K-2:: 重力
俺の記憶はそこで途切れている。気が付いたら、俺はがらんとしたドックの中央でひとり倒れていた。
ゆっくりと上半身を起こした。軽い眩暈がする。時計を見ると、食堂を出てドックに戻った時から十五分ほどしか経っていない。相変わらず不規則な機械音がこだましていて、ドックはいつも通りに平凡で不快な場所だった。ドロイドたちはまだ積荷のチェックをしていた。
少女の姿はどこにもなかった。
俺は我に返ってセキュリティ・システムの
あれは全て夢だったのだろうか。
あの少女の言葉をひとつひとつ思い出そうとした。だが、こめかみに妙な痛みがあり、頭がうまく働かなかった。
少女は、文明の墓標、と言ったような気がした。それは何を意味するのか――
いや、やはり俺の頭がいかれちまったのか。すべては俺の脳が作り出した幻覚だったんじゃないか。
このドックを常時監視している港の管理者に頼んで、可視光の映像記録を見せてもらえれば、もっとはっきりするだろう。そこには、ひとりでブツブツと何かを言って倒れ込む俺の姿だけが映っているのかもしれない。
それを確認する気にはなれなかった。
冗談じゃない。俺は正気だ。
ドックを出て港のシャワールームに行き、思い切り熱いシャワーを浴びた。こんな辺境の港でも水だけはしっかりとあることが僥倖だった。
ふと、自分の二の腕に刻印されたピサロのハーブが目にとまった。もちろんハーブの本体は電子的なものだから、こんな古代の刺青みたいな刻印はただの飾りだ。でも俺は、ピサロの
俺が自由になったのはこの刻印を身につけた時からだ。それ以来、俺は誰かに所有されたことはないし、誰かを所有したこともない。
しばらくそれをぼうっと見ていたが、軽く頭をふると、目をつぶって熱いシャワーに身を任せた。
身体をふいて服を着て、またドックへと向かう。途中、通路の向こうから知り合いの
ちびの
「どうだい? 商売の方は?」
「それなりってとこだ。そっちはどうだ?」
「見ての通りさ!」
と、ちびが答える。なんだこの茶番は。
このあまりにも形式的な挨拶を終えてすれ違おうとしたとき、今度はのっぽの
「そういや、ババのおにぎりはもらったか? もらっておかないと、大変なことになるんだろう? とくにお前さんたちのような商売をしてると、な」
俺は立ち止まって、一呼吸置いてからそいつの顔を見上げた。そして、少し肩をすくめて答えた。
「もちろんさ。大事な験担ぎだからな」
「あのババも随分と歳だからな。いつまでもらえるか、わからんぞ」
「かもな。でも、殺しても死にそうにない婆さんじゃねぇか。当面は大丈夫だよ。それにそっちこそ、安全な仕事じゃないだろ? ちゃんとおにぎりはもらっておけよ」
「ははは、違いねぇ」
そう言ってのっぽは俺の肩をポンと叩き、ちびは何か含みのあるような表情をしてからクククと笑った。俺は出来るだけ裏のない笑顔を作るように努めて、それに応えた。
腐った連中だ。皇帝のシンボルで鮮やかに彩られたその制服の下の身体には、ピサロのハーブが刻印されている。
つまりは、俺と同じ人種ってことだ。気に食わない連中だが邪険にするわけにもいかない。俺はこいつらのおかげで逮捕されることなく商売をやっていけるんだからな。
俺はすぐ出航することに決めた。いつものような長居はできない気がした。ここにいると、嫌でもさっきの奇妙な出来事を思い出してしまう。あれはもう忘れたかった。
自分の船に乗り込み、港の管理者から出航許可証をもらうと、船体を港から切り離した。
このあたりにある人工物は、およそこの港だけだ。漆黒の宇宙空間にぽつんと港の灯がともっているのが見える。それはまるで灯台のようだった。真っ当な連中は寄り付かない辺境の灯台だ。
港から十分な距離をとったところで、船の核融合エンジンに点火した。ぼんやりと浮かび上がるゴツゴツして無秩序な港の姿が背後でどんどん小さくなって、暗闇に飲み込まれて消えた。
船の人工重力を起動した。
この船は、俺が生まれる百年も前に造られたアンティークのような代物だ。しかし、ちゃんと安定した人工重力を生み出せるのが自慢だ。重力は地球と同じ1Gに設定している。その人工重力部分は、細い円筒形をした船の本体をぐるりと囲む、大きなリングのような形をしている。しかしそのリングのせいで、この船は個人で所有するにしては少し大きすぎた。
