第30話 気付け(2)

 丸橋は同年代が死んだことで昨日以上に怖くてたまらなかった。その恐怖から眼を背けようと、彼女はリビングのソファに座りながらスマホを手に持っていた。そこには水鳥の写真が表示されている。


 (究君が守ってくれるから大丈夫……)

 丸橋はそのお守りをじっと眺めた。写真の中の水鳥と目があった気がする。

 (あっ! すごい、こっちから見ると見つ……、見つ……、見つめ合える……)

 それは角度の問題ではなく、生の水鳥と出会って、目が合って、話したことで、脳が勝手にそのときの記憶を再生しているだけである。

 スマホの向きを再び変えると――。

 「わあっ!」

 丸橋は思わず声を上げた。水鳥がいきなり自分に微笑んでくれたように見えたからである。


 (これすごいよ、どうしよ……)

 頬に薄い赤みを帯びた彼女が次にしたことは、自分の体勢を変えることであった。スマホを持つ手をなるべく動かさないようにして、下から覗き込むと――そこには冷ややかな視線があった。丸橋は体の中にゾクゾクしたものが走って、知らないうちに息を荒くした。


 彼女は目を閉じてソファに倒れ込んだ。背中に柔らかい衝撃が走る。腕を伸ばして、深呼吸を何度かしてから瞼を開こうとしたが、できなかった。

 その代わり、彼女はそのままスマホの位置や首の向きを変えて、見えるかもしれない光景らしい何かを想像した。あちらこちらと体を動かし、次第に動きは大振りになっていく。


 (あっ!)

 丸橋はバランスを崩してソファから落ちた。スマホを握り、目を閉じているのにギュッと目をつぶる。床にぶつからなかった。

 (あれ?)

 恐る恐る目を開けるとそこは見覚えのある、毎日訪問している、部屋であった。椅子が2列と向かい合うように1脚、ホワイトボートに書かれた文字は消されているが、何が書いてあったのか分かる。そして、爽やかな匂いがする。

 彼女は震える手ですぐ近くに落ちているスマホを拾うと、「カードキー」が画面に表示されていた。水鳥の部屋に入室していた。


 (どうしよう……間違えて押しちゃった……)

 水鳥はメンバーたちが許可なく自分の部屋に入ることができるように設定している。ただし、気軽に遊びに来るのは控えてほしいと伝えていたから、実質ミーティングのとき以外に使われることはない。要は、水鳥は彼女たちを信用しているし、そう思っていると言外に伝えていた。さらにはメンバー内で抜け駆けをしないと暗黙のうちに決まっていたから、誰も私用で訪れてはならないことになっている。


 (怒ら、怒られる……)

 丸橋は女性陣からのバッシングを恐れた。

 (あ、でも、究君、いないのかな? 今のうちに戻れば……)

 そう思って、息を潜め、おぼつかない指先で「カードキー」を使おうとしたとき、扉を隔てた向こう側からパンッ、パンッと何かがぶつかり合う音が聞こえてきた。


 (あっち……寝室だよね? 何しているんだろう……)

 知りたいと思うのは単なる好奇心だけではなく、憧れのあの人の、その音を出している姿を一目見たいと思う乙女心も理由である。


 その音はリズミカルに鳴り続けている。


 丸橋はそっと立ち上がると、音の出る方へ一歩進んだ。スマホを落とした。

 コトンと音がした。寝室から聞こえた音がピタリと止んだ。


 (どうしよ……)

 丸橋はあちこちを見渡した。この状況を切り抜ける方法を探しているのではなく、何をどうすればいいのか分からなかったためであった。心臓が苦しいくらい強く打っている。しかし、時間は待ってくれない。足音がだんだん近づいてきて、扉が開いた。


 「あれ? 明莉ちゃん、どうしたのかな?」

 現れた水鳥は上着を脱いでシャツ1枚となっており、爽やかな汗を流していた。ほんの一瞬だけ自然に驚いて、爽やかなスマイルを浮かべる辺り、訪問を歓迎しているようにも思えてしまう。


 「あ、ごめんなさい……。間違えて、押しちゃって……」

 丸橋はプルプルと震えた手でスマホを見せた。水鳥は微笑んだ。

 「大丈夫だよ。明莉ちゃんがここに来たことは2人だけの秘密にしよう。ね? そうすれば誰にも知られないよ」


 「あ、それなら僕の秘密も教えないと不公平かな? 実はね、最近少し太っちゃって」

 そう言って彼はシャツをめくった。見事に割れた腹筋が汗に濡れて輝いている。

 「ほら、それでちょっと体を鍛えていたんだ。まだちょっと戻っていないから恥ずかしいな……。みんなには秘密にしてね」


 丸橋は真っ赤な顔をしてブンブンと頷いた。




 自分の部屋に戻った彼女は真っ赤な顔でフラフラと寝室に向かい、そのままベッドに倒れ込んだ。制服の皺などは気にならない。

 (究君、かっこいい。私を助けてくれたし、秘密も教えてくれたし……。あんなにすごいのにまだ鍛えているところもかっこいい……)

 つい先ほどの肉体美を象徴するような腹筋が目に焼き付いている。頭から甲高いと音を立てて湯気が出ているようだ。丸橋は枕に顔をうずめて、奇怪な声を上げながらグリグリと潜り込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る