透明人間
ロウアー・イースト・サイドの夕陽はいつだって最高だ。空が見えなくなるくらいギュウギュウに生えているビルたちの間を縫うようにして細長く縦に延びた空が真っ赤に染まり、そこにぼんやりと大きくなった太陽が最後の輝きをぶち込んで来る。私はいつものようにとびきり高いビルとビルをつなぐチューブみたいな渡り廊下の外側の、屋根の上に陣取って、ショートパンツで両脚をぽーんと投げ出して座って西の空を見る。ここはこの街でいちばん綺麗に夕陽が見える場所。つまりこの宇宙で最高の場所だ。
こんな危ない所に登ることはもちろん禁止されていて、見つかったら警察に突き出されてきっと停学だ。でも大丈夫、バイト代を全額投入してチャイナタウンで手に入れた最高で完璧な音響光学迷彩を身に着けてるから、ちょっとやそっとじゃ見つからない。可視光も赤外線も、私からひっきりなしに流れ出てる色んなデータも、それから光じゃなくて音までも、私についてのあらゆる情報がシールドされている。つまり私はここで宇宙で一番透明な存在になって、宇宙で一番きれいな夕陽を眺めてる。
この街の気流はばっちり
命綱なんてつけてない。落ちたらぜったいに死んじゃう。霞んで見えない地上(そんなものが本当にあるのか、私は見たことないんだけど)まで、ビルとビルの隙間を千メートルもぐんぐん落ちていく間に、ビュンビュンと飛び交う無数の車か、たくさんある渡り廊下のひとつに衝突しておしまいだ。
むかしむかしの物語では、女の子が空から落ちたりして、男の子がそれを受け止めたりして、恋に落ちたり冒険したりして、ボーイ・ミーツ・ガールっていうの? そんなお話が人気だったとか。カヤは文学少女でそういう古臭い話が大好きで、何を読んでるの?って休み時間に聞いたらそんな話を教えてくれたことがあったんだ。いつもは大人しいカヤだったけど目を輝かせてたからもう、やっぱいいやとは言えなくて、私はふんふんって話を聞いてた。でも正直そんなに、興味があったわけじゃない。だって意味わからないよ。女の子だって落ちたくて落ちたわけじゃないのに、そこにたまたま居合わせた男の子に拾われちゃうんでしょ? そんなの意味わかんない。私がここで運悪く強風に煽られてビルの谷間に落ちちゃって、それをたまたま受け止めてくれた男の子が運命の人なのかな? 冗談じゃない。それに私は運動神経だっていい方だから、風が吹いても大丈夫だし、ぜったいに落ちたりしないから。
そんなどうだっていいことを考えながら、たまに私はここに来て、一人ぼっちの透明人間になる。誰からも見えず、私の声は誰にも届かない。そういう風に音響光学迷彩にすっぽりと包まれると、なんだか不思議な安心感がある。小さい頃に、暗くて静かな部屋の中でお布団にギュッとくるまった、あの時に似た感覚。でもぜんぜん違うのは、私にはこの街のことが見渡せているのに、この街には私が見えてないってこと。パーフェクトな透明人間。
そういう感じで、ニョキニョキ生えたビルの林の下にまるで下草みたいに広がっている雑多で小さな建物たちの中に太陽が沈んでしまうまで、ここで夕陽を見て、監視カメラの壊れたダクトの中に潜り込んでチューブのような渡り廊下の中に戻り、不審に思われないようにツカツカと歩いて行ってビルの脇に停まったバスに乗り、ビュンと飛んでお母さんが待つクイーンズの家に帰る。それで翌朝は何事もなかったように
夕陽の表情は日によって違って、ちょっと気まぐれな天気はもちろん、まわりのビルの壁面を覆うギンギラの広告の色合いによっても違って見える。だから何回見ていても飽きることはない。ビュンビュン飛んでるたくさんの車も、とんでもなく大きなこの街の賑わいと日々の変化とを実感させてくれて、私は透明人間になって覗き見している。我ながら、十六歳の女の子のくせに随分とセンチメンタルなことだね。
それで私は今日も、いつもみたいに、西の空をぼんやりと眺めていた。いつもと何も変わらない日のはずだった。
