うでしょう。だから私なんかの報告書にあんなに反応したんじゃないかな。つまり、……あなたの捜査の線は、間違ってるかもってことなんだけど』

「うん、可能性は高い。ありがとう。俺としても——ただせっかくだから、もう少し気になることを調べてから行くよ。君は捜査できる?」

『そのうち重犯課に取られるにしても、捜査の口実はあると思うわ。ちょっと聞き込みをしてみる』

「ありがとう。でも、フレディに直接は会うな。何をされるかわからない。本当に。行くなら逮捕の時だけだ。それか応援を伴って行け」

『ご忠告どうも。肝に銘じる』

 通話が切れた。ジョイスはしばらく、マップが開かれた画面を見つめていた。フレディ・オースティン。忘れるはずがない。四年前の忌々しい事件、俺がしくじったあの事件の、犯人だ。終身刑にできなかったのは、俺のミスのせいでもある。そして目の前で、彼女が死んだのも。

 ジョイスは頭を横に振った。今の精神状態で今後の方針を決めるべきじゃない。ひとまずここまで調べたのだから、十年前の事件に一応の決着をつけておくのがいい。納得したら、あの街へ戻る。ほとんどのことは知れているはずだが、ジョイスはまだ何か落ち着かない気分でいた。まだ何かある。そんな予感がする。

 気を取り直して画面を見ると、署は存外にすぐ近くだ。踵を返し、表通りへと向かう。



「よし、いいか。すみずみまで見るぞ」

 子供たちの前で、ウォルトは腕組みをした。ウォルトより年長の少年が茶々を入れる。「おいおい、リーダー気取りか?」

「うるせー! おれが思いついたんだ。おれの作戦だから、おれがリーダーだ!」

「作戦っていっても」と、輪の中の少女が口を開く。「手当たり次第にあたるだけだろ?ほとんど運じゃん」

「うるせーなあ。だったらフィンは思いつくのかよ」

「つかねーけど。でもまあ、河じゃん? 河の近くだと思うけどな」

「そんくらいおれにも分かってるよ。だから、水場だ。水場をさがす」

「水場って、溝とかも?」尋ねたのはまた別の少年だ。

「うん。もしかしたらすててあるかも。へんなのあったら、みんなに言うんだぜ。さわるまえに」

 数日前。正体不明の殺人鬼のせいで、なんとなくみんな怖がって〝仕事〟に行かなくなっていた。元々エディは「俺が稼ぐから余計なことはするな」と言うし、ビリーもそれには賛成のようで、だから〝仕事〟をしなくなったとて問題があるわけじゃなかったが、ただでさえやることがないのにますます暇で、困ってしまう。それでウォルトは不意に思いついた。死体が出てくれば、事件になるんだよな。おれたちで見つけられないだろうか。

 とはいえきっとエディやビリーに相談したら止められる。だからこっそり子供たちにだけ話してみた。みんな暇だったし、みんな、やっぱり、二人が見つかってくれたらいいと思っていたから、すぐに乗ってきた。それでここのところ子供たちは朝早くに起き出して、街のいろんな場所を探し回っていた。死体が捨てられてないかと。

 今日も今日とて成果はないまま、日暮れ前になった。所詮暇つぶしなのは否めないから、みんなの集中はそんなにもたず、何度か休憩を挟んでは再開するたび集まっていた。子供の彼らには当然プロファイリングの知識などないし、ただきっと見られたくないものを捨てるならこの〝河〟だろうと思うから、河沿いを調べているだけだ。この街に住む人間ならば誰でもそんなふうに思う。緑がかって薄茶けた灰色のドブ水の底は、嫌なものが嫌というほど沈んでるだろう。投げ入れてしまえば、誰も掬わない。

「おれたちで見つけてやるんだ」それでもウォルトは気合を入れる。「よし、散った!」

 気の抜けた返事をして、一同はぶらぶらと去る。ウォルトは不満げに唇を曲げた。

 まあ、いい。おれはちゃんとやるぜ。

 ボロボロになったマップを広げる。どこまで見たかをメモするために、駅にある案内のパンフレットを拝借した。ポケットに突っ込んだまま走って水たまりに落としたりするから、折れ目のところの印刷はもうほぼ剥がれてしまっている。この街はウォルトにとってもはや庭みたいなもので、多少判別がつかなくともメモに使うには支障がない。

