第3巻「キミと過ごす夏、終わらないで」

プロローグ

 その日も、いつものように我が家に結愛ゆあがいた。

 クーラーが効いたリビングにある二人がけのソファで、俺の左隣に腰掛けている。


慎治しんじ~、ここ触られたらどんな感じする?」


 結愛が、俺のとある部位をつんつん突いた。


「何も感じない」


 当たり前だ。

 結愛が指で突いた場所は俺の左腕で、ギプスでガッチリ固定されているのだから。


 この前、ちょっとした出来事のせいで、俺は左腕の骨にヒビを入れてしまった。

 夏休みに入る直前からギプス生活を強いられていたものの、指は動かせるし、腕自体も安静にしていれば痛みもないから、そう深刻な状態ではなかった。


 結愛が名雲なぐも家に住み込んでいるのは、そんな俺のサポートをするため。


 俺の腕の怪我を、結愛は自分の責任と感じていて、家でも学校でも親身になって助けてくれていたから、申し訳ない気分になることもあったのだが……。


「へぇ~、なにも感じないんだ?」


 にや~っ、と、結愛が笑みを見せる。

 マズい、これ、悪巧みをしている時の顔だ。


「じゃあこっち触っちゃっても大丈夫だよね~?」

「そこにギプスはないでしょうが!」


 腿に触れようとする結愛を回避するべく、俺はソファから飛び退いた。


「油断も隙もないヤツだ!」

「ちょっと触ろうとしただけじゃん」

「男女逆だからって平気でセクハラしていいわけじゃないんだぞ?」

「慎治、考えすぎじゃない?」


 俺が反応すると、結愛はますます楽しそうにする。


「腿触られて~、なんか困ることあるの?」


 結愛は首を傾けながら、俺の顔を覗き込んでくる。

 こいつめ、俺の口から言わせようってわけか。


 まあ、結愛が俺いじりを始めるのは今更だから、腹が立ったり不快になったりすることはないけどな。結愛がいいヤツだってことは、もうわかっている。


 正直なところ、結愛の手助けはありがたかった。

 左腕は利き腕ではないとはいえ、これまでと違う生活を強いられると不便なことが多いからな。


 けどなぁ。結愛の新たないじりのバリエーションにするのはやめてほしいかもしれない。


 不快なわけじゃなくて、なんかほら、照れくさいんだよ……。


「……いいから、腿に触るのはやめてくれ。代わりに指先ならいいから」

「えー、マジで?」


 俺が、右の人差し指を差し出すと、結愛は瞳を輝かせて握りに来た。

 なんだか俺が想像した握り方と違う気がするけど。擦り上げようとするな。


「ていうか結愛、まだ家に戻らないの?」


 夏休みが始まってからというもの、結愛は紡希の部屋で寝泊まりしている。空き部屋はたくさんあるのだからそっち使え、と言っているのだが、結愛は譲らなかった。


 元々、結愛が一人暮らしをしているのは、結愛なりに強い決意があってのことだ。


 その決意を曲げてまで、俺のサポートのために名雲家にいてくれているのだから、俺からは強くは言えないし、そもそも紡希が結愛と一緒に暮らせて大喜びだから、もはや俺に発言権はなかった。


「だからぁ、慎治の腕が治るまでここにいてあげるって言ってるじゃん」


 結愛は、俺の肩に自らの肩をそっと寄せて密着してくる。判断力が鈍りそうだ。


「俺の腕もだいぶ良くなってるんだから、もう気にすることないぞ。あんまり世話になるのも悪いしな」

「シンにぃ、どうして結愛さんに家に帰っちゃうように言うの?」


 声は、俺の向かいから聞こえた。


 俺の前方には、一人がけのソファに座っている紡希つむぎがいて、俺たちの様子をニコニコしながら観察していたのだが、ここに来て急に表情が曇った。


「せっかくだし、ずっとここで暮らしてもらえばいいのに」

「そういうわけにもいかんだろ」


 結愛が一人暮らしをしているのは、重大な事情があるのだが……紡希は知らないんだよな。いや、知らなくてもいいことだ。


「慎治の怪我が治らなかったら、一生ここにいられるんだけどな~」

「急にヤンデレ要素を出すんじゃない」

「冗談だよ。慎治には早く良くなってほしいし……それに……」

「いい、わかったから」


 結愛が言いかけるのを止めるように、俺は言った。

 落ち込んだ顔をしてほしくなかった。


 陽キャで知られる結愛が、決して明るい面ばかり抱えているわけではないことを、俺はもう知っている。この場にいる時くらいは、悩むよりは笑うなり俺をいじるなりして、自然体で過ごしてほしかったのだ。


「俺としては、結愛を使役するのにもだいぶ慣れてきたところがあるからな」


 照れくさいあまり、俺はついついそんなことを言ってしまう。まあ結愛に助けられ慣れてきているのは本当のことで、このままでは俺は自立していない存在になってしまいそうだ。