でもひとつだけ、いつもと違うことがあったんだ。
気が付いたら、私の横に、五メートルくらいかな、とにかくちょっと距離を置いて、ブロンドの女の子が座ってた。
同い年くらいか、ちょっと年下かなと思った。その子の髪の毛はすっごく長くて、さらさらで、黄金色に輝いていて、風にたなびいて夕陽を反射していて、それはもう世界のすべてを映し出しているみたいだった。いつも私は自分の黒髪が大好きで、他の女の子たちを見ても黒髪以外のことなんてぜんぜん興味がなかったし、先生に知られたら
その子は淡い水色の薄手のワンピースを着ていた。何て言うかな、その、素朴な感じのぽろんとしたファッション。それからその肌はすごく真っ白で、真っ赤な夕陽に染まるなんてこともなく、とにかく不自然なくらい真っ白だった。ブロンドは夕陽を反射しているのに肌は真っ白なままで背景から浮きだしたみたいで、それが何とも言えず不思議な感じだ。それは、底知れぬ不安感をわたしに忍び込ませた。
女の子は当然こっちに気づくこともなく、さっきまでの私と同じように西の空をじっと見つめていた。いつの間にここに来たんだろ? いくら夕陽に見とれていたからといって、私が今まで気づかないなんてこと、ありえるかな? 私はそっと息をひそめて、そのブロンド女子のきれいな横顔をじっと見つめた。
ふいに、女の子がこちらを見た。その目はまっすぐに私の目を見つめていた。瞳はサファイアのように真っ青だった。そして彼女はやわらかく、さも当たり前みたいな感じで、まるで私のことを何年も前から知っているみたいな感じで、微笑んだ。
私は驚きのあまり、のけぞった。完璧な音響光学迷彩を身につけている私のことが見えるはずなんてない。まあ、ほんとにめちゃくちゃすごい軍用みたいなゴーグルでも付けてりゃ別かもしれないけど、ワンピースをぽろんと着てるだけのその子はどうみても軍人さんって身なりじゃない。生身の眼にナノマシンをくっつけたくらいで出来るスキャンでは、私のことが見えるわけなんかないんだ。
うーん、私の気のせいなのかな。
私はふるふると頭をふってから、まだ私のほうを見ている女の子のことをじっと見返し、目をゴシゴシこすって、やっぱり目の錯覚じゃないよなと確認し、とすると私の妄想か? なんて考えながら、勇気をふりしぼって、その子の目をじっと見つめ返して声を出した。
「私のこと、見えるの?」
もちろん私の声も音響光学迷彩が遮っていて、届くはずがない。しかし女の子は私からじっと目をそらさずに、口元に微笑を湛えたまま小さく首を左右に振った。ブロンドの髪がふわりと弾む。私はその動作に思わず見とれてしまった。
いや、見とれてる場合じゃない。この子にはぜったい私のことが見えてる、聞こえてる。意味がわかんない。私はもう一度、はっきりと声に出して言う。
「ねえ、見えてるんでしょ?」
するとその女の子は、唐突に口を開いた。
「もうすぐ、黒い太陽が昇るわ」
「……え?」
私はぎょっとした。何? この子。
「だって今日、世界は滅ぶんだから」
それは私を透明なナイフで切りつけるような声で、とっても静かで冷たかった。風がびゅうと私たち二人の間を吹き抜けた。私はちょっと怖くなった。
よく、わからないけど、ちょっとおかしな子みたいだ。関わらない方がいいのかな。
でも、この子のブロンドは本当に綺麗だったし、それに私のことが見えているのなら、どういうことなのか、やっぱり気になった。
それで私は、少しおっかなびっくり、話しかけてみることにする。
「やあ、君、……えーと、何て言えばいいのかな。ごめんね、こういうの、慣れてなくて」
何を言ってるんだ私は。
でもそれで、気のせいかもしれないけど、女の子が少し微笑んだ気がした。ちょっとだけ二人の間の空気がなごんだ、かな。えい、やあ、ここだ。勢いだ。勢いが大事なんだ。
「ねえ君も、ここで夕陽を見てるの?」
まずは当たり障りのない話から。するとブロンドの女の子は、今度ははっきり分かるくらいちゃんと笑って言った。
