第8話 葉月さんは大事な人
一ヶ月後、彰人は企画職試験に無事合格していた。
社員食堂の入り口にある掲示板。そこに貼られた合格者一覧に、春日彰人の名前があったのだ。
そして彼は、同じく掲示板に貼られた辞令に視線を向ける。岡崎部長が系列子会社へ出向となる内容で、平たく言えば左遷だ。
「これは熊谷部長、絶対裏で糸引いてるよな」
次の工場長は熊谷か岡崎と目されていたので、熊谷は彰人から得た情報を上手く利用したようだ。社長からの辞令である以上、社内不倫と素行の悪さを社長の耳に入れたと言う事か。
そんな彰人の肩をポンポンと叩く人物がいた。熊谷部長その人である。
「合格おめでとう。これから飯か? 一緒にどうだ」
「はい、ご一緒させて頂きます」
社内の力関係を垣間見たようでおっかないが、熊谷は人としても上司としても信用できると彰人は思った。
――翌日は葉月のお引っ越し。
引っ越し先は彰人のアパートで、純一が軽トラック、和也が二トントラックで応援に来てくれた。
同居を申し出たとき、葉月は『それって彰人に永久就職?』と笑った。岡崎との一件以来、二人の距離は縮まっていた。もちろん物理的な距離ではなく心の距離。
同じ敷地に住む大家さんには、菓子折を持って同居しますと挨拶も済ませた二人。おやまあと目を細めた大家の老夫婦は、自家製の梅干しを分けてくれた。これがまた美味しくて、葉月が漬け方を教えて下さいと大家宅へ通うようになるほど。
「同棲か、俺もやってみたかったな」
「和也は出来ちゃった婚だしな」
「うっせえ。純一はいつ式を挙げるんだよ、こっちにも準備ってもんがだな」
「花嫁修業させるから待っててくれって言われてさ。学校の家庭科実習でしか、包丁を握ったことなくて」
「マジか!」
居酒屋の主人に嫁ぐなら親の心配もよく分かると、和也が真顔で返す。そんな二人は運び込んだクローゼットをどこに置くかと、葉月に尋ねていた。
古いアパートではあるが妻帯者向けなので、間取りは八畳一間・六畳一間・四畳半一間にキッチンも広い。彰人は八畳間をほとんど使っていなかったので、そこが葉月の部屋となる。
「ちわー、やよい寿司です」
「はーい、いま行きます」
引っ越し祝いと言えば握り寿司と、注文した葉月がお財布を持って玄関へ行く。その後ろ姿に和也がもう主婦だよなと言い、そうだよなと純一も頷く。
「何の話ししてんだ?」
軽トラックに積んだダンボールを直接窓から搬入していた彰人が、和也と純一の様子に首を傾げる。
「なあ彰人、同棲に至った決定打は何?」
純一に問われ、彰人は軍手のまま鼻をポリポリとかいた。今の葉月がアパート探しに苦労するのは和也も純一も分かっている。だが一緒に住むとなれば、何かしら切っ掛けと言うかトリガーがあったはずと。
ほれほれと二人に責っ付かれ、彰人は観念したように口を開いた。
「企画職試験の資料を作ってる時、葉月さんからLINEの着信があってさ」
「ひとつ屋根の下で暮らしてるのに?」
そう言って和也は純一と顔を見合わせた。襖一枚開けば隣にいるのに、なんでわざわざと。
『彰人君、ひとつだけ聞かせて』
『どうかしたの? 葉月さん』
『君が言う
「それでそれで、何て答えたんだよ」
窓枠を挟んで純一が身を乗り出し、和也が聞かせろと腕を組んだ。おまえらなと言いつつも、彰人の頬がちょっと朱に染まっている。
『結婚したいと思えるほど、尊敬できる女性です』
そんな意味だったのかよと、語彙力上げろと呆れる和也と純一。お前らに言われたくねえと返す彰人。
だがこの話しには続きがある。直後に襖がガラリと開き、葉月が彰人に抱きついて来たのだと。聞いた和也と純一が思わず身もだえしたが、見ていてちょっと気味悪い。
「三人とも手が止まってるわよ? 彰人、全部運び込むまでお寿司はお預けね」
寿司桶を手にした葉月からダメ出しをもらい、それはないよと三人はシャカシャカ動き出す。
だが和也と純一はニンマリ笑っていた。本人は意識していないようだが、彰人君から彰人と呼び捨てに変わっている。
俺たち家族ぐるみの付き合いをするんだろうなと、二人はちょっとした未来に思いを馳せたのだ。
ー完ー
葉月さんのノートパソコン 加藤 汐朗 @anaanakasiko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます