第27話 考えるな(1)
武藤は朝食後の緑茶をすすりながら、皺だらけの両手で湯飲みを握って指の関節をほぐしていた。そうして、物思いに耽っていた。
(有事のときでも、そんなに自分の好きに振る舞いたいのだろうか……)
彼はここ最近の参加者の間で跋扈する風潮に引っかかりを覚えていた。
(やらなくても死ぬわけじゃないし、たかが50日……もう34日か……、それだけ我慢すれば済む話じゃないのか……。難しいことなのか?)
武藤は力なく瞼を閉じると、湯飲みを口に運んだ。渋みの少ない緑茶は旨味が凝縮されているようであり、このゲームで疲れ果てた彼の心を優しくほぐしていった。
(自由と自分勝手は全くの別ものだ……。世間の流れは常に変わるのだから、やれないことができるのも当然なのに……)
一昔前は需要があっても今はもうほとんどない職業など、すぐに思いつくだろう。仕事ができないのはズルいと言っても、需要がないのは不公平だからその分を補償しろと言っても、通用しないのは当たり前のことである。
さらに、昔はできても今はできなくなったことも挙げればキリがない。正誤を問わず、それをただ喚いたところで何にもならない。
(まともな人が損をしてしまうんだ……)
彼は深くため息をついた。他の参加者との間に底知れない隔絶を感じた。
(彼らは何者なのだろう? 今の日本にはこういう人間が蔓延しているのか?)
湯飲みから立つ湯気はお茶の表面から発生するが、それは湯飲みの縁に届かないうちに見えなくなる。武藤はぼんやりとそれを眺め、寂寥を感じた。
(これまで俺は……このよく分からないゲームに参加していても……していても……根本のところで、人間たちとして大事な枠組みは共有していると思っていた……。いくら……殺、し合っていても……)
武藤は湯飲みを骨ばった手で掴み、軽く揺すった。表面に小さな波が立つ。湯気も遅れて左右に振れる。彼は少し冷めたお茶をもう一口飲んだ。
(彼らは……たとえ大災害なんかが起こって国がピンチになっても、自分の利益のためだけに、自由、自由と言い続けるのだろうか?)
近所の今風の若者でもそこまでではないと武藤は思っている。面食らうことは少なくないが、それも世代の差だからと温和に考えている。それでも、このムードや、テレビ越しに見る異形の存在を理解することはできなかった。
(彼らの足はどこに着いているのだろう?)
武藤は湯飲みを手に取った。思った以上にお茶が残っている。彼は胃にチクリと刺すものを感じた。
(せめて人を気遣うことはできないのだろうか。盗みや殺しと何が違うのか。全員が同じことをすればぶつかり合って、どちらも怪我をする。かと言って一方的にまともな人がなぶられるのも……)
無意識のうちに背中を丸めながら、ぼそぼそと考える。
(世の中がそうなるなら俺も、生きていくために、そうならなければならない。今は特に妻の命もかかっているのだから、絶対にそうだ……)
(悲しいことだ……)
細くなった彼の白髪がはらりと抜けた。
*
佐藤は昼食も食べずにベッドの上で布団をかぶり、膝を抱え震えていた。半開きの目には生気がなく、シーツの上に結ばれるはずの焦点はどこかに行っている。わずかに開いた口からはかすかに呼吸する音が漏れている。
(長岡君が死んだ……。僕は……? せっかく、これからの人生が見えてきたのに……死ぬ?)
彼は起床してからずっと似たような光景を想像していた。笠原の部屋にある椅子に長岡が座っているが、場面が広間に移ると透明なケースの中に入っている。死んで、笠原の部屋に空席ができる。今度は自分が話し合いの場で名指しされて、透明なケースの中に入っていて、死ぬ。暗転するとまた長岡が――、と繰り返される。自分の死に方や展開に違いはあっても、結論は変わらない。
何度も何度も長岡の椅子が空席になる場面で、ふと彼は、唐突に弱々しく「あ……」と声に出した。
(長岡君の家族はどうするんだろう?)
それはたまたま思いついたことであったが、延々と続くであろう連想のループから逃れるきっかけにするには十分だった。
(ニニィが誰なのか分からないけれども、これ、殺人事件だ)
彼が先日公民の時間に習ったことを思い出した。
(刑事裁判は国家対加害者だよね?)
もぞもぞと下半身を動かして佐藤はわずかにためらったが、そうしているとまた先ほどの考えに支配されそうだと感じて、意識を無理に向けた。
(それなら、民事裁判の慰謝料って何なんだろう……。気持ちはすごく分かるけれど……)
しかしそれは暗い考えであった。両目がキュウと細まり、真っ白なシーツにピントが合った。
(僕は……何円になるんだろう?)
佐藤は喉仏を数回上下して何とかつばを飲み込んだ。
(稼ぎ頭のお父さんが殺されたら、家に入ったはずの収入分を補償っていうのは計算しやすい話だ……)
彼は身の回りから分かり易い例を挙げた。そして、思いつく別の理由について考えた。。
(分かるけれど……、だって、感情は人それぞれなのに……。それってどうやって測るんだろう。だって、演技しているかもしれない。精神科医とかが判断するの?)
佐藤は当然感情的には納得していたが、糖が不足した脳は普段と異なる思考回路を巡っている。
(じゃあ、子供が殺されたら……その分の収入って何だろう?)
そして、自分自身を先のたとえになぞらえた。
(大g……高校卒業まで養う分が浮いたはず……だよね? それとも、そこまで育てるのに使った分、損失ってこと? 将来搾取する分の損失? 介護とか、扶養とか……)
彼は自分の家庭にいわゆる世間一般の愛情というものが存在していないと知っている。辛いことがあっても、嬉しいことがあっても、話したとして、その感情に寄り添うコメントはまずない。中学校でいじめられていると相談しても、「転校はできないから」の一言で話が終わったのが典型的な出来事である。
佐藤はますます俯いた。
(それに……そのお金を取るのって……)
佐藤の考えはどんどんと横道に入っていく。
(犯人を罰したいの? 儲けたいの? 犯人以外が倍払う代わりに犯人は何も負担しないと言ったら聞き入れる? 犯人のお金を倍取り上げる代わりに全額寄付に回すと言ったら聞き入れる?)
佐藤は自分がその立場に置かれていないから、分からない。まして、自分の両親がどうするのかもさっぱり分からない。仮に民事裁判を起こしたとして、何故そうするのか想像もできなかった。
そして自分の家族の性質を改めて考えた。
(そうなると……、だから……、というか……、親は僕が死んでも悲しいんじゃなくて、所有物が壊されたくらいにしか思わない。絶対。だから僕の価値……何円なんだろう……)
彼は胸を締め付けるような諦観がこみ上げてくるのを感じた。シーツが歪み、瞬きをするとそこには濡れた跡があった。
(それに、僕が殺されても、それは僕と犯人と国家の問題で、どうして親が出てくるんだろう? 他人なのに……。何の権利があって僕が死んだことを利用しているんだ? 僕の死、なんだから僕の自由にさせて……)
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