K-6:: マリネリスの強風
せっかくなので、付近を歩いて散策することにした。少しリスクはあるが、小型機の中でじっとしているよりは気分がいい。
この奇妙な水平ビル群は、もともとは普通の街か何かだったようだ。しかし百年以上も前に何らかの理由で放棄され、ピサロの影響下に入ったようだ。やがて貧しい人々がどこからか集まってきて住みつくようになり、今ではちょっとしたスラム街のようになっている。
俺は小型機を停めた
あてもなく歩いていると、無害な人たちがその日暮らしを送っているのが見える。走りまわる小さな子供たちがいて、洗濯物を干す老婆がいた。どこからか美味しそうな料理の香りが漂ってきた。ここには家族という概念があるようだ。
のどかな時間が流れていた。左肩に血の跡が残っている俺は明らかに場違いだった。
そうして歩いていると、ふいに物陰から悪そうな少年少女が現れた。少年が二人、少女が三人。みな十代半ばくらいに見える。地元の不良だろう。孤児かもしれないが、あるいはこの近くに両親と暮らす家があるのかもしれない。ピサロのハーブも持っていないような素朴な連中だ。言葉は――さすがに火星だけあって――俺よりもしっかりした
その子供達はナイフをちらつかせながら、余所者である俺に絡んできた。俺は無視して通り過ぎようとした。しかしそのうち一人の少年がやけにしつこい。挙句ナイフを俺の顔に近づけてきたので、軽く殴り倒してやった。すごく手加減したつもりだったが、そいつは後ろに一メートルほど吹っ飛んだ。ちょっとやり過ぎたか。
すると少女の一人があわてて駆け寄り、心配そうにそいつを抱き起した。少年は少女に寄りかかるようにして上半身を起こし、鼻血をぬぐいながら俺の方を睨み返してきた。しかしすぐに怖気づいたのか、目をそらした。そしてよろよろと自力で立ち上がると、捨て台詞を吐きながら他の連中と一緒に逃げて行った。
逃げる不良たちを見送り、俺はまた歩き続けた。
しばらくして、にわかに
このあたりに人は一人もいないようだった。通路を何度も曲がり、いくつかの階段を上ったり下りたりしながら歩いていると、次第に方向感覚を失ってきた。もうどこからも外は見えず、太陽の光は届かない。青味がかったわずかな電灯の明かりだけが頼りだった。空気はどんよりと沈んでいた。エウロパのハイヴを思い出す。
ふいに、朽ち果てたドアが前方に現れた。高さは三メートルほど、両開きで幅は五メートルほどの、それなりに大きなドアだ。真っ黒で装飾はなく、錆びついた金属で出来ているようだった。
その前に立っても何のセンサーも反応しなかった。もとは自動ドアだったとしても、とっくにセンサーは死んでいるのだろう。
そのドアに両手をかけ、前方に押した。動かない。ロックされているのかもしれない。しかしもういちど、今度は腰を入れて足を踏んばり、前方に押した。ギギギ、と金属がこすれる不快な音がして、少し動いた。そのまま全身に力を込めると、一気にドアが開き、前につんのめりそうになった。
午後の太陽光が飛び込んできた。
その光に、俺は思わず目を細めた。
視界いっぱいの空の下に、マリネリス峡谷のパノラマが広がっていた。
水平に生えているビルの一つの、先端部分だった。五メートルほど先で床は途切れていた。ビルの縁だ。その先は、そのまま峡谷の空へとつながっている。
さえぎるものは周囲になく、風が強い。砂埃の混じったその空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
周囲に人影はなかった。
俺は顔に強風を受けながら歩いていき、途切れた通路の端に立った。足元を見下ろすと、谷底は二千メートルは下にあった。柵も何もないから、一歩踏み間違えると真っ逆さまだ。そこに腰をおろして、両脚をぶらんとした。