 今日はどこから行こうかと、眉根を寄せていたときだ。

「やあ、君」

 頭上から声がして、ウォルトは上を振り向いた。見知らぬ男が立っていた。短い金髪に丸縁の眼鏡で、三十代の半ばくらい。目を細めて笑みを浮かべている。ウォルトはまた眉根を寄せた。

「なに? にーちゃん」

「君ら何をしてるの? ここのところよく見かけるから、気になってさ。大勢いるし」

「おう。探しモンだ。ぜったい見つけてやるんだ」

「何を探してるの?」

「ナイショ」

「内緒かあ」困ったように男は笑った。クルーネックのサマーニットはくすんだブルーで、質が良さそうだ。現金を多く持ち歩くタイプじゃないだろう。時計はしていない。「私に手伝えることだったら手伝いたいけど、そうじゃないのかな」

「だめだ。知らないやつは入れない」

「そっか。子供だけで探してる?」

「そーだ。知らねえやつはみんなだめだけど、大人はもっとだめだ」

「それはそうだよね」男は屈み込み、マップを覗いてくる。「赤いのは、調べたとこ?」

「かってに見んなよな」ウォルトは不機嫌にそう言ったが、男が退く気配はない。

「でも、子供たちだけじゃ危ないところもあるだろ?」

「ヘーキ。ちょっとでかいやつもいるもん」

「そっか」男は、考える間をとった。「ここのあたりは、危ないから、ちゃんと大人と一緒に行けよ」

 男の指が、河の下のほうをさした。ずいぶん短く爪を切ってある。その指をまじまじと見てると、男はさっと手を引いた。

「じゃあね」

 去っていく男の背を、軽く睨む。なんなんだ、あいつ。

 心配してるような口ぶりだったが、とてもそうとは思えなかった。眉間の皺が深まって、疑念がじわじわと湧いてくる。すると、カーティスの言っていたことが頭に浮かび、急に不安になった。あいつ、もしかして〝あぶない〟やつか? おれらがあぶない目にあうと、エドが悲しむと彼は言っていた。たぶん顔を覚えられてしまった。カートに相談してみようか—— 

「ウォルト」

 と、今度は前方から、聞き慣れた声がした。ぱっと首を前へ向ければ、ビリーがひらひらと手を振っている。嬉しくなったのも束の間、不都合な事実にウォルトは気づいた。こっそり出たのに、ばれてるじゃないか。

「ビリー。なにしてんの」

「そりゃこっちのセリフだぜウォルト」ビリーがニヤニヤとしゃがみ込む。「ここんとこ朝から抜け出して、ガキどもは何企んでんだ?」

「うるせー、ちょっと探しもんだ」

「探しもんねえ。無茶すんなよお?」

「しねーって! みんないるんだし」

「そりゃそうだけどな。……さっきのは?」

 一瞬、なんのことかわからず、ぽかんとしてしまった。が、すぐ返す。「知らねーやつ。話しかけてきた」

「ふぅん。俺も見たことねーや。長くいるやつじゃねーよな」

「わかんねー。カモにはなんなそう。いいもんつけてなかった」

「金はありそうだったけどな。何聞かれたんだ?」

「ビリーといっしょ。何してんだって」

「そんで?」

「手伝えるなら手伝うとか、子供だけだとあぶねえとか」

「へえ」

「このへんは、一人で行くなって言ってた」ウォルトはマップをつついた。まだ探していない場所だ。

 ビリーは何か思案顔でマップの上を見ていた。ウォルトは少し戸惑う。あの男がどうかしたんだろうか。やっぱりあぶないやつなんだろうか。 

「この辺だな?」ビリーは先ほどウォルトが示したあたりをなぞる。

「おう。このへん。あぶないって」

「オーケイ」立ち上がって、ウォルトの頭を撫でた。「飽きたら帰れよ」

「なんだよ。おれはマジなんだぜ!」

 ビリーは取り合わず、またひらひらと手を振った。それからポケットから携帯を取り出し、歩きながら誰かにかけている。ウォルトは思わずその様をじっと見守ってしまった。ビリーは、電話の相手と親しげに、でも真剣な顔で話していた。



