第22話 奪え(3)

 吉野たちとのミーティングを終えた後、自分の部屋に戻った鰐部はソファにぐったりと寝そべった。大きなソファは幅広な彼女を十分に納め、並のベッドを超えた安らぎを鰐部に与えるものであった。

 (園児の相手をするよりも肩と腰は楽だけど……、きつい……ダルい……)


 毎日毎日自分が死ぬかもしれないという恐怖は報酬の2000万円とリーダーである吉野の策によって大分緩和されている。それでも普通に生きていて明日突然死ぬ確率に比べれば、ここで死ぬ確率は明らかに高い。

 ただの数字の話でもそうなのに、広間にいるときも吉野の部屋にいるときも自分の一挙手一投足が誰かに気に入られなければ……余計に確率は高まる。気にし出したら心の休まる間もない。むしろ形式上味方であるはずの同じグループのメンバーの方が粗探しを得意としているから尚更である。


「別に我慢する必要なんて……ないのよね」

 鰐部はソファと顔との狭い隙間に向かって呟いた。先の話し合いで決まったこと、それを受けて吉野が決めたことに大袈裟に従えばその通りである。

 (我慢しなくていい。でも、死ぬのに比べたら……。それに私が死んだら母さんも死ぬんだし……。あと37日我慢すればいいだけじゃない。でも……)


 鰐部の疲れた頭の中で節制と放縦が鈍くせめぎ合う。それは考えているというよりも機械的に2点を往復するような生産性のないものである。彼女には無意味と判断できなかったが、肉体は無意識に状況を改善する術を見出していた。


 鰐部はスマホをポケットから取り出すと画面を見ないまま何度か操作し、くぐもった声で「チョコレート」と漏らした。瞬く間に高級な白磁の皿と砂糖のたっぷりと溶け込んだチョコレートが近場のテーブルの上に現れた。


 ソファの上でごろりと寝返りを打った鰐部は手を伸ばしてシンプルな造形をしたそれを1つ掴み口へ運んだ。上品な甘みがふわりと広がり飲み込めばしつこくない、けれどもほんの少しだけ物足りない香りが残る。もう1つ、もう1つと鰐部が片手を動かしていくうちにチョコレートは全て彼女の腹に収まった。次第に糖が脳へと伝わり、鰐部は思考のループからようやく離れた。


 (他の人たちはどうしているのかな?)

 彼女は上体を起こしソファの背に寄りかかった。そのままソファは柔らかい飴細工のように鰐部を包んだ。

 (話し合い……が終わって、少し空いて、吉野さんの部屋に行ってから……。吉野さんはいつも通り飾っていて、あとは……)

 彼女の頭にいくつかの場面が再生される。早くも色褪せた映像の中で輪郭がはっきり残っている物があった。沼谷の太い腕に巻かれたブランド物の腕時計、元木の首元に細く光るネックレス、利原の耳には小さくも目立つプラチナのイヤリング、徳田の指には昨日よりも大きいダイヤの指輪、どれも輝いているものばかりであった。

 つまり、鰐部と同グループのメンバーたちはそれとなくあからさまにここでの生活を楽しみ、楽しんでいることをアピールしていた。


 (もうみんな着飾っていたわ……)

 鰐部は知らず知らずのうちに口を小さく開けながらうんうんと頷いていた。

 (毎日誰かが死んでいるのに、その……、その、それを選んでいるのは……だって……)

 (でも、確かに自分の部屋にいるときくらいは楽しんでもいいよね? 人前では今までくらいがいいよね?)

 やがて彼女が選んだのは、何ともつかない異常事態下においてちぐはぐな考えであった。本心で死者を悼むのであれば誰かの見えないところでもそうするはずである。周りに混ざって明るく振る舞うのであれば人目のあるところでこそそうするはずである。善人じみているようで、常識というものから良く見られるように化けの皮を被っているだけであった。


 「だって、みんなが好きにしているのに自分だけが我慢していたら不……、不……、不利じゃない? ストレスをためて疲れていたら、狙われるし」

 鰐部が「不」の後に続けたかった言葉は「利」ではなかった。「公平」であった。生き残ることももちろん、自分だけが得をしないことが嫌だったのである。


 (お腹空いた)

 鰐部はスマホに向かって「クリームシチュー、パン、スープ」と唱えた。一瞬のうちに体の芯まで温まる湯気がテーブルに並べられた。

 しかし、彼女はそれを尻目にスマホの画面をじっと見ていた。

 (……うーん)


 「ブランド物のバッグ?」


 漠然とした、単なる好奇心でやってみたと言わんばかりの問いかけにも関わらず「ににぅらぐ」は正確に反応した。鰐部が横を向くとソファの上に先ほど言った物が現れていた。

 (あっ、これ、鉄鷹獅ちゃんのママさんが持っていた……、それも最新モデルじゃない)


 鰐部はそれを手に取った。自然と目が大きく開き、心臓が激しく脈を打つ。指先に触れる滑らかな革の感触はそれが空想でないことを今更ながらに実感させるものであった。角度を変えて、弾力を味わい、匂いを嗅いで、彼女はひとしきり堪能したところでバッグをソファに戻しようやく夕食に向き直った。


 (やっぱり美味しい)

 シチューを一口含めば、まろやかでこくのあるクリームが口の中に広がる。野菜と鶏肉がほろほろと溶けるように崩れていき、絶妙な配分で加えられた何種類ものチーズと合わさって幸せな味を醸し出す。

 ロールパンは柔らかくも適度に嵩があって、持って割れば小麦の香りが鼻をくすぐる。それ単体では自然な甘みと歯ごたえがあり、シチューに漬すとその味を濃縮して閉じ込める。


 鰐部は食事を楽しみながらも集中できていなかった。無意識の内にちらちらとバッグに目が向いてしまっていた。

 (もう1つくらい……)



 夕食を平らげた鰐部はスマホをポケットに収めて立ち上がり、のそのそと洗面所へ向かっていった。テーブルの上はきれいに片付いていた。

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