第54話 ヒールターンはブレイクの予兆 その2

 危機が訪れたのは、昼休みの時だ。


 俺はこの日、なんと教室で昼食を取ることになった。

 結愛の提案である。


 俺は自分の席に座っていて、その隣には、膝がこちらの椅子にくっつきかねない勢いで近くに座っている結愛がいた。


「名雲くん、本当にいいの?」

「箸は使えるんだよ」


 本当は片手でも食べられるようなおにぎりなんぞを持ってくるべきだったのだろうが、今朝、ご機嫌な結愛が俺用の弁当を用意してしまったので、こちらを食べるしかなくなった。こうなることを見越して用意したんじゃないかと思えるくらいだ。


「でもこういう時じゃないと、私が名雲くんに食べさせてあげることないかもしれないよ?」


 いや、こういう時じゃなくても食べさせて来ようとしてくるだろうが……。


 一応、俺にだけ聞こえるように言っているつもりなのだろうけれど、もはや声を潜めようが関係ないくらいクラスメートの注目はこちらに向いていた。まるで俺たちだけステージに立たされているみたいだ。


 いつものように、非常階段なり屋上へ行ったりしたっていいはずだった。俺は片腕は使えなくても、歩くことはできるのだから。これじゃ変な意味で目立ってしまうだけだ。


 結愛のことよりも周囲の視線を気にしていた、そんな時だった。


 流石に、この状況を目の当たりにすれば、いくらなんでも妙だと思う人間が出てくるのも当たり前だろう。


「――高良井さん、どうしてああまでするんだろう?」


 ふと、そんな言葉が、教室のどこかから聞こえた。


 男子のものか、女子のものかすらわからないくらい、ぽつりと浮かんで消えた言葉だったのだが、それは確実に教室内に波紋を起こした。


「そういえば……なんか、すっごく距離近くない?」

「利き手は使えるんだろ? なんであんな……」

「いくら人がいい高良井でも、あそこまでするのは変だよなぁ」


 納得がいかない、といった旨の言葉が、昼間の教室に溢れ、ざわざわとした雑音がいっぱいに広がる。


 飯の味がしなくなってきた。

 結愛が、教室内でも俺を手伝うと言い出した時点で、こうなるとは思っていたのだ。


 発言力のある陽キャが、浮かんだ疑問を胸の中にしまっておくだけにするなんて、無理な話だから。


 これまで、教室内の空気は、たとえいじりやすい陰キャでも怪我人ということを配慮して静観しよう、という流れになっていた。


 だが今では、一つの疑問をキッカケに、俺への疑問や不満を噴出させてもよい、とする空気へと切り替わってしまった。


 当然ながら、結愛は陽キャグループの一人である。

 だから、仲間に声を掛ける軽いノリで、結愛に話しかけに来る男子だっているわけだ。


「なあ高良井。今日はどうしたんだよ? ヤケに親切じゃん」


 陽キャグループの中でも、輪をかけてノリの軽い男子が結愛の席の前までやってくる。


 結愛からすれば、教室でよく話す相手として、勝手知ったる仲だ。黙ったままでいるはずもなく、男子の発言に特に気にする様子を見せるでもなく口を開く。


「親切もなにも、名雲くんは怪我してるんだもん。これくらい当たり前でしょ」


 主張を変えることのない結愛だった。


「そうかなー。オレ、去年足くじいてちょっとだけ松葉杖だった時あるけど、あの時は高良井、別に助けてくれなかったよな?」


 この口ぶりからして、去年も結愛とクラスメートだったのだろう。

 男子は、おそらく軽口を叩くように結愛に言ったのだろうが、本心では穏やかではないことが、その声音から感じられる。


 俺は、結愛が陽キャグループ内ではどんな態度でいるのか、詳しくは知らなかった。陽キャグループの連中と一緒にいたことはないからな。


 だが、俺が思っている以上に、俺のフォローをしてくれている結愛の姿は、仲間ですら不思議に思うくらい献身的な態度らしい。


「そんな優しくしてくれるなら、オレもまた怪我しちゃおっかな」


 陽キャ男子の意図通りかどうなのか知らないが、ともかくこいつをキッカケに、クラスメートの言葉から遠慮が消えた。


「まさか、付き合ってんじゃない?」

「名雲が? ないない」

「だよなぁ。オレ、あいつが勉強以外のことしてるの見たことないもん」

「全然恋愛のイメージとかないよな~」


 恐れていたことが起きてしまった。

 こういう時、クラスで交流がないと圧倒的に不利だ。


 教室で勉強しているだけの俺を理解しているヤツなんていないのだ。クラスメートからすれば、勉強するだけで他のクラスメートと関わろうとしない妙なヤツという印象しかないだろう。そこは俺の落ち度でもある。


 だが、教室内で起きたどんな反応よりも俺の目に留まってしまったのは、すぐ隣にいる結愛だった。


 うつむいているから俺にしかわからないのだが、教室中に響く声を浴びて、悲しい顔をしているように見えた。


 俺からすれば宿敵にして天敵でも、結愛からすれば普段仲良くしている大事な仲間だ。

 そんな仲間から、もはや浅い付き合いとはいえない俺を揶揄するようなことを言われれば、悲しい気持ちにだってなるだろう。


 このままだと、結愛の人間関係がギクシャクしてしまうかもしれない。

 不仲な両親から逃れるように一人暮らしをしている結愛にとって、たくさん友達がいる学校は、安心できる場所のはずだから。


 俺のせいで、大事な居場所を失わせるわけにはいかない。


 俺は、教室内で結愛と話すことで、クラスメートからどんな悪口を言われるのか、ずっと恐れていた。

 けれど今は……結愛のために、ここで何もできないまま座っている自分で居続けることの方がずっと恐ろしかった。


 親父に言われたように、今の俺のタイミングに合わせようとし続ける限り、俺はずっと今の自分以上にはなれないのだ。


「――俺は」


 俺は、立ち上がっていた。


 普段自己主張しないヤツの突然の行動に、教室内の視線が一気に集まる。あいにく、この日は教室で昼食を摂るクラスメートばかりで、空席はほとんどなかったため、向かってくる視線だけでとんでもない圧が掛かった。


