第25話 黙るな(1)
老人にしては遅めの朝食を終えた田渕は何もすることがなくなった。正確に言えばここならほとんど何でも用意できるのだから、意志があれば大抵のことはできるのだが、発想がなかった。そこで彼は広間に行って他の参加者を観察することにした。
広間には数人の男女がいた。白いブロックに座って何か話しているものもいる。壁際に座って本を読み、音楽を聞いているものもいる。メンツは違ってもそこで行われていることはこれまでとそう変わらない。
1つ違っているのはやけに荒い息と床を軽快に走る音が聞こえることだ。
(長堂……早速広間を使っているのか)
田渕は彼女が活き活きとトレーニングする様子をじっと見つめた。長堂は見られていることに気づいていない。身に着けているのは動き易そうな私服であるがトレーニングウェアではない。それでも広い場所を動き回ることのできる解放感をのびのびと味わっている。
(他にも使うようなのはいるのか?)
田渕の視界に昨日設置されたホワイトボードがあった。そこに書かれた文字を見ようと彼は目を凝らしたが、年相応の視力には限界があった。
(よくもまあ、昨日一昨日人が死んだ場所で大騒ぎできるものだ。何がスポーツ選手だか……。親の面が見たいものだ)
それでも特にすることのない田渕は長堂が動く音を耳で追いかけていた。彼のすぐ目の前の、傷一つない白っぽい床に目を落としながら、田渕は物思いに耽っていた。
(ここが事故現場や墓場なら……騒いでも良い場所とは誰も思うまい。俺たちの感覚は麻痺している。この場所に飲まれている。このゲームに限った話じゃない、声の通る奴が言ったことは、例え道徳的に狂っていても、それが世の常識になる)
田渕は俯いたまま頬を掻き、目だけを上に向けた。彼と同じように独りで静かにしている者もあれば、長堂の出す音につられるようについ声のボリュームが大きくなった中年女性たちもいる。
(その方が自分が儲かるからだ。資本主義だ。自分の信条があってそうするならいい。誰かが言っているからそうした、という奴が最も邪悪だ。騙された善人の振りをして、責任を取らない)
彼は手を前に出し、両方の袖口を視界に入れた。ホームレスの服にしてはほつれや破れが少ない。
(俺へ軽蔑の視線を送っていた連中に、芯からそうしている奴は少なかった。誰彼がやっていたから前倣えをしていた奴がほとんどだった。その癖いざとなると博愛主義のように振る舞いはじめる……。現に、ここでは身の上を隠していてまともな服を着ているから、あの視線で俺を見る奴は少ない)
やがて、数人の男子が広間にやって来た。田渕は顔を上げてその声のする方を見た。その中には野口がいた。
長堂は足を止めて袖口で額の汗を拭った。
「あ、ごめん、もう交代の時間だね」
彼女はスマホで時間を確認しつつ「ににぉろふ」でタオルを取り出すと、汗を拭いて首にかけた。その顔は血色がよく、自然に明るい表情を作っていた。
「まあ、まだ少し時間あるし」
他の男子を後方に残して野口はやや雑に対応する。その目と微笑みに憶したのである。
「そうなんだ。私、もういいから野口君たち使ってよ」
「あ、いい? あざっす」
野口は小さなお辞儀のように頭を動かすと一緒に来た他の男子たちの方を向いた。
「もういいって!」
少し経つとそこにバスケットゴールが2つ現れた。
すぐに声が聞こえ始める。元気のあると言えば聞こえはいいが、どちらかと言えば騒がしい声が、床にボールを叩きつける音や走り回る音に混ざって、田渕の耳に届いた。
彼らは何も違反していない。広間の半分を自由に使うのは話し合いで決まったことである。第一、うるさいと思うなら自分の部屋に戻ればいい。広間に居なければならない理由は特段ないことになっている。監視や偵察のために来ていても、その理由を濁して静かにさせることはできない。
「おっしゃあ! スリーポイントォ!」
ガッツポーズを決めた野口に味方のチームが「ナイッシュ!」と声をかける。田渕にはその称賛が形式だけのおべっかに聞こえなかった。心から楽しんでいると思えてしまう。
(こいつらは誰かが人に暴力を振るったら、止めずに加勢するだろう。昔こういうやつらに狩られかけた……。園さんは逃げる間もなく叩き殺されたんだ……)
過去の陰惨な体験はどうしても頭に残っている。自分の少し前に、あだ名通り公園に住んでいた仲間が死んだのだからなおのことであった。
(その公園でも、次の夜には若者たちがバカ騒ぎしていた……)
田渕はかつて仲間とよく一緒に飲んでいたワンカップを無性に口にしたくなった。
「こっち! パス! パス!」
橋爪の大声が響く。彼目掛けて竹崎の投げたボールは手を伸ばした野口の指先を掠めて軌道が変わり――彼らが使っている範囲から大きく外れた。
ボールは田渕の少し手前でバウンドして、そのまま田渕の方に跳んでくる。彼はとっさにボールを手で押さえた。
田渕は自分に向かって近づいて来る足音の方を見た。野口と目があった。無言でボールを野口の方へ転がした。奇妙な間が流れる。
「準クンちょいノーコン過ぎって!」
田渕の前で野口が発した言葉はそれだった。それだけだった。先の言葉をコートに向けた後、野口は振り返ることなくその群れに戻っていった。
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