人生のほとんどの時間を無重力の世界で生きている連中は何人も見てきた。そいつらは、こんな大仰な船を買ってまで重力とともに生きる俺は、弱い男だ、と言わんばかりの視線を送ってくる。人工重力装置を全くもたない宇宙港も多く、そんなところばかり行っているものだから、そいつらはもう地球はもちろん月やエウロパでも立てない体になっている。そういう連中に限って、重力のある場所なんか行かなくても人生を謳歌できると考えているし、セックスだって無重力でする方がいいと信じ込んでる。袋のようなものに二人でくるまって、飛び散るいろいろな液体が充満し身体にまとわりついてくるのが最高にイケるんだそうだ。重力から自由になれよ、とそいつらは言う。でも俺は、あんな風になりたくない。
しばらくして、サイジョウから連絡が入った。結局あのままババが現れなかったのだそうだ。ババの部屋にまで行ってみたが扉は固く閉ざされたままで、中に人がいるのかどうかも分からなかったと――それはまあ、いつものことだが。ともかく、サイジョウは結局おにぎりをもらえずに、すぐに重要な商談があるということで、泣く泣くそのまま
それにしても、妙な話だと思った。そんな話を聞いたのは初めてだった。これまでの三十年間というもの、ババがおにぎりを渡すのを欠かしたことは一度もなかったはずなのに。
なぜババが現れなかったのかは、よく分からなかった。さっき俺がおにぎりをもらったときは相変わらずそれなりに健康そうに見えたババだったが、急にぽっくり逝ってしまったのか。
あまりそう考えたくはなかった。いずれにせよ、もしも今後あの港で験担ぎが出来なくなってしまったのなら、なんとも居心地が悪くなりそうだ。
その後の航海は順調だった。サイジョウからの連絡もそれっきりなかった。ちゃんと生きているのだろうか。
俺は木星軌道への中間地点で別の密輸船に積荷を移し替え、対価を受け取った。幸運にもこれといった危険には出会わなかった。おにぎりの
そうして一息ついて、ビールを片手に船の小さな窓から宇宙空間を眺めた。それは無機質な機体に入り込んだ時空の割れ目のように見えた。星たちがぼんやりと輝いている――
――〈文明の墓標〉が貴、
方を見、 てィ
ふいに、どこかから、いつかの少女の言葉が聞こえた気がした。俺ははっとして背後を振り返った。
誰もいない。
散らかった船室がいつものように薄明かりに沈んでいた。
あの出来事はとっくに忘れたはずだったのに、気分が悪い。ビールの入ったグラスをテーブルに置き、目をじっと閉じた。しばらくそうしていた。
動きやすい服装に着替え、船内を走ることにした。ちょっとしたランニングが出来るのも重力のいいところだ。
船のリングを何周もしているうちに汗が噴き出てくる。へとへとになって、船の熱いシャワーを浴びた。思いのほか気分が良くなった。
そうして虚空を旅していると、あの港の常連から気になる話を聞いた。ババが帝国の当局に逮捕され、地球にまで連行されたというのだ。
は? ババが逮捕?
詳細は何も分からなかったが、ちょっと信じられなかった。そもそもババは、おにぎりを配っているだけのただの婆さんなんだから、当局がわざわざ逮捕するような価値あるとは全く思えなかった。ましてや、こんな辺境からわざわざ地球に連行するなど、まるで重罪人のような扱いだ。
どういうことだ?
デマの類だろうと思った。こんな辺境の密輸商人の間で飛び交う情報の正確さなど、たかが知れている。ただ、少なくとも、ババが現れなかったというサイジョウの話との辻褄は合っていた。
そのとき俺はちょうど港へと向かっているところだった。しかし妙な不安を覚えた。このままあの港に戻ったら、俺にも何かの危険が及ぶような気がした。とは言っても、何か根拠があるわけではない。まあ単なる思い過ごしだろう。事実を整理すれば、ただ港から名もない老婆が消えたということに過ぎない。それが自分と何か関係があるとは、考えにくかった。
しかし、こういう勘も、この世界で生きていく上では重要なことだと俺は思っている。
航路を変更することにした。これといった当てがあったわけではないが、デッキでぼんやりと航路図を眺めているうち、エウロパに行くことに決めた。そこには昔馴染みがいるからだ。――まだいれば、の話だが。
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