 雨が降っていた。空を見ると、東のほうが真っ暗だった。今は大した降りじゃないけど、そのうち大げさなものになるだろう。ひどくなる前に終わるといいけど。

 今日は金曜日。憂鬱な日だ。今日の授業には珍しくエドワードが出席していて、といってもたぶん雨だからだけど、僕としては彼の姿が見れたのは嬉しいことだった。授業中、やはり彼は寝ていて、神父様が何度か声をかけたけど、起きる気配もなかった。すごい胆力だ。

 そういえば今日は授業の後、神父様が声をかけてこなかった。いつも、少し残っていきなさい、と言いつけるのに、それがない。もしかして今日は神父様に別の用事か何かあって、僕は何にもされないのかな、と期待してたら、教会の入り口に立っていた僕に神父様が言った。「今日は帰ってよろしい」——やった!

 でも、その脇をすり抜けて帰ろうとしたエドワードに、神父は声をかけた。

「君は残りなさい。話がある」

 チッと舌打ちして、彼が立ち止まる。僕は不安になった。もしかして……でも、ほんとうに叱るだけかも。エドワードときたら一度だってまともに授業を受けたことがない。彼に説教をするために、今日は〝ナシ〟になっただけじゃない?……「それじゃあね、カート。また来週」。エドワードが教会に戻ると、神父はドアを閉め切った。

 胸騒ぎが止まない。どうしよう。

 雨が強くなり始めていた。こっそり中に入って、様子を見る? どうせこのままじゃ雨に濡れてしまう。裏庭から祭壇の裏に出れることは知っている。でもそこからじゃ、とっさの時に飛び出しては行きづらい。二人は今どこにいるんだろう、……扉に耳をつけてみると、話し声が遠ざかって行くのがわかった。祭壇に向かって歩いてる?……表からでも、バレないかもしれない。

 僕は呼吸を落ち着けて、ゆっくり、ゆっくり、扉を押した。少し軋むような音がして肝が冷えたけど、外の雨音が、うまくかき消してくれたみたいだ。身を低くして滑り込み、すぐそこの座席に身を隠す。神父様は教会の真ん中あたりにいた。エドワードは祭壇の側に、距離を取って立って、パイプオルガンを見上げている。神父様がエドワードに言う。

「どうして君は授業を聞かないんだい」

「アンタから教わることなんざなんもねえな」エディは振り向きもしない。

「そうかもしれない。でも私が語っているのは神のお言葉だ。君は、神からも、何も教わるものはないと?」

「ねえよ。その神とやらに、世話になった覚えがないね」エディは、やっとこちらを向いた。せせら笑うような顔だ。

「そうかい。……では君は、神の子ではないと」

 嫌な予感がする。エディも何か感じ取ったのか、訝しげに眉をひそめる。神父が一歩近づいてきた。その分、エディは後退する。だけどいずれは行き止まりだ。胸がバクバクと鳴る。痛い。

「なんだよ、」エディの顔がはっきりと歪んだ。「気色悪ィ。なんだ?」

「君は悪い子だ」突然、神父は言った。「とても悪い子だ。悪魔に魅入られている」

 ちがう! 僕は叫びそうになった。だってあの男は、僕には、「天使のようだ」って言うんだ。「私の罪を受け入れてくれ」と。でも、同じことをするんじゃない。天使だろうが、悪魔だろうが、自分のために踏みにじるんじゃない。

 殺してやる。もし彼に、触れるようなら僕が殺す。

 突然ハッキリと湧いた殺意に僕は自分で驚いていた。と同時に、拍子抜けもした。なんだ、だったら最初から、殺してやればよかったじゃない? 毎週、犯されるのが嫌なら、殺してしまえばよかったんだ。