 視線の端に、頭がピンク色をしたプオタの姿が目に留まる。

 桜咲は、バルコニーと教室を繋ぐ窓の桟に腰掛けて昼食にしていた。


 クラス内の陽キャで唯一静観を続けている桜咲を見て、名雲家にやってきた時の、親父グッズフル装備の姿を思い出す。


 親父なら、こんな時どうするだろう?


 そんな状況を想定して、突き詰めていくと、それまでの恐れはなんだったのだろうというくらい恐怖心が消えた。


 離婚スキャンダルでファンやメディアから散々叩かれ、笑いものにされ、リングに上がるたびにブーイングの嵐が起き、それまで築き上げてきた善玉レスラーとしての価値が地に落ちそうになった時、親父は、身に受ける悪意の全てを受け止めることに決めた。それすらも、『プロレスラー・名雲弘樹』の一部として取り込んでしまった。


 俺は親父とは違うから、同じようにはできないけれど、マネをすることはできる。

 ずっと近くで見てきたのだ。それを再現するだけの材料は揃っている。


 教室に一人突っ立っている自分を、ヒールとしてリングに立つ親父だと想定してみる。


 教室はリングの中が醸し出すような殺気はないし、クラスメートの態度はブーイングや野次よりずっと生ぬるい。


 ヒールとしてこの場にいると想定すると、なんとも物足りない空間に思えた。

 ブーイングや野次や嫌悪の感情を引っ張り出してこそのヒールなのだから。


 もちろん、ここはリングの中ではないから、煽るようなことはしないけれど、悪口や揶揄が飛んでこようが、むしろどんどん来いや、と開き直った気分になれた。


「俺は昨日、高良井さんに告白したんだ」


 いきなり何を言い出すんだ、という顔になるクラスメートたち。

 わかっていると思うが、俺は結愛に告白したことはない。


「そして、あっさりフラれた」


 フラれた事実はない。だって俺は、好きだ、と結愛に一度も言ったことがないのだから。


「ずっと好きで、片思いしていた子にフラれた俺は、そのショックを引きずったせいで階段から足を滑らせて」


 俺は、左腕のギプスに視線を向ける。


「怪我をしたんだ」


 本当の話だ。

 俺の話ではない、というだけで。


「高良井さんが親切にしてくれるのは、そんなバカな俺のために責任を感じてくれて、だから不自然なくらい世話焼いてくれるんだよ。それだけだ」


 教室内は、しんと静まり返っていた。

 この空間だけ、宇宙に放り込まれたみたいだ。


 クラスメートに、俺の言葉は届いているだろうか? と気になった時。


「ていうかさぁ、みんな騒ぎすぎじゃない?」


 静まり返った空気をガラッと変えるような声が響く。


 桜咲だった。


「なんか色々言ってくれちゃってるけどさー、みんなだって名雲くんが瑠海と話してるとこは見てるでしょ? うちらこれでも仲いいからね」


 桜咲は続ける。


「名雲くんは瑠海の大事な趣味パレハなんだよ。趣味パレハが怪我しちゃったんだから、瑠海の親友の結愛っちが名雲くんのこと心配しまくってあたりまえじゃん」


 パレハとは? という疑問を浮かべるクラスメートがちらほら現れるものの、桜咲の言いたいことは伝わったようだ。陽キャ類ギャル科の桜咲は、クラス内での発言力は強いからな。


 これまで桜咲は、終始周囲のざわつきに乗せられることなく静観していた。


 最初から桜咲のフォローがあれば、ここまで窮地に陥る事なくこの場を乗り切れたはずだ。なにせ、結愛の親友なのだから。一発でみんなを納得させられる。


 それでも最後の最後まで手助けをしなかったのは、俺を試していたからだろう。


 俺が結愛の『彼氏』として相応しいのか、ずっと査定を続けていたのだから。


 親友の結愛までも苦しい状況に追い込まれようとも、黙ってじっとしなければいけなかったのは、桜咲としても心苦しかったに違いない。


 結愛と桜咲の仲の良さは、クラスの人間なら周知の事実で、異を唱える者は誰もいなかった。ピリついていた空気が、一気に霧散していく。


 結局俺は、最後の最後で桜咲に助けられてしまった。


 だが、桜咲は不満そうにしておらず、満足そうな笑みが浮かんでいるように見えた。


 ある程度は俺を認めてくれた証だといいのだが。


「ねー、結愛っち。そうでしょ?」


 桜咲は、結愛に話を向ける。


「そうだよ、親友の友達は大事にしないとね」


 にっこりとした笑みを浮かべて、結愛が言う。

 まるで、それ以外の理由はないみたいに。


 けれど、それだけが理由ではないことは、机の下でそっと指を握ってくる左手の態度でわかってしまうのだった。

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