K-1:: サファイアの少女
「バカな犬が吠えてるものは?」
「トーテムポール」
「アライグマが欲しがるものは?」
「義足と義眼」
「はじめて人を殺したのはいつ?」
「……十九歳」
この意味不明な問答に答え終えると、俺は少しわざとらしく肩をすくめて見せた。一方のババはしばらく俺をじっと見つめてから、
「いいよ、合格」
と、怒ったような不機嫌な表情のまま言う。会うたびにその顔は皺に埋もれて小さくなっているような気がする。猫背はますますひどくなり、白髪は以前にもまして乱れ放題だ。しかし眼光だけは妙に鋭い。目以外はいまにも死にそうな風貌をしているのに。
ババにおにぎりをもらうときは、必ずこの意味不明な問答をしなきゃならない。合言葉のようなものだ。俺はまだティーンエイジャーだった頃に、兄貴分だった密輸商人からこの答えを教わった。
でも、答えを間違えたり知らなかったりしたからといって、おにぎりをくれないわけじゃない。ただ、ババがその不機嫌な顔を、さらに不機嫌にするというだけだ。
質問も、答えも、いつも同じだ。しかしその意味は誰にも分からない。俺たちはババが決めた答えをするだけだ。そもそも俺はトーテムポールとやらが何なのか想像もできない。ババが一体何のためにこんなことをやっているのかは、もっと想像がつかない。
彼女はしわがれた声で訊く。
「で、今回はどこまで行くの」
「遠出はしないさ」
俺はそっけなく、簡潔に答えた。
「そうか、ならいい」
ババはそう言って、懐からおにぎりを取り出した。何が「ならいい」のかはよく分からない。
俺は立ち上がり、恭しくおにぎりを受け取った。俺の掌に触れたババの指は、ますます骨と皮だけになって枯れた木の枝みたいだ。
受け取った――自分の拳よりも大きな――白い塊に、おもむろにかじりついた。頬張ってモグモグする。そして目をつぶって飲み込んだ。
不味い。のどが詰まりそうだ。塩が効きすぎていて、辛い。
一口食べただけで口の中がカラカラになったような気がする。
それを三回ほど繰り返し、その大きなおにぎりを食べ終えた。
その間、ババはいつものしかめっ面で、おにぎりを食べる俺を見ていた。妙な光が宿っているその目に見られると少し居心地が悪い。そもそも食事を他人にじっと見られるのは気持ちのいいことじゃないからな。
ともあれ、いつものことだ。これで験担ぎの儀式は完了だ。急いで手元にあったビールをごくごくと飲み、おにぎりの後味を洗い流した。そうして一息ついてババの顔を改めて見て、「ありがとな」と言う。
ババは、ふん、と鼻息をたてた。
いつもババは床から五十センチくらいのところに浮かんだ車椅子のようなものに乗っている。その浮遊式車椅子は静かに回転し、彼女は背中を向ける。そして滑るように動き出し、スーっと去って行く。俺はその小さな猫背と乱れた白髪を見送っている。ゴウン、という機械音とともに、ババを送り出した扉が閉まる。それは俺のいるドックに不協和音のようなこだまを残した。
俺はドックの中で一人になった。
ババとの邂逅はいつもこんな感じだ。意味が分からなくて、とげとげしていて、とても簡潔で、拍子抜けするくらいあっさりしている。
ババは何のためにこんな場所で、おにぎりを配り歩いたりしているのだろう。深い理由はないのかもしれない。彼女もまた、単に他に行き場がない無数の人々の一人に過ぎないのだろうか。
ババがここに来る前にどこで何をしていたかは、誰も知らない。
この
聞くところによると、ババがここに住みついてからというもの、もう三十年も、一日も欠かさず続いているらしい。俺が生まれる前からってことだ。
ババは誰にでも隔てなくおにぎりを渡す。俺のような密輸商人だろうと、賄賂まみれの