 神父が息を荒くしている。嫌だ。あの呼吸。気持ちが悪い。拳をぎゅっと握りしめて、僕は気づいた、——武器がない。石でも拾っておけばよかった! 非力な僕があの人を素手で殺すなんて不可能なのに。

「おい、ふざけんな」エディは驚愕したような、信じがたいというような、動揺した声を出した。「何のつもりだよ。お前、神父だろ。聖職者が何するってんだよ」

「何を戯言を。君は今、自ら神を否定したじゃないか」

「だけど、」

「神の子でないなら、私が何をしても構うまい。君が加護のもとにいないなら、神も、きっと見逃してくださる」

 僕は必死で辺りを探した。何か重いもの、鋭いもの、力一杯殴ったら止められるようなもの、……でも見当たらない。焦りが募った。早く何とかしなくっちゃ、嫌だ、見たくない。そんなの嫌だ。

 二人を窺うと、もうエドワードは説教台のすぐ前まで来ていた。神父が彼に迫っている。そして、次の瞬間——襲いかかった。

「やめろ!」

 響いたのはエドワードの声だ。説教台に乗り上げて、必死に抵抗している。僕は動けなかった。神父が、彼を取り押さえようとしながら自分の下着を下ろしている。彼はそんな神父の腹を何度も蹴り付けているようだ。神父は舌打ちをして、彼を殴ろうとする。彼はじたばたと暴れて避ける。僕は不意に彼の背後を見た。何かが、大きく揺れている。

 それは取っ組み合う二人の動きで徐々にバランスを崩していた。前へ、後ろへ、大きく揺れる。固定された説教台の上の動きが、床に伝わって、背後のそれを傾けていた。僕は凝視していた。それをじっと。僕は、祈っていたのかもしれない。

 ひときわ大きい揺れのあと、それは前方へ倒れ込んだ。顔のすぐ横に倒れたそれにエドワードが気づく。彼の胸にむしゃぶりついている神父を剥がそうとした手を離し、逆手にそれを掴んで、——引き抜いた。

 空を切る音が聞こえるような、素晴らしいスイング。

「がぁっ、」

 彼が水平に振り切った十字架の角が、神父の頭に当たった。その一撃で彼は横に剥がれ、ふらふらとよろめきながら後退して、何を思ったか、教会の出口へ逃げ去ろうとした。だけど自分の下着に足を取られて、真ん中の通路でつまずいた。どすん、と重い音がする。神父がうつ伏せに倒れている。そのまま、微動だにしない。

「……やった」

 僕の小さな呟きは、誰にも聞こえなかったろう。

 彼をみる。彼は説教台に腰掛け、体勢を整えていた。僕はそのときの光景を克明に記憶している——右脚は半ば伸びていて、床に触れるか触れないか。左脚は曲げられたままで、微かに肩が上下している。左手を説教台に突き、だらりと下がった右腕の先に、しっかりと十字架の、キリスト像が握られていた。パイプオルガンを照らすライトが、彼を上から照らしている。

 神様だと思った。僕の救世主なのだと。

 エドワードはしばらく、通路に倒れた神父の背を上からじっと見下ろしていた。もう動かないか確認している感じだった。納得すると、そこでようやく彼は自らの右手を見た。自分が何を掴んだのか、多分わかっていなかったのだ。持ち上げられたキリスト像の左端が血に濡れている。十字架の、左端。

 彼の顔が青ざめた。何が起こったか理解したんだ。でも彼は取り乱してすぐさま放ったりはしなかった。ゆっくりと、倒れ伏した神父と、自分の手にあるキリスト像を見つめて、何かを考えてるようだった。そして、——十字架を床に置くと、一目散に——駆け出した。

 あっという間に彼は出口までたどり着いて、ドアを開けた。僕には全然気づかなかった。開け放されたドアを見て、遠ざかる背を茫然と見送る。ちょっとぼうっとしてしまったけど、すぐにハッとした。追いかけなきゃ。きっとこのままいなくなってしまう。僕の救世主なのに、会えなくなる。