見晴らしの良い場所だ。今日は砂嵐もなく、遠くまでよく見える。
ちょっとした展望台のようだ。
自然が作り上げたこの雄大な峡谷は、長さが四千キロ、深さが十キロ近くある。幅はまちまちだが、広いところでは二百キロもあるという話だ。
大小の船が峡谷を飛び交っているのが見える。すぐ目の前をいくつかの小型機が飛びぬけていった。俺はその風圧を全身に受けた。
何百年にもわたる無秩序な建設の結果、峡谷の壁面と底を無数の建造物がフジツボのようにびっしりと覆い尽くしている。見渡す限り、赤い土が露出している場所はなかった。フジツボの群れは峡谷のすべてを呑み込んでいた。それは火星の赤い空の下に淀んだ灰色のゴミ溜めのようにも見えた。何千キロも続くゴミ溜めだ。
地域によって棲み分けはあるものの、マリネリス峡谷にはあらゆる種類の人々が住んでいた――金持ち、貧乏人、帝国官僚、貴族、マフィア、政治家、貿易商、企業家、僧侶、孤児、医者、軍人、芸術家、ヤク中、娼婦、
夜になると、それら全ての人々が作り出した灯りがどこまでも続く峡谷の壁面を覆いつくし、それは壮観な、太陽系で一番の夜景を作り上げるのだった。
そうして峡谷の赤い空を眺めていると、ふいにハイヴで殺した大男のことを思い出した。俺は目を閉じた。深い考えがあったわけじゃない。何となく閉じただけだった。すると今度は、
そのまま目を開けちゃいけないような気がした。深呼吸をした。祈りというものなのかもしれないと思った。しかし何に祈っているのかは分からなかった。
そんなことをしたのは生まれて初めてだった。俺にハーブをくれたあの密輸商人が死んだときも、祈ったりはしなかった。
――やっぱり、
ふいに我に返り、軽く頭をふった。そしてゆっくりと目を開いた。
俺の横にあの少女がいた。
どういうわけか、俺は驚かなかった。
彼女は俺と並んでビルの端に腰かけていた。裸足の足を空中にぶらぶらさせている。相変わらず肌は雪のように白く、眼はサファイアのように青く輝き、そして髪は不自然なほど黄金色の光を放っている。でもその姿は、あの薄暗いドックにいたときとは、どこかが違うように思えた。
少女は眼前の峡谷を眺めていた。
俺は少女の方を見ずに、一緒にその風景を眺めて言った。
「世界は終わりそうにないぜ」
少女も俺の方を見ずに答えた。
「どうして分かるの?」
その声は以前と同じように冷たかった。それは吹きすさぶ風を切り裂いて対岸に届き、峡谷のゴミ溜めの全てを包み込んで、そして凍らせてしまいそうだった。
「見れば分かるだろ。世界はちゃんと続いてる」
「ほんとうに?」
少女は俺の言葉に興味がないような調子で言った。
俺は自分の顔をゆっくりと動かし、少女の横顔を見た。
「お前は、誰だ? 俺の幻覚なのか?」
「違うわ。私は実在している。少なくとも、貴方と同じくらいはね」
「そうは思えないな。お前は俺の脳みそが作り出した空想の産物なんだ」
俺は少し強い口調で言い切った。しかし少女は所在なさげに、ビルの縁からおろした足を空中でぶらぶらさせながら、
「映し出す存在」
「あ?」
「貴方のことを」
何を言ってるんだ。
「だから貴方は私を通して貴方の世界を見ているの」
相変わらず、少女の言うことの意味は全く分からなかった。
でも、どういうわけか、今ならその言葉をそのまま、素直に受け止められるような気もした。
「なあ――」
俺はその輝く髪とサファイアの瞳を交互に見て言った。
「お前は、ババが消えたことと、何か関係があるのか? ババが世界を救おうとしているって話は、本当なのか? それから――文明の墓標って、何なんだ?」
少女はこちらをちらりとも見ず、不機嫌そうに言った。
「質問が多すぎる」
吹きすさぶ風の中、俺たちはビルの端に並んで腰かけ足をぶらぶらさせながら、峡谷を眺め続けた。
俺は質問を一つだけ選んだ。
