第9話 墓参りの途中


 神社の裏は小高い丘になっていて、名前も知らない雑草が広がっていた。


 何もない。

 いや、草花やら木々ならある。それと竹林。


 見渡す限り人の手が加わっているものはなかった。そこでは自然がもたらしている生のみが存在を許されている。


 神社は山の中腹にある。

 長峰家から山の麓まで歩いて四十分。結構遠い。


 そこから神社まで真っすぐ伸びる階段をひたすら上る。

 三百を越えたあたりから段数を数える気力は失せていた──まあ、その余裕がなくなったというのが正直なところだけど。


 両足の太腿が悲鳴を上げている。パンパンだ。

 上り終えても自動販売機なんてありはしない。喉を潤してくれたのは、痛いほどに冷たい井戸水だった。


 俺は草むらに寝そべる。

 彩は神主さん──詠の母親の説教を受けている。一週間以上も勉強をサボっていたからだ。


 それにしても、まさか神主さんが女性だとは思わなかった。神主さんは、詠をそのまま大人にしたような銀色混じりの黒髪美人だった。だけど、厳しそうな人に見えた。


 俺は彩を送りに来ただけだと言って逃げてきた。彩は説教の後、勉強。沙夜も勉強中。詠は見当たらなかった。


 ということで、俺は二人の勉強が終わる夕方まで暇だ。

 彩から長峰家の鍵を渡されたから帰れるけれど。帰っても暇なのは変わらない。


 とりあえず神社とその周りを見てまわることにした。

 で、一通り見て、休憩中。


 空にはどんよりとした黒い雲が切れ目なく広がっている。朝は晴れていたのに今は薄暗かった。じきに雨が降るかもしれない。


「この村を見て欲しい、か」


 彩が言った言葉をなんとなく呟いてみる。


 どういうことなのだろう。

 村を見て、俺はどうすればいいのだろう。


 この一週間で俺が見たものや人といえば、

 俺が流された大きな川、

 村の御神木である桜の大木、

 長峰姉妹、

 散歩中に見た、いくつかの家々と何人かの村人、

 御神木の下で会った沢角詠、

 そしてこの神社。

 と、さっき会った詠の母親──神主さん。


 この村を見て欲しい。

 なにか見て欲しい特定のものがあるのだろうか。それとも村全体?


 俺には彩の考えがわからなかった。


 村を包んでいる澄みきった空気を大きく吸い込む。村は奇妙なほどに静かだ。ここだけ時間という枠組みから切り離されてしまったかのような。

 気分が悪くなるわけではないけれど、騒々しい街で育った俺には、静かすぎてうまく馴染めない。


「……ごめん」


 自然とそんな言葉が出る。


 彩に向かっての言葉ではなかった。

 別の誰かの顔が浮かぶ。


 それは今は亡くなっていない友達の怒った顔だった。


 友達──で、合っているよな?


 空に向かって訊いてみる。

 もちろん、答えは返ってこない。


 黒川葉子くろかわ ようこ――アイツのことを思い出す時、まず頭に浮かぶのは、頬を膨らませて少しだけ目を吊り上げて怒っている顔。まるで子どものような仕草だった。


 笑っている事のほうが多かったはずなのに、俺の印象に残っているのは、なぜか怒っている顔ばかりだ。

 それと──


「……」


 ぽつり。

 小さな雨粒が頬に落ちる。


「濡れますよ」


 そう言って、寝ている俺を見下ろす女──詠だった。

 手には淡い藍色の傘が握られている。


「アイツはああ見えて意外と寂しがり屋だったんだ」


「……あの、なんのことですか?」


 突然の言葉に戸惑う、詠。


「俺のことを待ってるかもしれない」


 いつもそうしていたように、頬を膨らませて少しだけ目を吊り上げながら。

 冷たい土の中で、たった今も俺が墓参りに来るのを、待っているのかもしれない。


「……よ、よくわかりません」


 生きていれば、入院中みたいに俺に電話をかけて『見舞いに来い薄情者!』なんて言うこともできる。


 今は。

 ただ、じっと待っているだけ。

 年に一回しか来ない、薄情な俺を待つことしかできない。


 俺は──必死に忘れようとしたができなかった。

 黒川の方が俺のことをよく理解していたらしい。忘れないで──なんて、手紙まで残しやがって。この言葉がそういう意味を持つことを知っていながら、すべての想いを打ち明けようとした。


 どんな気持ちで?


 いろんなことをずっと堪えてきた黒川が、どういった気持ちで手紙を残したのかを考えると胸が締め付けられる。


 俺はあまり見舞いにも行かなかった。

 退院したらどこかに遊びに連れて行ってやろう。美味いものを好きなだけ奢ってやろう。その程度で。


 すべてが終わって、すべてが思い込みだったってことに気づいて。

 黒川がどこまでバカで。どれだけ俺のことを考えていてくれたのか想像もできなくて。


 結局、みんな、終わった後だった。

 最後の日さえ──俺は、アイツが泣いて、苦しんで、一人を寂しがって、どんな気持ちで俺のことを待っていたかを知らずにいた。


 バカなのは俺だ。


「……あの、桜居さん?」


 雨音に混じって、少女の心配げな声が耳に届く。


 草むらに寝そべっている俺。

 俺を覗き込んでいる、黒髪の少女。


 ふと、あの時のことを思い出す。はじめて詠と会った時のことだ。


 川の流れる音。

 大きな桜の木の下。


 しんしんと雪が降っていた。

 そして、桜の花びらが、舞っていた。


 とても幻想的で美しい光景──まるで一枚の絵を見ているかのようだった。


 今は違う。


 雨が降っている。

 桜の木もない。

 花びらも舞っていない。


 黒髪の少女──詠は、俺が濡れないように傘をさしてくれている。そのせいで、自分の体を半分くらい濡らしていた。


 後ろ髪は水分を含んで頬や肩に張りついている。それでも何も言わず、俺が立ち上がるのを待ってくれている。


「あの夜──」


 確か、詠は俺に何かを呟いた。

 それがどんな言葉だったのかまでは思い出せない。


 代わりに──


「……私が、長峰さんの家の近くまで、桜居さんを運びました」


 その情景が鮮明に脳裏に浮かび上がった。


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