 後を追おうとしたとき、何か聞こえた。思わず立ち止まって、気のせいかと思う。でもその瞬間もう一度聞こえた。恐る恐る、振り返る。神父様が、呻いている。でも立ち上がる気配はない。水溜まりに落ちた蛾みたいなもの。

 視界の隅に、入り口が見えた。僕は、いいことを思いついた。



     18



 資料室の扉が閉まり、ジョイスは笑顔を浮かべるのをやめた。捜査資料の閲覧願いは実にあっさりと受理された。書類の提出も要求されず、ああ、見たいならいいですよ、の一言。十年前に終わった事件が今更どうかしましたかとそれくらいは尋ねられたが、適当なことを答えるだけで気のない返事が返ってきた。格別、興味もないらしい。

 まずいな、と胸中で呟く。規則を破ることに抵抗がなくなってきている。罪悪感くらい覚えたほうがいい。とはいえこれほど簡単だと、胸を痛めるより先にどうしたって呆れてしまう。片田舎の情報管理などこのようなもので、家の鍵だって開けっ放しだ。

 一応年ごとにファイリングはされてあった。ボックスを検めていき、十年前の七月を探す。五分もすると見つかった。それから日付を頼りに漁り、クリアファイルに挟まれた束を見つける。平和な地域には珍しい殺人事件であったはずだが、早々に立件が見送られたため資料の量も寂しいものだ。

 詳しい現場の状況の記録。その内容が正確だとして、グレタの記憶はさほど間違っていない。忘れたくても忘れられないのだろう。当時鑑識が撮った写真もあった。死体の様子は——その意味が分かっているからか——ひどく無様な格好に思えた。ジョイスは思わず顔をしかめる。

 この事件が立件されて、エドワードが逮捕されたとしても、恐らく正当防衛は認められただろう。彼は追い討ちをかけたわけでもわざと見殺しにしたわけでもなく、逃げるためにたった一撃、殴打を加えて去っただけだ。犯人がエドワードだというのはあくまでジョイスの推測としても、捜査記録はその他のことをよく示している。悔しくなる。きっと彼は、誰にも助けてもらえないと思っていたから、逃げたのだ。そして警察は彼の考えた通りの対応ですませた。やるせない。

 ファイルをめくっていて、医師の調書を見つけた。死因特定のために病院から呼ばれただけの当直医のようだ。結局のところ死因は心不全ということでかなり強引に処理されたわけだが、当の専門家はどう見ていたのか——と、読み始めてすぐにジョイスは、両目を見開くことになった。

『まずこの殴打痕だが、直接の死因ではないと思われる。確かに脳震盪くらいは起こしたようだが、そこから死亡に至るほどの症状につながった形跡が確認できなかった。つまり被害者は、殴られたまま放置されたとして、多分それだけでは死ななかったはずだ。そのうち起き上がって、自力で保健室に行くくらいはできたのではないだろうか』

 心臓が喚き始める。つまりエドワードの一撃は、彼がそれだけで済ませていたなら、神父の命を奪いはしなかった? だが実際のところ彼は死んでいる。トドメを刺した者がいる、——もしかすると、エドワードの他に。

『では直接の死因はというと、見た限り窒息死である。呼吸を阻害された形跡がある。ただ単なる窒息死とも思えない。現段階で断定はできないが、水に顔をつけられたのではないかと思える。詳しいことは省くが、何より、神父の衣服は襟の辺りがわずかに湿っていたと聞いた。知っている限りの遺体の状況から、自分には神父は、に顔をつきこまれたと思われてならない』

 ジョイスは急いで現場記録の書類に戻った。教会内部を撮った写真を改めて確かめる。座席、祭壇、パイプオルガン、床の絨毯、十字架、違う、あるはずだ。カトリックの教会ならば、形はそれぞれ異なるとしても、——ほら、あった。

 聖水盤!

