第24話 呪え(1)
柘植はカタカナで書かれた数行の短い文を睨みながら、傍らに用意した日独辞典と電子辞書、文法の参考書を引き回していた。その隣にはぴったりと瑞葉が貼りついていたが、彼は特に邪険にすることもない。瑞葉も黙々と自分の手元に集中している。
しばらくの後、柘植は手を止めてノートを持つとそこに追加で書かれた文字を目でなぞった。それから「瑞葉、翻訳が終わった」と声をかけた。
瑞葉は分かり易く表情を明るくし、すぐにペンとメモ帳を持ってスラスラと字を書いていく。
『なんて言っていましたか?』
「ほとんどは予想していた内容だったが、最後に『明日はどの言語を話そうか』と言っていた。時間をかけて翻訳した甲斐があった」
柘植は真っ先に結論を言うと瞼をギュッと閉じ、目頭を揉んだ。その様子を見た瑞葉は眉を下げて柘植を見つめたがそれだけでは足りないと思ったのか『大丈夫ですか?』とメモ帳に書いた。
「うん、大丈夫。ありがとう」
柘植が微笑みかけると瑞葉は安堵と喜びの入り混じった笑顔を返した。
「残りはまず『いつもと同じ内容だから、ドイツ語が分からなくても何を言っているかわかるだろう』ということだった。実際、その後に話していたことは経過日数、参加者数の説明、投票開始の合図、犠牲者の紹介、最後の挨拶だった。いつも通りだ」
柘植は水を一口飲んだ。それを見た瑞葉も同じようにペットボトルに口をつける。そうやって一呼吸置いた後で柘植は再び口を開いた。
「明日以降、ニニィが何語を使うのか分からない。昨日今日と同じように状況説明や司会進行がメインだろう。ただしそれとは関係のない、このゲームを生き抜くためのヒントを口にするかもしれない。現に今日もそうだった。明日は英独以外の外国語を使うつもりだと言ってきた」
柘植は瑞葉がメモ帳に何か書き始めるのを見て、一旦話すのを止めた。瑞葉は楽しげに手を動かしていたが、やがてペンを置くとメモ帳を柘植に見せた。
『事前に分かって良かったです』
「そうだね。今日ニニィがドイツ語を使ったことは幸運だった。これで明日、ニニィが何語を使ってきても対応することができる。私たちは2人だけだから知識に限界がある。もしこれが他の言語だったら、この後の展開に対応できなかった可能性が高い」
柘植がそう言うと瑞葉がメモ帳をめくった。そこにはすでに『あと、誰が何語を知っているか分かります』と書かれていた。彼女は柘植が次に何を話すのか予想して、先ほど併せて書いていた。
「私もそう思う。まとめるから聞いてくれないか?」
そしてその予想は正しかった。瑞葉は頬を緩ませてコクコクと頷いた。
「まず、知っていたときの反応を見ることができる。前に出て説明をするのか、黙っているのか、その行動が今まで類推していた性格から外れていないか」
「それから、単純に学歴や学力が分かる。大学の第二外国語で勉強したとして、それからずっと覚えている人は少ないだろう。何かで必要になってそれ以上に勉強した、あるいは元々物覚えが良いと考えられる」
言い終えた後で柘植は思い出したように付け足した。
「まあ、私のように何とか音を覚えて後で、ということも可能だ」
『それも頭が良くないとできません』
瑞葉はメモを前に出し、熱のこもった視線で柘植を見つめた。柘植は特別自分のことをそう思っていないが、ここで謙遜をすれば瑞葉が余計に熱心になると何となく分かった。
「うん、まあ。それからあるいは昔外国、その言葉を使う国に住んでいたのだとしたら、そこの国民性が思考の一部に反映されているかもしれない」
柘植の曖昧なリアクションに瑞葉は小さく頬を膨らませたが、すぐに元の笑顔に戻りメモ帳にペンを走らせた。
『今まで方言でやっていました』
「そう、それと同じやり方だ。一口に日本と言っても地域が違えば遺伝的にも文化的にも住人の平均的なステータスは異なる。そこから共通認識や人間性の傾向を類推できる。それから出所が分かればその人の情報を検索しやすい」
何気なく尋ねれば大抵の参加者は正直に教えたことだろう。しかし、柘植にはそうするほど彼らを信用していない。
「今日ドイツ語を確実に聞きとっていたのは猪鹿倉と君島だ。恐らく分かっていたのは松葉、藤田、多分福本と利原辺りだと思う。瑞葉、他に誰か分かっていそうな人はいた?」
柘植の問いかけに瑞葉は嬉しそうに答えた。
『岩倉さんも分かっていそうでした』
「それは気づかなかった。流石だね」
柘植は温かな声色で瑞葉を褒めた。彼には瑞葉が嘘をつくとは思えないし、気の狂った勘違いをするとも思えない。当然その間違いを指摘されるとふてくされるとも思えない。瑞葉はニッコリと反応した。
「逆に、野口と時田たちのグループにドイツ語の分かる人はいない可能性が高い。いたなら野口の解説はもっと詳しかったはずだ」
柘植が「どう思う」と付け加えなくても、瑞葉は読み易い字をメモ帳に書いていく。
『教えたのは他のグループの人です』
「私もそう思う。参加者がいくつかのグループに分かれたのはこのゲームのルールの一つ……『投票時、広間にいる参加者数が8割を超えていなかったらゲームオーバー』があるからだ。参加者の2割以上の集団は全体に対して脅威と見られる……が、今は形骸化しつつある」
柘植は頭の中でこのゲームの勢力図を描いた。そして、自分の言ったことがほぼ確実に起こっていると納得したが、正確な関係性が分からなかった。
「だからこのことで野口を非難しても、むしろこちらの立場が悪くなる。話し合いの場は討論会の場ではない。一部はすでに似たことをしているだろう。単純な善意という体で終わらせられる」
『リスクになります』
瑞葉がメモ帳に書いたのはシンプルであり彼らが最も避けなければならないことだった。
「そうだね。今のところ私たちが負う必要はない。得をしない」
柘植は少しの間黙った。瑞葉も新たに文字を書くこともない。彼が「この話はこれくらいでいい?」と尋ねると、瑞葉は頷きメモ帳にペンを走らせた。
『お化粧の練習がしたいです』
「そうだね。次はそれをしようか。私は洗顔と化粧水で十分だろうが、瑞葉はそうはいかないかもしれない」
柘植は傍らのタブレットに「小学生向けメイク特集!」と丸っこい文字で書かれた宣伝文句の目立つ雑誌を表示した。
(小学生くらいの頃から化粧はするものなのか? さっぱりわからない。興味を持つ年頃だから……というのも瑞葉らしくない理由だ)
柘植は瑞葉が棚から質感の良い鞄を取り出すのを見ながら思った。瑞葉は振り返って柘植と目を合わせると洗面所に向かった。柘植はその小さい背中を追った。
(子供の皮膚は薄い。荒れないだろうか。成長に障らないだろうか)
彼は瑞葉の将来を無意識に心配していた。あと40日も経てば顔を合わせる必要もないし、第一、ここで体に起きたことはゲームが終わればリセットされるにもかかわらず、である。
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