「そうね。正確には、私は世界を見ているの」
「う……うん……」
また気まずい沈黙が流れた。
それにその子の言葉は何だかつるつるしていて、
うーん。うん。やっぱり、やめよう。話すのは。この子はちょっとおかしな子なんだ。まあ、私が言えたことじゃないけど。一人でこっそりこんなところに来て音響光学迷彩で姿を隠してる私も、十分に変な女の子なのだろう。でも私は、初対面の女の子に、しかもこんなとびきり景色の綺麗な場所で会った女の子に、黒い太陽?世界?の話?なんてしないぞ。
「黒い太陽が昇りきる前に、あなたは逃げるの。ここから三ブロック先にシェルターがある。本当は
……ヤバい。思った以上にヤバいぞこいつ。早く帰――
その瞬間、ありえないことが起きた。私の中にシェルターの位置を示す座標と、そこに入るためのアクセスコートが流れ込んできたんだ。
「え、うそ……ちょっと、これ、本物? いま、君がやったの?」
こんなことってある? 私の音響光学迷彩は完璧だから、あらゆる波長帯の電磁波をシールドしていて、自分の情報をどこにも漏らしてない。だから外界から私へのデータ送信も出来ないはずなんだ。絶対、できるわけない。
いや、そうとも限らない。そもそもこの子には私のことが見えているし、聞こえているんだ。だからなんだって出来るのかもしれない。ただのちょっとおかしい子じゃないのかもしれない。ひょっとしたら、めちゃくちゃすごい人だったりするの? だとしたら、え? 黒い太陽って何?
そんなことをぐるぐる考え始めた私のことなんて無視するみたいにして、ブロンドの女の子は今にもビルの谷間に沈もうとする真っ赤な夕陽の方を見ていた。
私は一呼吸して気持ちを落ち着けてから、仕方ないから一緒になってその夕陽を眺めることにした。この変なブロンドの女の子は、変なことを言いっぱなしに言うだけで私の質問に答える気なんてなさそうだし、かといってこっちも無視しちゃうにはちょっと気になることがありすぎる。この子がやっぱりちょっと頭の変になっちゃった子なんだとしても、最強の音響光学迷彩に包まれた私の姿を見ることが出来て、しかも妙なデータまで送って来れるのは事実なんだ。ひょっとしたら、私の知らないすっごい
ちょっと毒々しいけど美しい夕陽。それをまた私はバカみたいに見てる。
あと二十分くらいで見えなくなってしまうだろう。無数のビルが織りなすデコボコした地平線に向けてゆっくりと下がっていく太陽。いつもと変わらない。
「……ははっ。何も、起きないじゃん」
私は、何かが起きるのを心の片隅で期待してた自分に気づいて、ちょっと決まりが悪くなった。それからすごく、バカバカしくなった。何を考えてんだ私は。黒い太陽? 世界の終わり? 子どもだって笑うよ、ただのおかしな子の妄言だ。
ブロンドの女の子の方を見ると、彼女は相変わらず夕陽を凝視している。そのサファイアみたいな瞳にはやっぱり、ちょっと普通とは違う雰囲気っていうか、なんか狂気の色が見えるような気がした。
うーん、うん、この子には関わっちゃダメだ。
やっぱり、帰ろう。このままだと、こっちまで変になっちゃうよ。
私は邪念を払うように少し首をふって、立ち上ろうとした――そのとき、ブロンドの女の子が急に口を開いた。
「ほら、出るわよ」
「ん?」
私は思わず中腰の姿勢でフリーズしてしまい、聞き返す。それから一応、やっぱりいつも通りの夕陽の方を確認して、言う。
「……だから、何もないじゃん」
「黒い太陽――」
「それ、君の妄想だよ」
「――が現れたわ。〈
「グ……グレ……???」
ますますヤバいなこいつ。私はわざとらしく困った顔をして見せてから、また何気なく夕陽の方を見た。
今度は、いつも通りではなかった。
そこに何かがあった。
妙な寒気がして、ビクッとする。
ビルの谷間に姿を現したのは、禍々しいばかりの真っ黒な球体だった。
「うそ……」
私は思わず、目をこする。いや、ちょっと待て。なんだ、これ。幻覚?