 ジョイスは手が震えるのを感じた。それがどんな虫ケラ野郎であれ、全く抵抗のできない相手を、意図をもって確実に死に追いやった者がいる。明確な殺意を持って、死ぬと分かっていて殺した者が。つまり、それは、紛れもなく、〝殺人罪〟だ。時効は無い。

 次にすることは決まっていた。ずっと探していた〝口実〟が、今はもう、手の中にあった。



 四年前の事件の捜査資料を閲覧していたエレノアのもとに着信があったのは、彼女がジョイスに電話をかけたその数分あとだった。番号は非通知。ということは公衆電話かプリペイド携帯から、少年たちがかけてきた可能性がある。エレノアの私用電話——と言ってもこれは仕事用にサブとして携帯しているものだが——の番号まで知っている提供者は限られる。ひとまず、応答した。

「はい、エレノア」

『ようエリー! 俺だぜ』

 陽気な声にほっとする。ビリーだ。とはいえ、突然の着信なのは気にかかる。内心で案じつつ、エレノアは調子をあわせる。

「先日ぶりね。元気? どうしたの? かけてくるなんて珍しい」

『いやあ、大したことじゃないんだけど』外にいるようだ。快活な声の狭間に、街の喧騒がかすかに聞こえる。

『署にわざわざ電話かけるのも違うなあ、ってなってさあ。でももしかして、この前の刑事さんやエリーが知りたいことかも、と思って』

「失踪の件ね? 何か分かった?」

『関係ねえかもしれねえぜ?』ビリーはそう言って笑い声を立てた。『ホント単なる思いつきなんだ。ついさっき、妙なヤツを見かけて』

「妙なヤツ?」

『うちのガキどもがさあ、〝死体探し〟をしてんだ。いなくなったヤツらを見つけてやるとか言ってな。といっても暇つぶしみたいなモンで、マジに探してるわけじゃないけど』

「死体探し」復唱しながらメモを引き寄せる。「危ないわね」

『そのうち飽きると思うけどな、まあ気を付けろっつっといたよ。で、さっき、ヤツらがまさに死体探しをしてるトコに出くわした。でも俺の前にガキに声をかけたヤツがいた。見かけない顔だ』

「どのあたり?」

 通りの名前が返ってくる。『そのあと地図を示して、この辺には、子供だけで行くなよとかなんとか、おせっかいを言ったらしい』

「そう。……見た目の特徴は分かる?」

『バッチリ見てたぜ! 短い金髪で、グレーの目だ。丸い金縁のメガネをかけてた。三十五、六ってとこかなあ』

 エレノアは捜査資料にある写真から目が剥がせなくなった。「そいつは河のどこを指してた?」

『下流のほうだ。でも流れの速い……ほら、河沿いに、飲み屋があるだろ』

 どこだか分かった。エレノアは、通話が続いているのも忘れて黙り込んだ。この情報を、どうする? どこにどうあげれば、その周辺で〝死体探し〟ができる? 

「ビリー、あなたはどう思う?」エレノアはこの頭の冴えた少年の知恵を借りるべく訊いた。「あなたが犯人だとしたら、なんの意図があってその場所を告げたと思う?」

『んー……』考える間を取ったあと、ビリーは言った。『ウォルトは誰がどー見たって跳ねっ返りのクソガキだ。だから自分の言ったことを素直に聞くとは思わねえよな。だったら逆のことを言うと思う。大人と一緒に行けっていえば、子供たちだけで来るだろう、って。つまり、……大人に見られたくねえもんが、言った場所にあんじゃねえのか』

 それはエレノアの予想と一致していた。今の段階では大博打、これだけで捜査員を派遣することはできないだろう。だけどもしここから何か出てきたら……

「ビリー、悪いんだけど」他に誰もいないオフィスで、それでもエレノアは声を潜めた。「頼まれてくれない? 今の件、ちょっとだけ〝盛って〟ほしいの」



 ジョイスは目の前の青年を見つめた。いかにも銀行マンらしいスーツ姿のその青年は、真っ青な顔でジョッキを握っている。夜通し賑わうパブの片隅で、二人は小さなテーブルを共有している。

 郊外の町からオリバーの連絡先——勤めている証券会社に連絡した際、なるべく早くにお会いしたいと伝えたら、なんと今日の夜中を指定された。そういうことなら仕方がないと車を飛ばして都心へ戻り、日付も替わろうかという今、こうして顔を突き合わせている。電話口で声を震わせた彼は、裏腹にずいぶん落ち着いてもいた。この時が来るのを知っていたように。

