第10話 黒川葉子


 俺は表情を変えずに詠を見やる。

 上空に広がっている暗雲が、うねりながら勢いよく流れていく。

 雨脚が急に速まり、社の屋根を強く叩きはじめた。


「……何度か休憩しましたが、一生懸命……桜居さんを運んで。ですが、あの場所まで来たところで、私も倒れてしまいました」


「……」


 御神木から俺が倒れていた場所まで一キロはある。

 小柄で見るからに非力な詠じゃ、そこまで俺を運べただけでも凄いことだ。


「……目を覚ますと私は家で寝かされていました」


 詠は神社に目を向ける。


「お母さんは桜居さんのことに気づかなくて、倒れていた私だけを家に……私はそのあと何日も意識を失っていたみたいで、先日はその翌日だと勘違いしていました」


 ぎゅっと傘の柄を握り締める。


「でも、沙夜さんから、桜居さんのことを聞いて」


 壊れそうな微笑みを浮かべ、


「嬉しかったです。私、桜居さんが死んでしまったと思っていましたから」


 ぐすっ、と、詠は子どものように鼻をすする。

 頬を伝って雫が落ちる。だけどそれが涙なのか雨粒なのかは分からなかった。


「……ごめんなさい」


「そんなこと気にするな」


「でも……」


 俺は立ち上がる。

 傘を受け取り、詠がこれ以上濡れないように柄を動かす。


「詠がそこまで運んでくれたから、俺は沙夜と彩に助けられたんだ。第一、別に俺が死んだって──」


 と言いかけてやめる。

 詠の黒い瞳が潤んでいたから。


「そんな悲しいこと、言わないでください」


「……悪い」


 とは返したものの、仮に俺が死んでいたとしても、詠の悲しみは一時的なものだったと思う。初対面の相手なら尚更だ。


 所詮は他人の死。

 家族や友達の場合とは訳が違う。

 悲しいのは一瞬で。

 どうせすぐに忘れてしまう。

 そしてやがて、忘れてしまったことすら忘れてしまうだろう。

 俺が死んでしまったという事実は、すぐに記憶の奥のほうに押し込められて、二度と出てこない。きっとそういうものだ。


 でも。

 仮にそれが初対面じゃなくて、知っている誰かだったら。


 たとえば──死んでしまった黒川と俺の立場が逆だったら?

 俺が死んで黒川が残されるとしたら?


 死を目前にして。

 ずっと溜め込んでいる好きだという想いがあって。

 でもその想いは、相手を苦しめることになるってことが分かってる。


 俺は遺書の中で黒川に告白された。


 他に選択肢はあったのだろうか?

 俺だったらどうする?

 そのまま死ぬのか?

 気持ちを隠し通したままで?

 最後なのに?

 二度と会えないのに? 話せなくなるのに?


「……」


 そう言えば、こんなこと……今まで考えたこともなかったな。俺はいつだって自分のことばかり考えてきた。


 自分の考える相手の気持ち。

 そして、それに対する自分の気持ち。

 それを中心にして、黒川葉子のことを考えていた気がする。


 アイツはこう思っているだろう。

 アイツならこう考えるはずだ。


 そんなものは憶測でしかない。

 どんなに長い付き合いだって、互いに知り得ないことはたくさんある。人は本能に近いレベルの気持ちにおいて、個人差は少ないと思う。

 だから俺はあの時、こう考えなきゃならなかったのかもしれない。


 俺が黒川葉子だったのなら、と。


 最後に、言いたい。

 最後だから、言えない。

 この相反する二つの思いを、静かで何もない病室で考えつづける。


 時間は待ってくれない。

 俺はどちらを選ぶのだろうか?


 黒川の死後、看護師に渡された手紙には一枚のメモがついていた。



 『これは私の我侭です。読まずに燃やしてください』



 俺はメモの内容について深く考えもせずに手紙を読んでしまった。


 黒川が悩んで悩んで残した手紙だったはずなのに、その時の俺には、まだアイツの死を受け入れることができなかった。突きつけられた死と同時に接点のなにもかもが消え去り、分厚くひんやりとした壁が俺と黒川を容赦なく分断した。


 こちら側に残されたのは手紙だけ。

 当たり前だと思っていたあらゆることが、当たり前なんかじゃないってことに気がついた。


 退屈だけどそれなりに楽しかった日々。そんなものが、俺がいつも大切にしていたものなんかとは比較にならない──何より掛け替えのないものだった。


 俺はあまり病院に行かなかった。

 何度か手紙が来た。

 俺は『そのうち行く』と返事を書いた。

 しばらくすると手紙は来なくなった。


 特に不安は感じなかった。

 病院は電車で十五分くらいの場所にあったから。

 行こうと思えば毎日でも行けた。

 でもそんな事、考えもしなかった。

 どんな時も、アイツが近くにいるような気がしていたから。


 会いに行くのも妙に照れくさかった。

 そのうちアイツは何事もなかったような顔で俺の前に現れて。

 また黒川のいる日常がはじまって。


 アイツをからかって。

 怒らせて。

 また二人でバカみたいに笑える日々が、帰ってくると思っていた。

 そうなることが当たり前だと思っていた。


 だから。

 急に一人になって、どうしたらいいのかわからなくなった。それを訊きたい相手はもういない。


 俺は手紙の封を開けた。

 こちら側に残された、一本の細い糸を手繰り寄せるように。


 病院の壁みたいに真っ白な封筒に入った手紙は、


 『ありがとう。ごめんなさい』


 そんな言葉から始まった。


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