その球体は、まるで時空にぽっかりと空いた落とし穴みたいに、まるで世界のバグみたいに、周囲から不自然に浮き上がった黒色をしていた。
――いやいやいや、どう考えても幻覚だろう。あの子にあてられて、私までおかしくなっちゃった。だから早く帰れば良かったんだよ。嫌だなあ。嫌だ嫌だ。最低。
心を落ち着けるために、波長帯を変えてその黒い球体を見る。やはり、真っ黒だ。どの波長帯で見ても真っ黒。どうなってるの?
ブロンドの子は、相変わらず無言でじっと西の空を見つめている。
するとみるみる、黒い球体は高度を上げていき、真っ赤な本物の太陽を覆い始めた。日食みたいな感じで。そしてすぐに太陽を、まるで呑み込んだみたいに、完全に覆い隠してしまった。
あたりは急に、夜みたいになった。
「え……」
嘘だ。嘘だよ。私まで、おかしくなっちゃったの?
私は本当に、怖くなっていた。これが現実だとしても、幻覚だとしても、どっちでも、相当ヤバい。現実だとしたら、ぜんぜん分かんないんだけど、とにかくこの世のものとは思えない何かが起こっている――それか、これから起ころうとしてるんだ。それこそ本当に、世界の終わりみたいに。それとも、もし幻覚だとしたら、私の方がおかしくなってしまったってことになる。きっと私の脳だけでなく、ナノマシンたちまで、おかしくなってしまったんだ。
どっちにしろ、最低だ。信じられないくらい最低なことが、起こってる。
早く、家に帰らなきゃ。
そうだ、どっちにしろ、こんなとこにいちゃいけない。帰りが遅くなると、お母さんだって心配するだろう。
すると今度は黒い球体が、その外縁からチロチロとした炎みたいなものを放出し始めた。あたりは夜みたいになっているから、そのくすぶる炎の輪っかみたいなのだけが空に輝いていた。その姿はより一層、不気味で奇怪で禍々しくて、この世のものとは思えない光景だった。
「ねえ、君が言ってた黒い太陽――これがそうなの? 現実? 幻覚だよね?」
私はだんだんパニックを起こしそうになってきた。とにかく、すぐにでも、ここを離れよう。そうだ、そうだよ。このままバスに乗ったら、きっとぜんぶ元通り。黒い太陽なんてないし、家ではお母さんがいつものように待っている。明日の朝、起きたら嫌なことはぜんぶ忘れてる。学校に行ったらアレックの奴にちょっかいを出してやるんだ。
私は音響光学迷彩を切ろうとした。しかしその瞬間、強制的に再起動された――というより、切ることが出来なかった。リトライ。――ダメ。音響光学迷彩をシャットダウンできない。もう、何なんだよ。また女の子が私のシステムに干渉したのか?
「まさか、また君?」
私はその子をぐっとにらんだ。すると今度は即座に答えが返ってくる。
「絶対に、切ったら、だめ。そのシールドが貴女のナノマシンを感染から守っている。自力では切れないようにコードを操作しておいたわ。言ったでしょう? 逃げなさい、死にたくないなら早く」
今度は、なに?