「電話でも少し話しましたが、」ジョイスはそんな彼の目をしっかりと見据えながら言った。

「私が調べているある事件に、十年前の神父死亡事件が関係している疑いがありました。それであれこれと調べていくうち、どうも、これはただの突然死ではないと分かった。私は今、あれは殺人事件だったと思っています」

 オリバーの表情を窺う。真っ青なまま、変化はない。ジョイスは彼から目を離さずにポケットの手帳を取り出し、開いたあと、そこへ目を落とした。

「十年前、一年生だったあなたは、カーティス・シザーフィールドと同室でしたね」

「……はい」

 ようやく声が聞こえた。黙り込まれることを危惧していたジョイスは少しほっとした。

「だが同窓会などの記録を見るに、どうもあなたはカーティスと顔を合わせることを避けている。ずいぶん徹底していますね。学校関係者に聞きましたが、当時、亡くなった神父が受け持っていたクラスは三つ。あなたとカーティス、それから、神父の死亡と同日に姿を消したある少年は、みんな彼の受け持ちだった」また、目を見つめる。「単刀直入に聞きます。あなたは何か知っているのでは?」

 オリバーは俯いたまま、上唇を舐めた。そして、ジョッキを勢いよく煽り、二口分ほど一気に呑むと、音を立ててジョッキを置いた。その音に彼自らが驚いた顔を、一瞬、つくった。

「はい」声は僅かに震えていたが、はっきりもしていた。「こんな夜中を指定して、すみません。でも、明日に持ち越すんじゃ、もう耐え切れる気がしなかった。ずっと言いたかったんです。誰かが聞いてくれるのを、ずっと、待ってた」

「十年も、お待たせしてしまった。責任は我々警察にあります」

「……そうかもしれない。でも、俺も、……言い出せませんでした。たぶん、……同罪です」

 ジョイスは目の前の青年を心底気の毒に思った。グレタにしたって、打ち明けることで胸のつかえが取れた様子でもあった。伏せるべきではなかった、——墓穴の底に突き落とし土をかけた記憶や真相は、だが地の底でずっと生きていたのだ。呼び声が関係者の鼓膜から去ることはない。意識する、しないの差はあれ、常に聞こえ続けていたはずだ。

「辛いご記憶になるかもしれませんが、最初から、お話しいただけますか」

 気の毒な青年は、視線を落としたまま、ほんの微かに頷いた。

「知っていました。見てしまったから。カーティスは、……たぶん、ずっと、虐待されていたんです。あの神父に。そしてカーティスも俺が見たことを知っていた。その日の終わり、寮室で、言われました。『誰にも言わないで』と」

 ジョイスは静かに手帳を開いた。「その日」というのは神父が死んだ日のことだろうかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼はそれ以前の出来事を話している。

「迷いました。先生やなんかに、相談すべきじゃないのかと。でも、……カート本人が、言わないでくれって言うから。もし俺が同じ立場だったら、……俺も、言わないでほしいかもしれないって思った。あんなことされてたなんて、だれにも知られたくないだろうと。俺が知ってしまったことも、彼にとっては悔しかったに違いないんです。余計なことを、……それで、ずっと、黙っていました。今日に至るまで……だけど」

 そこで彼は言葉を切った。ジョイスはペンを止め、言葉を待った。

「俺が見たのはそれだけじゃない」

「神父が死亡した日にも、何か見たんですね?」

「はい」頷いて、彼は唇を舐めた。「神父様が死んだ当日、俺は、エドワードが——さっき刑事さんが言っていた、あの日にいなくなった少年——彼が教会のほうから、必死になって駆けてくるのを見ました。それで俺は胸騒ぎがして……神父がカートを襲っていたのは、教会でしたから。そこから彼が、普通じゃない様子で走り出てきた。何か起こったと思った」

 見立ては正しかったらしい。恐らくその時、神父に襲われたエドワードがキリスト像を叩きつけ、頭部側面の傷痕を作った。神父はそれでいっとき、動かなくなったのかもしれない。エドワードは、多分、殺してしまったと思っただろう。