「ひょっとして――お前は文明の墓標なのか?」
彼女ははるか峡谷の彼方をじっと眺めていた。心なしか、火星の赤い空を反射して、雪のような頬が薄く色づいているようだった。
「くだらないわ。そんなこと、聞いてどうするの?」
「なんだよ、答える気はないってか? わざわざ俺の前に現れて、意味ありげなことだけを言って、謎かけでもするつもりだったのか?」
少女はふいにこちらを見た。彼女は笑っていなかった。しかしその顔は、以前ほど冷たくも硬くもないように感じられた。
「私は記憶しようとしている。貴方達のことを。記憶するとはすなわち映し出すことだから」
彼女の言うことの意味は、やはり分からなかった。
果てしなく広がる灰色の建造物の群れを見ながら俺は訊いた。
「世界は、滅びるのか?」
すると少女はいつかのように軽快な所作でふわりと立ち上がり、ビルの縁に立った。赤い空を背景に、白い肌、そして黄金色の髪が、美しいコントラストを作り出している。
「知らないわ。それを決めるのは私じゃない」
「まさかバベル病で滅ぶ?」
「だから、私に聞かないで」
「でもお前は、世界が滅ぶと思ったから、
「そうかもね。でもそれも、結局はどうでもいいことなの。この宇宙では、一個の文明が滅びることも、一個の知性体が滅びることも、その究極において何の違いもない。古い
沈黙がしばらく続いて、峡谷を吹き抜ける風の音だけが俺たちを包んでいた。
俺は腰かけたまま彼女の顔を見上げて言った。
「……お前はどうして、俺の前に現れたんだ?」
にわかに少女は両腕を頭上にあげて、んっ、と言って気持ち良さそうに伸びをした。そして満足げな表情で空を眺めた。それは彼女が初めて見せた人間らしい動作のような気がした。午後の太陽の光を存分に吸い込んだ髪が、風になびいていた。
「その問いは正確じゃない。私はいつも、どこにでもいるのよ」
その瞬間、ひときわ強い風が峡谷を吹き抜け、びゅうと俺たちを襲った。それは林立するビルに当って乱気流へと変わり、今度は背後から吹き付けて俺を谷底へ吹き飛ばそうとした。
俺は少しバランスを崩して、ひやりとした。しかし両手と腰に力を入れて事なきを得て、ビルの縁により深く座り直した。
気がつくと少女の姿はなかった。
一瞬、さっきの風に吹き飛ばされてしまったのかと思った。しかし谷底を見下ろしても、落ちていく人影も、ましてや黄金色の残光も、見えなかった。
またしても、少女は忽然と消えた。
俺はしばらく呆然としていた。
目の前を小型機が飛び抜けていった。
太陽の位置はやや低くなっていた。空は赤かった。マリネリス峡谷は相変わらず灰色に沈んでいた。
気を取り直して、ゆっくりと立ち上がった。ビルの縁に立ち大きく深呼吸をした。そして踵を返し、峡谷に背を向けた。
再びあの大きな黒いドアをくぐり、薄暗い通路に戻った。もと来た道がどちらなのかは、はっきりとは分からなかった。
何も考えずにずんずん歩いた。入り組んだ通路を歩いていると、さっき見た峡谷の光景がまるで夢のように思われた。ふと振り返ると、あのドアはとっくに見えなくなっていた。
歩きながらぼんやりと考える。そういえばリリアにあの少女の話をしたことはなかった。馬鹿にされて終わりに決まってるし、下手したら心配させてしまう。もしさっきの出来事を話したら、たぶんこう言われるだろう。
「君もついにおかしくなっちゃったか。ふふふ、いつかこういう日が来るだろうと思っていたよ」
でもひょっとしたら、もっと気の利いたことを言ってくれるのかもしれない。たくさん暗記している古い本の文句からそれっぽいのを選んできて、俺には意味がよく分からないけれど、格好いいことを言ってくれるのだ。
「その
もし無事に
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