「あっ、シンにぃったら問題発言なんだ」


 冷蔵庫からアイスクリームを引っ張り出して戻ってきた紡希が言う。


「へー、慎治、私を使い慣れてきたんだ?」


 語弊を招く言い方をしてくる結愛は、いつの間にか向かいのソファに移動していて、肘掛けの位置に座って紡希からアイスを一口もらっていた。仲良いな。


「わかったわかった、言葉の綾だよ。……正直まだ本調子には戻りそうにないし、結愛がうちにいてくれるのは助かるから、ありがたいよ」


 俺のことはともかく、紡希が喜ぶし、結愛が紡希のためにしてやれることも多いからな。


「ありがとうが言えるようになったんだから、慎治も変わってきたよね」

「結愛さんのおかげだよね。やっぱり『彼女』の力はすごいんだね」


 ありがたいよねー、って言っただけで絶賛の嵐かよ。俺は普段どれだけ感謝の気持ちを忘れた偏屈野郎だと思われてきたんだ……?


「あっ、でもどうしよう」


 紡希が、手元のアイスを落としそうになった。


「お盆になったら、結愛さんは?」


 名雲家の予定では、お盆に彩夏さんの墓参りに行くことになっていた。

 彩夏さんが亡くなってから初めて迎えるお盆なので、俺は紡希が落ち込まないか心配しているのだが、こうして自分から話題にできるあたり今のところは大丈夫そうだ。


「お盆? そっか、紡希ちゃんは……」


 結愛も紡希の事情は知っているから、しんみりとした表情をする。


「心配しなくても、その時結愛は自分の家に戻ればいいだけだろ。墓参りったって、すぐ近くなんだし、日帰りで十分なんだから」


 湿っぽい空気にはしたくなくて、俺は言った。


 彩夏さんのお墓は、紡希が以前住んでいた町の近くにあるから、日帰りで十分な距離だ。結愛が一人ぼっちになることを心配するほど長く家を空けることはないのだが、紡希は気にしているらしい。なんて優しい子なのだろう。


「でも、シンにぃの腕はどうするの?」


 なんと、紡希は俺の腕のことまで心配してくれる。


「平気だ。その頃にはもうだいぶ治ってるだろうしな。上手く行けばギプスだって外れてるかもしれないし」


 だから不安そうな顔をするな。俺は紡希の優しい気持ちだけでありがたいんだから。


「なんだったら、紡希が俺のサポートをしてくれちゃってもいいんだぞ?」

「ダメだよ、そういうのは結愛さんにやってもらわないと。怪我をいいことに結愛さんにえっちなお願いできなくなるじゃん!」

「俺、そんなことするイメージある?」


 紡希は俺をどういう目で見ているのだろう? 俺ほど健全な男子はいないんだけどなぁ。結愛と2度もお泊りしたのに性的な接触は皆無だったしさ。いやこれはこれで問題か?


「まー、慎治からえっちなお願いされちゃうのも魅力的だけどさー」


 魅力的とか言うな。勘違いしそうになるから……。


「慎治と紡希ちゃんがお盆でいなくなる時は、私も、実家にちょっと戻るから。私のことは気にしないでいいよ」


 紡希はピンと来ていない感じだが、俺は多少ピリついてしまった。


 結愛の実家。

 結愛はこの夏の間、不仲な両親のところへ戻るつもりらしい。


 気にしないで、と言われたって無理だ。


「そうか、実家……帰る気なのか」


 それとなく俺は訊ねてみる。紡希の前で、結愛の両親の話をしたくなかった。


「そりゃたまには私だって、元気なことを報告しに行くくらいのことはするよ」


 穏やかな笑みを浮かべて、結愛が言った。

 結愛は、両親とは不仲だ。こんな表情をして、元気なことを報告しに行く相手としてはそぐわないように思えた。


「……大事な人のお墓参りには、ちゃんと行きたいからね」


 そんな結愛の口ぶりから、両親に会うのではなく、祖父母のお墓参りが目的なのだろう、と見当をつけた。

 穏やかさと、いくらかの寂しさが混じった表情から察するに、祖父母には気を許していたのだろう。


「だから、安心して兄妹水入らずで行って来てよ。仲良くお出かけできるなんて最高じゃん」


 あっ、慎治のお父さんも一緒に行くんだっけ? と結愛は微笑むのだが、一瞬だけ寂しそうな顔をしたことを俺は見逃さなかった。


 そうだよな。置いてけぼりを食らった感は、どうしてもあるよな。


 もはや結愛は、名雲家の一員も同然だ。頻繁に我が家に来ていただけの春とは違って、今となっては名雲家で生活しているわけで、うちに対する愛着は強まっているだろうから。


 結愛も一緒に来いよ、とは言えなかった。

 あまり名雲家の問題を結愛に背負わせたくなかったのだ。


 結愛は結愛で、両親のことで悩んでいるのだ。頼り切りになったら疲弊してしまう。結愛は別に、完璧超人ではないのだから。


 結愛が無事に帰ってきたら、その時は俺と紡希で暖かく迎えてやろう。


 長くて短いようで、やっぱり短い夏休みが始まったばかりの頃、俺はそう思うのだった。

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