「……いや、だからちょっと待ってよ。そんなこと、できるわけないよ。君、何なの? ねえ、何? 感染って何? ていうかあの太陽みたいな黒いやつ、何⁉」
女の子はまた答えない。すると急に、いままでは目の前の空中道路をきっちりと並んで飛び交っていた無数の車の列が、ものすごい勢いで乱れ始めた。どうしたんだろう。でも、そりゃそうか。こんな急に暗くなったら、みんな驚くよ。ましてやあんな黒い太陽なんて見たら――いや、それにしても、変だ。車の自動ナビゲーションが正常に働いてないみたい。だよね、やっぱりおかしい。すごい混乱が、広がってきてる。車同士衝突してる。
右からも左からも上からも下からも、クラクションとかサイレンとかいろんな音が、洪水みたいにぐわんぐわんと私を取り囲み始めた。街全体が大混乱みたいになっていて、頭がくらくらする。
空は明るくならない。昇る黒い太陽と沈む赤い太陽が重なって、それっきり赤い太陽は現れない。まるで、黒い太陽に呑み込まれたみたいに、忽然と消えてしまった。
そのとき、一台のスクーターが乱れた車列を離れ、私のいる渡り廊下の屋根にドカン!とつっこんできた。渡り廊下全体が衝撃でグラグラ揺れる。
「どへぇえ!」
変な声が出た。危ない。怖すぎる。少しズレてたら私を直撃してた。
そのスクーターは不時着みたいな感じ?でザザザと数メートル火花を散らして進んで、私から十五メートルくらいのところで止まった。
乗っていた男の人は投げ出されて仰向けに倒れている。
「あの……大丈夫ですか……?」
私は届くはずのない声を出して、少し考えてから、勇気を出してソロソロとそっちに近づいていった。大丈夫かな、生きてるかな。生きてるなら、助けなきゃ。でもこの混乱の中で、救急車なんて来れるかな? 私はちょっと振り返ったけど、ブロンドの子は微動だにせずにこちらを見ているだけだ。くそ、手伝えよ。
倒れた人の所までたどり着き、顔を覗き込んだ。私はぎゃっと声をあげた。
どう見ても、死んでる。
口からは泡を吹き、そして――二つの眼がなくなっていた。その顔にはドロドロの黒い穴が二つ空いているだけだった。腐ったような、何かが焼けたような、異様な匂いがつんと鼻をついた。
「お……おぇ……」
私は思わず吐きそうになる。この人、眼が溶けてなくなっている――
「あなたもそうなりたくなければ、音響光学迷彩を脱がずに、今すぐシェルターへ向かいなさい。そのスクーター、まだ使えるわ」
少し離れたところで何も言わずにそれを見ていたブロンドが、ふいに声を出す。
「ちょっと……何なの⁉ この人、死んだんだよ⁉ しかも、何これ、ほんと意味わかんない!」
「時間がないわ、早くスクーターに乗るの」
「だから、それって泥棒じゃん!」
そう叫んだ次の瞬間、二十メートルも離れたところにいたはずのブロンドが、私の目の前に立っていた。
「え、え⁉ 何⁉ 瞬間移動⁉」
「私もあの黒い太陽と同じ。物理的には、ここにいない」
なんで、どうして、こんなことになるの? 私はここで、私だけしか知らない渡り廊下の屋根の上で、きれいな夕陽を眺めて、ちょっとセンチメンタルで自己満足な透明人間ごっこをしていた、だけなのに。
「もういい! やめてよ! 私、家に帰るんだ!」
「もう遅いわ。間に合わない。貴女には誰も助けられない」
――冷たい声。
そのとき、五百メートルくらい向こうの空中で、車の列がめちゃくちゃ大きな爆発を起こして、たくさんの車が玉突き状になって飛び散った。あるものは周囲のビルに激突し、あるものは地上へ向かって落下していく。ウヮンウヮンと大音量のサイレンが響き渡った。見渡すと、街のあっちからもこっちからも煙が立ち上り始めている。なんだこれ。何なんだ。何なんだよ!