ババは寝ていないときは必ず自分の手でおにぎりを渡す(昼夜の概念がないこんなところでも、彼女は規則正しく二十四時間周期で行動しているんだ)。寝ているときは、使いっ走りのガキに渡させる。ここには身寄りのないガキどもが何人か住みついているからな。
場違いな連中だけでなく、新参の密輸商人が怪しんでおにぎりを受け取らないことも多い。ババの背中に罵倒の言葉を浴びせる連中だっている。でも、ババは表情一つ変えずに普段通りのしかめっ面をしたまま、ふいと行ってしまうだけだ。
たしかに、薄汚い老婆が握った薄汚い米の塊なんて、普通に考えれば何の価値もないだろう。毒が入っているかもしれない。変な細菌に感染するかもしれない。あるいはもっと悪いのは、米粒に混じって小さな
でも、そうじゃない。古参の連中はみな分かっている。これは験担ぎなんだ。
噂によると、ババからおにぎりを受け取らなかった奴は、ほどなく積荷を全部盗まれたり、うっかりピサロの縄張りの外でヤバいことをしちまって帝国の
ババはそのおにぎりを全部自分の手で握っているらしい。とはいっても、この港から一日に出港する船の数は多くて五十ってところだから、驚くほど面倒なことではない。驚くべきことは他にあって、それは、そのおにぎりが本物の米で出来ているらしいってことだ。つまり、植物だぜ。何か地面から生えている植物の実なんだ。実だったかな。種かもしれない。まあそんなことはどうでもいい。本物の植物を食べるなんて、この辺じゃ滅多にないことだ。
もっとも、それが美味いかどうかは別問題だ。生まれたときから
その日も俺は自分の
ドックと呼ばれているものはガランとした巨大な直方体の空間で、いくつかの扉を通して港の外側に停泊している宇宙船と接続している。今ここにつながっているのは俺の船だけで、ドックの中にあるのは俺の荷物と俺のドロイドと、それから俺だけだ。ドロイド達が作業を終えるまでは、もう少し時間がある。
ドックを出て、この港に一つしかない食堂へ向かった。
薄暗くて、決して清潔とは言えない小さな食堂だ。いつも化学物質と生ゴミの混ざったような得体の知れない臭いが漂っている。おまけに今日は床に妙な液体が溜まっていて、歩くたびにビチャビチャして不愉快極まりない。ただの水ならいいのだが、そうではない気がする。到底、まともな食事をするための環境とは言い難い。
調理場にいるのは一体のドロイドだけで、メニューは一種類しかない。どぎつい色をしたゼリーのような安物の
常連のサイジョウが一人で飯を食っているのを見つけて声をかけた。似たような商売をしている腐れ縁だ。彼はいつも派手でくだけた格好をしていて、俺より少しだけ年上だが全くそうは見えない。お互いに敬語を使うこともない。
「よう、サイジョウじゃないか。一年ぶりか?」
「おー、久しぶり! うん、それくらいぶりだ。あの猫みたいな
「あいつとは別れたよ、とっくに。それ、何年前の話だよ」
「そうか、そういや、そうだ。忘れてたよ。ごめん、ごめん」
一年に一度会うかどうかの仲なので、こんなものだ。まあ俺の方では、こいつの兄貴の話とかも覚えてるがな。とにかく、少し気まずくなった空気を振り払うように、俺はテーブルの上に腰かけてビールを一本開ける。そして周囲を見回しながら言った。
「相変わらず、汚ねぇ食堂だな。病気にでもなりそうだぜ」
「臭いしね。ババさんのおにぎり、もうもらった?」
「ああ、さっき来たよ。いつも通りだった。相変わらず元気そうな婆さんだ。お前のところはまだか?」
「俺はまだ。早くもらっときたいな。験担ぎだから」
「験担ぎねぇ。ま、信じるも八卦、信じぬも八卦ってやつだな。そもそも、あのおにぎりも、食べたら病気になりそうな代物だから普通なら絶対食べないけどな」
「そうだ、病気といえばさ、バベル病って聞いたことある?」
「あ?」
