第2話 古き者と本
その日、俺はいつもの様に休みを利用して馴染みの本屋に向かった。
いつもの席に座りいつもの珈琲を注文する。
大好きな本をテーブルで開き目を通していく。
微睡む時間。
店内にはBGMは流れていない。
聴こえてくるのは、マスターが珈琲豆を挽く音ぐらいだ。
落ち着いた空間、鼻腔をくすぐる挽きたての豆の匂い。
そして美味い珈琲と大好きな本。
これでいい、これだけで良い。
俺にとってこれが贅沢な時間なのだ。
「すみません……」
突如沈黙を破る声に思わず振り返る。
マスターだ。
申し訳なさそうに俺を見ている。
「ど、どうかしました?」
「いえ、こんな事お客様に頼むのは申し訳ないのですが……」
と、顔を曇らせるマスター。
この店には長く通っているが、まともにマスターと話した事は数少ない。
いつも他愛もない天気の話くらいだ。
「実は家に残した犬に餌を用意するのを忘れてしまって……」
「そ、それは大変ですね」
「一度家に戻りたいのですが、良ければお代わりサービスしますので、私が戻るまでの間、店に居てもらっても構いませんか?もちろん店はその間閉めておきますので……」
そう言ってマスターは俺に何度も頭を下げてきた。
「い、いいですけど、俺で大丈夫なんですか?」
「はい、お客様には長い間この店に来てもらっていますし、信用に足るかと思いまして……それに、一応念の為代わりのバイトの店員を呼んでありますので、あ、やすこと言う店員が来る手配になっております」
「あ、そうですか、それなら特に問題ありません。どうぞ、わんちゃんのためにも早く戻られてあげてください」
俺は心良く引き受ける事にし、再度頭を何度も下げ、店を後にするマスターを見送った。
お代わりに継いでもらった珈琲を口に含み、再び本に目を通す。
20分程経ったぐらいだろうか。
店に人が入ってきた。
入口に振り返ると、妙齢の落ち着きある女性が、やんわりとした笑みでこちらに向かって頭を下げてきた。
「やすこ……さんですか?」
確認のため名前を呼ぶと、
「はい、靖子といいます」
そう言って女性はもう一度頭を下げ俺の横を通り過ぎて行った。
良かった。
これで店番はしなくて済みそうだ。
そう思った矢先、
「あの、その本」
「えっ?」
声に振り向くと、先程の女性がこちらに振り返り、俺が手に持つ本を指さしていた。
「こ、これですか?」
「はい、その本……お好きなんですか?」
「あ、はい……古い本なんですが一目惚れしまして」
「まあ……あ、そうだ、良ければその本、マスターにも見せてあげてください。あの人きっと喜ぶから」
そう言って女性は、まるで少女の様なコロコロとした笑みを浮かべて小さく笑った。
「あ、はい」
思わず釣られて返事を返した時だった。
──ガチャリ
扉が開き、小さな鈴の音が店内に響いた。
「いやあ、遅くなりましてすみません」
マスターだ。
どうやらわんちゃんの餌やりは終わったらしい。
「お帰りなさい、今やすこさんが、」
そう言いかけた時だった、
──ガチャ
再びドアが開いた。
「すみません店長、遅くなりました」
走ってきたのだろうか、荒い息遣いの若い女性が店に入ってきた。
「いや、すまないね泰子ちゃん、普段は平日だけなのに休日に呼んじゃって」
「いえ、今日はたまたま暇だったものですから私は全然構いませんよ」
そう言って若い女性はいそいそとカウンターの奥へと小走りで入って行った。
ん?
泰子?
「あの……マスター?」
「はい?なんでしょう?」
「今のが……靖子さんですか?」
「あ、はい。いつもは平日に出てきてもらってるんですが、今回だけ特別に出てもらったんです。どうかしましたか?」
「い、いえ……なにも……」
俺は呆然としながらも店内を見渡した。
先程の妙齢の女性の姿はどこにもない。
では、あれは……。
狐につままれた様な気分だった。
その後、何度か読書でもして気分を落ち着かせようと思ったが駄目だった。
集中できそうにない。
仕方なく、俺は店を出る事にした。
帰り際、マスターに今日の事を詫びられたが、
「気にしないでください。珈琲ごちそうさまでした」
そう言って店を出ようとした時、あの靖子と名乗った女性の一言を思い出しマスターに尋ねた。
「あの……?」
「はい?」
マスターが何事かと俺に振り返る。
そんなマスターに俺は鞄に閉まってあった本を取り出し見せてみた。
「これ……お好きなんですか?」
するとマスターはしばらく本を眺めた後、
「あっ……」
と、小さく声を漏らした。
「この本……そうか……今日はあいつの……」
あいつ?誰の事を言っているのだろう?
俺が疑問に思っているとマスターは小さく笑みを零し口を開いた。
「この本……私の友人が書いた本なんですよ……」
「えっ?マスターの友人?」
「はい……懐かしいな……お客様がよくお座りになる席で、その本の執筆をされていた時もありましたよ……そうか……今日はあいつの命日か……」
懐かしそうに、マスターはもの思いに耽るようにして、俺が持っていた本に優しい笑みを浮かべる。
よく見ると本の著書名に、靖子の文字が見て取れた。
何で気づかなかったんだ俺は。
少し自分に呆れつついると、
「お客様」
「はい?」
「良ければもう一杯飲んでいかれませんか?勿論ご馳走させて頂きますので」
「良いんですか?」
「ええ、構いません。あいつの分も飲んでいってあげてください」
そう言ったマスターの顔は不思議と嬉しそうだった。
「じゃあ……遠慮なく……」
そう言って俺は頭の後ろを手で掻きながら、再び先程の席に腰掛けた。
店内にBGMは無い。
静かで落ち着いた雰囲気。
陽だまりが差し込む悠久の店内に、マスターが挽く、珈琲豆の音だけが、優しく、いつまでも耳に響いていた。
本の虫 コオリノ @koorino
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