第7話 最低な男
お泊まりセットが欲しいと葉月に言われ、彼女のアパートへ一旦寄ることにした彰人。女性には色々と準備するものがあるらしい。
「虎の穴、楽しいお店ね」
「急に呼び出しちゃってすみません、あいつらがどうしても会ってみたいと言うもんだから」
いいのよと葉月は笑う。交友関係を見ればその人柄も分かるというもの、彰人は友人に恵まれているなと羨ましくもあった。
葉月にも旧知の友人は何人かいるが、ここのところ疎遠になっていた。どうしても恋バナになるため、不倫の後ろめたさが手伝い連絡を取りにくかったのだ。
彼女がそんな事を考えていたら、急に葉月さんと声を潜める彰人に腕を掴まれた。彼が向ける人差し指は自分のアパートで、部屋に明かりが灯っている。
面接に出かけたのは明るい時間だったから消し忘れなんてあり得ない。葉月の表情が徐々に険しくなる。そして彼女は走り出し、彰人も後を追いかけて走った。
部屋にいたのは岡崎部長だった。人ん家の冷蔵庫を開けて
「岡崎さん、どうしてここにいるの? 私達はもう終わったはずよ」
「そんな冷たいこと言うなよ、私と君の仲じゃないか。ところでそっちは、確か品質保証部の……」
「春日です。合鍵を置いてお帰り下さい、岡崎部長」
今度は年下に手を出したのかと勘ぐる岡崎の目は、葉月の胸、腰、お尻を舐め回していた。
そんないやらしい視線を遮るように、彰人は二人の間に立ちお帰り下さいと重ねて言う。こちらは招かれた身で、あなたは招かれざる客だと。
彰人と葉月の耳に、明らかに舌打ちの音が聞こえた。ここへ上がり込む前にもどこかで飲んでいたらしく、かなり酔っているのが分かる。岡崎は立ち上がると、彰人と対峙した。
「私は葉月に話しがあるんだ、気を利かせて君が帰れ」
「用があるのは話しじゃなくて体でしょ? 岡崎さん」
「なんだと!」
顔を真っ赤にした岡崎が彰人の胸ぐらを掴んだ。
どうしてこんなやつが部長職なんだろうと彰人は思う。何か取り柄があるから部長なのだろうが、職場の上長として以前に、人として尊敬できない。
彰人は天井を見上げ、あのとき後頭部に走った衝撃をこいつにと腹をくくる。あのノートパソコンの痛みは、本来ならお前が受けるべきものだと。
彰人は岡崎の両肩を掴み、その顔面に頭突きしていた。
――月曜日。
彰人は直属の上司である、品質保証部の熊谷部長に呼び出されていた。場所は部長席ではなく小会議室。
「これはクビかな」
彰人はフッと息を吐いた。あのあと殴り合いとなり、葉月が隣人のご夫婦に助けを求めて事は収まった。
結局のところ岡崎は合鍵を返さず、ただで済むなよと吐き捨てるように放ったセリフが耳に残る。
仲裁に入ってくれたご夫婦に平謝りし、葉月はいま彰人のアパートに避難している状況だった。
引っ越しを勧めたのだが、天涯孤独の葉月は保証人を用意できない。保証会社が保証人になってくれる物件を探さないといけないが、現在無職の自分に保証が付くかどうかは甚だ怪しいと葉月は言った。それが引っ越したくても出来なかった理由だと。
「失礼します」
「おう春日、入ってそこに座れ……ってどうしたんだその顔!」
「岡崎部長からクビにするよう言われたのではありませんか?」
熊谷は目をパチクリさせ、何の事だと首を捻った。だが直属の部下と岡崎の間で揉め事があったなら、上司として看過できない問題だ。
「岡崎と何があったか、話せ」
彰人は話してよいものかと、少し戸惑った。だが葉月は退職しているし、不倫の件は総務部に知れ渡っている。今更だなと、彰人は事の顛末を熊谷に話した。
「心配するな、君の進退を決められるのは上司であるこの私だ。岡崎の好きにはさせんさ。それよりも君を呼び出したのは、これを渡したかったんだ」
熊谷が差し出す書類を受け取り、目を通した彰人は驚いた。なぜならば、それは企画職の試験日程だったから。
彰人の会社は執務職と企画職に分かれている。執務職は永遠に平社員で、企画職に合格すれば主任・係長・課長・部長と出世の道が開かれる。
本来は大卒が受けるものだけれど、高卒でも部長推薦があればチャレンジできる仕組み。つまり部長から、技能と就労態度に加え人望が評価されたということだ。
「岡崎のことは気にせず、企画職試験に取り組みなさい」
「はい、ありがとうございます」
口の中が切れていてうまく話せない彰人に、何故か熊谷は目を細めた。
「年上はいいもんだぞ、朝倉さんを大事にするんだな」
「もしかして、熊谷部長は年上女房なんですか?」
「そうさ、年上だからかいがいしく世話を焼いてくれる」
そう言って笑った熊谷部長は、とても優しそうな顔をしていた。
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