どうした、急に。話変わりすぎだろう。そのままビールを一口飲んで答える。
「ないな。バベル病? 何だそれ?」
「ないなら、いいよ」
「何だよ。気になるじゃねぇか」
「大丈夫、知らなくていい。でも、変な言葉には、答えないように、気を付けて、ね」
「……おう?」
何言ってんだ? こいつは、こんな奴だったっけ? 俺は少しだけ、気味が悪くなった。でもそれ以上は聞かないことにした。
気が付くと、一本目のビールを飲み干していた。
ちょうどいいタイミングだ。
「じゃ、サイジョウ。またどこかで。またすげぇ儲け話、待ってるぜ」
と言って立ち上がった。これは社交辞令ではない。彼は何年か前にかなりいい儲け話を持ってきてくれたことがあるんだ。
残り一本となったビールを持って食堂を後にすると、サイジョウはいつものように気さくに手を振ってくれた。
この
この宇宙港には、名前がない。正確にはあるのかもしれないが、誰もその名では呼ばない。みんな、ここのことを、ただ
真っ当な連中は寄り付かない場所。この辺りでは
ドックに戻ると、ドロイド達はまだ作業を続けていた。無機質な扉を開けてがらんとしたドックに入る。相変わらず、誰もいない。背後でゴウンという音がして扉が閉まる。
そのとき、ふと、誰かの視線を感じた気がした。
どこからかは、分からない。しかし誰かがこちらを見ている気がした。
一瞬、またババが来たのかなと思った。しかしそんなはずはない。辺りを見回しても、もちろん誰もいない。俺が常時作動させているセキュリティ・システムも、何も反応していない。気のせいだろうか?
ドロイドたちが作業する音の他には、どこか遠くからいつものように不規則な機械音がこだましているだけだった。
何者かが光学迷彩を使って身を隠している可能性はある。俺は改めてセキュリティ・システムをチェックする。どんな光学迷彩でも音は隠せないからな。しかしやはり、俺とドロイドたち以外に、不審な反応はないようだった。
そもそも、そうやって姿を隠している奴の視線を感じることなんて、ありえないはずだ。俺は本来、得体の知れない視線などというものを気にする
少し妙な気分になった。
俺はドックの片隅にある薄汚れた金属製の椅子に腰かけて、ビールを開けた。
しかし、一口だけ飲んで、ボトルを置く。
やはり、気のせいではない。
誰かがいる。
薄暗いドックの中を見渡した。
このドックには、俺の立っている床から十五メートルくらいの高さのところに狭い通路があり、壁面に沿って四方をぐるりと一周している。
ふいに、その通路のとりわけ暗い一角に、人影のようなものが見えた気がした。
気のせいか? 最初はそう思った。
しかし目を凝らすと、そいつはたしかにそこにいて、うっすらとした光を放ってさえいるように見える。
――なんだ、こいつは。人間か? どうしてさっきは、反応がなかったんだ?
いずれにせよ、視線の主に違いない――そう直感した。
その奇妙な人影は、徐々にその輪郭をはっきりさせてきたように見えた。女のようだった。淡く光を放っているように見えたのは、その長く明るい色の髪が周囲の光を反射しているからのようだ。
まさかこいつは、ずっとここにいて、こっちを見下ろしていたのか?
俺は椅子から立ち上がり、その女を見上げ、睨みつけた。
「誰だ、おまえ。そこで何をしてる?」
〈ウェブ〉に接続し、そいつをスキャンする。同時に、戦闘型ドロイドのうち一体に無言で指示を出し、女に狙いを定めようとした。そいつが少しでも不審な動きをしたら、すぐに撃つためだ。
〈ウェブ〉はなかなかスキャン結果を返さない。まあこんな辺境で〈ウェブ〉にちゃんと接続できるなんて期待していないから、仕方ない。だが、それだけでなく、俺のドロイドもロックオンに失敗したようだ。これは少し妙だ。どうなってる?
