第27話 考えるな(2)
広間を訪れた沓内は、円形に並べられたいくつかのブロックの中からできるだけ目立たない場所を選び、それにゆっくりと腰をかけた。先にそこにいた人たちは、ちらりと横目で彼女の来訪を確認したが、話しかけることもなく、特別動くこともなかった。
彼女は小さい革張りのバッグから文庫本を取り出すと、栞のあるページを開いた。それはよくある時代小説であった。沓内は恋愛小説の方が好みだが、変に浮かれているように思われれば死にかねない。
開いたページには活き活きとした町人の暮らしが描写されているが、沓内はその光景を想像して寒気を覚えた。スマホもインターネットもない、いい薬も食べ物もない。人との交流が苦手だと生きていけない。タイムスリップなどをしたらやっていけない。
幸いなことにこの小説自体は彼女にとって読み応えのある面白いものである。紙を隔てた向こう側だと思えば変な気分になることもなかった。
そうやって、十数ページ読んだところで沓内は手を止めた。
(そろそろかな……)
スマホをバッグから取り出す。そこに表示されている時間は予想とほとんど変わらない。彼女は栞を挟んで本を閉じ、膝の上に置いた。
沓内が広間に来ているのは情報収集のためであった。それは誰かの会話を聞くというよりも、誰と誰が会話をしているのか、不穏な動きをしているかどうかを見るものである。そうして得た情報は水鳥たちと共有し、生き残るための判断材料としている。
そして、水鳥たちはこの仕事を2人で行うことにしていた。何故ならば、まず、単純に視野が広がれば見えるものが増えるためであり、更に偽の情報を流されるリスクが少なくなるためである。メンバーの誰かが裏切り者ではないと言い切れない。しかし――。
(あれ、大川さん、来ない……。どうして……?)
待ち合わせの時間が過ぎた。沓内は呼吸が浅くなるのを無理矢理に制した。瞼をパチパチと動かして、少し目を休めているような素振りをした。しかし、内心はオタオタとしているわけで、仕方なくもう一度本を開くまで、中途半端に何もしない時間ができていた。
(ちょっと遅れるだけだよね?)
そのまま数分待っても、大川は来なかった。沓内は迷ったが、心の中で「よしっ」と小さく気合を入れると、スマホを手に取って「7SUP」でメッセージを入力した。そして、文面をチェックしてから、おずおずとタップして『先に広間に行っているね』と送信した。
送信時間から考えればそれは当然のことであるが、だからと言って「遅い」「何しているの?」と書いてしまえば角が立つ。「何かあったの?」「大丈夫?」という言葉でさえもわざと角を立たせられてしまうかもしれない。彼女はそう考えた。
文庫本を開き、1人で観察を始める。視覚よりも聴覚に意識を集中させているために、数ページめくっても内容は全く頭に入らない。1人だけで広間にいるせいで、周囲からの疑いの視線が全て自分に向かってくるような気がしてならない。
(私、浮いていないよね? ここにいても変じゃないよね?)
(大丈夫だよね? 本を広いところで読みたくなったからここに来た。うん、聞かれてもこう言えば大丈夫。多分……。だって、あそこにも同じことをしている人がいるし……)
沓内は祈るような気持ちでスマホの画面を見た。大川から返事はなかった。不便なことに「7SUP」には既読機能が備わっていない。
(もう一度送った方がいいかな……。催促しているみたいにならないかな……。水鳥君に連絡した方がいいかな……。早く来て……)
30分後、メイクとヘアスタイルをばっちりきめた大川が能面のような表情で広間にやって来た。彼女はスタスタと沓内に近寄った。
「で、どんな感じ」
開口一番、立ったまま沓内を見下ろして、小声でそう言った。
「あ、何もなかったよ」
沓内は心の中に疑問符が思い浮かんでも口に出すことはしなかった。それは万人が思うことで、せめて一言ごめん、とないのか、どうしてそうなったのかを説明しないのかということであった。
「そう。あ、究君にチクったらどうなるか分かってるよね?」
大川は横髪を撫で擦りながら言った。
「あ、うん……。大丈夫だよ」
沓内は小さく微笑んだ。大川は「そう」と言うと、少し離れた位置に座った。
彼女たちは仕事をすることでお互い守り合っていることになっている。それをサボれば、グループから排除されかねない。ついでに水鳥からの信頼を失い、嫌われてしまう。好かれているという前提自体がおかしいのはともかく。
一言謝罪の言葉があれば、沓内もそう気にすることもなかっただろう。誰にだって失敗はあるし、調子が悪くて横になったら眠ってしまったのかもしれない。
しかし、失敗を隠そうと虚勢を張ったから、良い気分にはなれなかった。おまけに、妙にしっかりとセットしていた。薄いソープの香りが香水ではなく風呂上がりだと分かった。湿気を帯びていたからだ。大川が自分やメンバーのことを気遣っていないとよく分かった。
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