「もう二度とは言わないわ。シェルターに行きなさい。ここは危ない」
「ねえ、教えてよ。何が起きてるの? 君、知ってるんでしょ⁉」
ブロンドは黙ってしまって、真面目くさった顔で私を見てくる。
――もう本当に、何がなんだか分からない。ひょっとして、あの車に乗ってる人たちはみんな目が溶けて死んじゃったの? 街中みんな? みんな死んだの? 嘘。嘘だ。そんなはずない。お母さんは? 友達は? 無事だよね? ていうか、私はなんで無事なの? なんで生きてるの? ――音響光学迷彩。あの子、感染って言ってた。感染。ナノマシン。ナノマシンに感染するウイルス? そういうの、学校で習った気がする。ひょっとして、分かんないけど、何かすごいウイルスがナノマシンを狂わせて、人が死んでる? まさか、そのウイルスを私の音響光学迷彩がシールドしてくれてるの?
「ああ、もう意味わかんない! だからちょっと待って、お願い、ちょっと待って。まず、家に戻ってお母さんを連れてきて、ルーラと、カヤと、アレックだって一緒に――」
私は片っ端から知り合いにダイヤルした。
プツ。
通じない。そうか、当たり前だ。私は何をやってるんだ。音響光学迷彩の中からはダイヤルできない。やっぱり、まずは音響光学迷彩をシャットダウンしないと――
できない。ほんとに? この子、本当に私には切れないようにハックしたの?
「私の音響光学迷彩を切って」
「切ったらすぐに貴女は死ぬわ」
「知らないわよ、そんなこと!」
「貴女は、死にたいの?」
「違うわよ。みんなに連絡しなきゃ。どうなってるのか聞いて、助けに行かなくちゃ。だから、お願い。早く!」
「できない」
「ふざけんな!!!」
なんども強制シャットダウンを試してるのに、できない。そんな。やめてよ。どうしてだよ。どうしてこんなことするの。
ねえ、どうして?
私はもう号泣していた。
「いいから、切って! お母さんが死んじゃう! ルーラも、みんなも。助けなきゃ。私がいれば、この音響光学迷彩があれば――」
「言ったでしょう。貴女にできることは何もない。もう間に合わない。それにもし連絡が取れたところで、きっと既に貴女の言葉は通じなくなっているわ」
「言葉? 何言ってるの? ふざけないで。適当なこと言わないで。嘘。ぜんぶ嘘。君の妄想の続きなんだ。私に押し付けないで」
「落ち着きなさい。妄想じゃない。見たでしょう? あの黒い太陽を。世界は終わるの、今夜のうちにすっかりね」
「嘘だ」
「本当よ。みんな死んだか、じきに死ぬ」
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
「なら、貴女もここで死になさい。もう別に、構わないわ。結局のところ、そんなのは、些末なことなのよ」
私は涙でぐちゃぐちゃになった目をぎゅっと閉じて、また開いて、ぼやけた視界の中でブロンドを見た。
「ねえ、どうして君は、私を助けようとしたの?」
そして、自分でもびっくりするくらい、静かな声で言った。
「助けなくたって、いいのに」
「その理由を決めるのは、私じゃないわ」
そう言った次の瞬間、女の子はもうそこにいなかった。
とつぜん現れたときと同じように、とつぜん消えてしまった。
また瞬間移動したのかな、と思って辺りを見回しても、やっぱりどこにもいない。跡形もなく消えていた。まるですべてが夢だったみたいな感じで。忽然と消えてしまったんだ。
私はぽつんと取り残されてしまった気がした。
いつもの渡り廊下の屋根には、私と、両眼が溶けて死んだ人と、それから一台のスクーターがあった。
音響光学迷彩は、切れていなかった。くそが。なんだよ、ブロンドは私を見捨てて消えたんじゃないのかよ。見捨てるんなら音響光学迷彩、切っていけよ。くそ、くそ、くそ――
黒い太陽はますます禍々しく輝く炎の輪っかになって、さっきよりも高くまで昇っていた。
四方からは相変わらず爆発音とサイレンが鳴り響く。
するといつの間にか、頭上に大きな戦艦みたいなのが現れていた。
威風堂々たるその姿。おぉ、軍だ。きっと、味方だ。頑張れ。頑張れ。最強の我が連合軍! 敵は何なのかぜんぜん分からないけど、とにかくやっつけろ! 税金、払ってるんだぞ。世界を救って!