俺は、自分の銃に手をかけた。目視でなら、撃てるはずだ。
しかし女は、そんなことなどお構いなしといった調子で、口を開いた。
「どうやって気が付いたの、私のこと」
拍子抜けするほど甲高い、そして冷たい声だった。
「見ない顔だな。そんな目立つ髪して、気づかれないと思ったのか? お前のことは肉眼ではっきり見えてるぜ」
すると女は即座に、
「だって、この宇宙では、誰も眼なんて頼りにしないでしょ」
冷たく澄んだ声がドックに広がり吸い込まれて消えた。
女の表情は確認できなかった。
「それで、お前は誰だ? ハーブは持ってるか?」
ハーブとは、ピサロが出している通行手形の通称だ。ここでハーブを持っていない奴が不審な行動をしていたら、消されて当然だ。
「それを答えたら、あなたは私を撃たないの?」
また拍子抜けするほど甲高く、冷たい声。
「それは俺が決めることだ」
「なら、答えない」
ここで撃つべきだったのかもしれない。
しかし、俺は躊躇した。
すると女は、足元の通路を、トンと蹴った。そして軽快な所作でそこから飛び降り、十五メートルも下にあるドックの床に、ゆっくりと着地した。ここは重力が弱いから、それはふわふわした不思議な動きだった。
その姿がはっきりと見えた。
女、というより少女だった。
膝まであるほどの長さの――ほっそりした身体に不釣り合いな――豊かな髪が異様な光を放ち、黄金色に輝いていた。まるでドックの中の光の全てをそこに集約し、そして解き放っているかのようだった。
その髪には何らかの蛍光色素が含まれているように見えた。明らかに自然のものではない。こいつがどこの誰かは知らないが、きっとくだらない親が卵子やら精子やらの時点で遺伝子操作をやったのだろう。珍しいことじゃない。自分の子供に気味の悪い遺伝子を組み込んで商品価値を上げようとする親は多いんだ――
少女は、またふわふわと、こちらに歩いて――というより不思議なステップで跳んで――来る。一歩を踏み出すたびに、黄金色の髪が揺れ、ドッグの薄明かりの中で美しく輝いた。
そして瞬く間に、俺の目の前、五十センチくらいのところまで来て、不自然なまでに滑らかに立ち止まった。
この港の不安定な重力のもとでは、それはどこか現実離れした動きだった。
俺は全くどうかしていて、銃に手をかけていたのに、ただ少女を眺めていることしか出来なかった。
その身長は俺より頭一つ低い。顔は雪のように白く、瞳はサファイアのように青く輝いていた。
そいつは何かを言いたげな瞳で、俺の顔をぐっと見上げていた。
俺は撃てなかった。
少女は美しかった。その真っ白な肌は一点の曇りもないほど澄みきっていた。もしその頬に触れたら、指先は凍りつき、そしてその氷は全身に広がって、俺を閉じ込めてしまうのではないかと思えた。
少女は何も言わず、サファイアの瞳でじっと俺を見ていた。
俺も少女の瞳を見つめ返した。
その瞳は、どこまでも向こうまで青く続いていた。
それは、あの冬の朝だった。
唯一の地球での記憶だ。
三歳くらいだったのだろう。俺は誰か――生みの親だったのかもしれないし、あるいは人買いなのかもしれなかった――に連れられて、小さな池のほとりまで歩いて行った。しんとした静けさが世界を包んでいた。空は不自然なほどに青く、雪は降っていなかった。手袋はなく、俺はかじかんだ手でその誰かの服の裾をそっとつかんでいた。その人の顔は逆光でよく見えない。
池の表面は美しい氷で覆われていた。
俺は足元の石を拾い、細い腕で池へと投げた。
石はコツンという音をたてて落ち、池の表面を転がった。
氷は割れなかった。
俺は少女の瞳を見つめたまま、動けなかった。少女も俺をじっと見つめたまま、動かない。
どのくらい時間が経っただろう。少女は黄金色の髪を少しだけ揺らしてゆっくりと息を吸った。
そして澄んだ冷たさを残したまま、にわかに微笑み、ささやくような、消え入るような声で言った。
「〈文明の墓標〉が貴方を見ている。きっと世界は、もうすぐ終わるわ」
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