「何をするのが正しいか、俺はずっと、わからなくて、でももしかしたら贖罪のチャンスがきたのかもしれないと思った。カートを見殺しにして、彼が何をされ続けてるかわかっているのに黙っていた自分が、何か、彼に報いるチャンス。神父を殴るでも、なじるでもいい、一緒に手を引いて逃げるのでもいい、俺にできることがあるかもしれない。そう思って、俺も教会に走った。途中で石を拾って、夢中で。雨が降っていた気がする。顔だの服だのがどうなってたかは覚えてないけど、拾った石が湿っていたのを、妙に覚えています」

 当日が雨だったことはグレタも言っていた。それにしても……オリバーは少なくとも、カーティスを「カート」と呼ぶ程度には親しかったようだ。確かパブリック・スクールに通う子は苗字で呼び合うのではなかったか。ジョイス自身もまた中流階級で、アッパークラスのことはよく知らない。家柄がはっきりしている生徒が大半だからかと思うが、しかし庶民のオリバーには、その習慣はあまり関係がなかったのかもしれない。

「辿り着いて、ハアハア息をしながら、扉を開けた。そしたら、カートがいた。それから、うつ伏せの神父」オリバーはぎゅっと目を瞑り、脳裏に映る光景に没頭しているようだった。「カートは神父の頭の横にかがみ込んで何かをしていた。最初、よくわからなかった。落ち着いてきて目を凝らすと、カートの右手は神父の頭の上にあった。載せているだけに見えました。もっとよく見ると、神父の顔の下に、何かあった。反射するものが」

「それは、——」

「はい。距離があったから、判別するのに時間がかかった。でもそのうちにピンと来た。聖水盤だって。教会の入り口のとこの、台の上に、いつも置いてあるやつ。銀でできた、薄い、盥みたいなもの。……目の前の光景が意味してることが、そのときに分かった。頭が真っ白になりました」

 オリバーは、ようやく過去の情景から帰ってきて、瞼を開けた。

「カートはたぶん俺がいることにとっくに気づいてた。でも動じるでも、こちらを見るでもなく、ただずっと手を置き続けて、……俺はそれを、止める事が、できなかった。そのうち、彼は神父を覗きこんでから、ようやく放して、俺の顔を見ました。立ち上がって、ゆっくり近づいてくる。怖かった。でも動けなくて。頭の中ぐちゃぐちゃで。とっ散らかってて……」オリバーの顔が歪んだ。ジョイスは思わず同情を顔に出した。当時の彼は十二歳だ。

「すぐそこまで来たときに、カートが笑ってるとわかりました。彼はちょっとだけ、楽しそうに微笑んで、俺に言った」ひとつ息をつき、告げる。「『秘密にしてね』」

 棺は開けられた。ジョイスは、目の前に広がったものをどう仕舞うべきか、頭を巡らせていた。

「俺は、……そのあと、どうしたのか、記憶があやふやで、よく覚えてません。気づいたら部屋に戻っていました。だから見たことも聞いたことも、全部夢じゃないかと思って、できれば、夢であってほしくて、そうじゃないことがわかるのが怖くて、彼に会うことはずっと避けてきた。でもやっぱり、あれはあったことです。あったことなんですよね。こんなにはっきり覚えているんだから」

「……おかげで、分かりました。十年前に何があったのか」

「俺の告白は、」オリバーはハッと顔を上げた。「手遅れじゃ、ないんですよね」

「手遅れ?」

「言うのが遅すぎて、……今更言ったって、いいことがないんじゃないかって。俺は楽になるけど……でも、新しい事件の解決の、役に立つんなら、意味があるかと。あの、」ジョイスを窺うように見つめる。「俺の言ったこと、誰かの助けに、なるんですよね? だから、聞くんですよね?」

 ジョイスは一瞬、答えに詰まった。だがすぐに口を動かした。

「もちろんです。貴重なご協力、大変感謝いたします」

 ほかに言うべき言葉などなかった。——それが事実ではなかったとしても。

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