そう心の声をあげた途端、戦艦は煙を上げて大きくバランスを崩し、ふらふらと高度を落としていった。そして遠くのビルの林の中につっこみ、ひときわ大きな爆発を起こして大気をビリビリと震わせた。
私はただ茫然としてそれを見ていた。本当のこととは思えないくらい、あっけなかった。
世界中がこうなっているのかな。地球の裏側でも、火星でも、木星でも、土星でも、それから海王星でも。だとしたら助けは来ない。誰も勝てないんだ。きっと人類の力を超えたことが起こってて、そうか、そうだよね、本当に――世界が終わるんだ。
涙はもう出ていなかった。
そうだ、お母さん、助けなきゃ、お母さん――
でもどうしても、相変わらず、音響光学迷彩はシャットダウンできない。
するとまた、私から十メートルほどのところに車が飛んできて、渡り廊下に激突してバラバラになった。大きな音がして、ぐらぐら揺れて、車の破片も乗っていた人も燃えながら地上に落ちていって、それからさっきの死んだスクーターの人も空中に投げ出されて、やっぱりはるか下の地面に向かって落ちていった。私もバランスを崩して落ちそうになったけど、両手両足で這いつくばって何とか持ちこたえた。なんだかもう、怖いとも感じなくなっていた。とりあえず、まだ、私は死んでない。
でも、このままここにいたら私もすぐにあの死体みたいに投げ出されて、車か地面に激突して、死んでしまうだろう。
助けてくれる人も、受け止めてくれる人も、いないんだよね。
私はもう一度、辺りを見回した。さっきのスクーターが少し離れたところに見えた。それは運よく、まだ渡り廊下の屋根から投げ出されることなく、そこにあった。
ゆっくりと立ち上がって中腰でバランスをとりながら、そろそろとスクーターへと近づいていく。そしておそるおそる、ハンドルを握る。
私の音響光学迷彩が拡張され、スクーター全体を包んでいく。それとともに、もともとあったナノマシンが追い出されて、かわりに私のナノマシンがスクーターと同期する。システムは正常に見える。制御する私のナノマシンが感染していないからなのだろう。
「ごめんなさい」
私はスクーターの持ち主に言った。でもその死んだ人はもうここにはいなくて、何も届かない。
「ごめんね」
私はお母さんに言った。それからルーラにも。みんなにも。私はブロンドの言うことなんて信じない。みんなが生きていたら、ぜったいにまた会える。そのためには、私が生きていないといけないんだ。
スクーターにまたがり、ゆっくりと浮上させる。シェルターへの経路を検索する。この混乱の中でも、三ブロック先なら、行けるかもしれない。
行くんだ。あの黒い太陽が、昇り切ってしまう前に。
私を乗せたスクーターは滑るように空へと走り出す。全身に風を受ける。両手はしっかりとハンドルを握りしめている。音響光学迷彩はやっぱり切れないままだ。でも、もう、切らない。乱れ飛んでる車にぶつかりそうになって何度もひやりとする。スクーターは速度を上げていく。ナビゲーションは正常だ。まわりから爆発音がひっきりなしに響く。何かの破片がいくつも飛んできて頬をかすって血がにじむ。でもあまり、痛くはない。死者を乗せた無数の車がかすめて消える。狂った世界がとめどなく眼の前を通り過ぎていく。私はただシェルターを目指す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます