第7話 俺の教え子が手を出そうとしてくる その2

 結愛の隣に腰掛け、2人で同じ問題集を前にするかたちになる。


「こことここがー、特にわかんないんだよね~」


 結愛がこちらに身を乗り出したせいで、胸が俺の腕に当たる。


 結愛のせいで脳がどこかへ飛んでいきそうだったが、ここでのぼせるわけにはいかない。

 学生にとって、やっぱり勉強することは大事だと思うから。それは、今だけのことじゃないのだ。


「結愛、俺たちは1年生じゃなくて、もう2年生だ。進路のことも意識し始めないといけない。3年になったら、文理選択もあることだしな」


 うちの学校は、公立校のわりに教育熱心で、2年生の時点で進路希望の調査どころか、外部から識者を招いて熱心に進路指導をしてくれる。


「結愛は、進路はどうするつもりなんだ?」


 もし結愛が進学を考えているなら……俺は、自分の勉強時間を多少削ったっていい気になっていた。これまで散々世話になっていることだし、俺にできることがあるのなら、そうしたかったのだ。


「…………」


 結愛は思いの外真剣な顔になり、言い出そうかどうか迷っているようだった。

 てっきり、わかんなーい、とか呑気に言いながら腕にでも抱きついてくるのかと思ったのだが。


「一応、進学はするつもり」


 唇が鉛になったみたいに重く口を開いた結愛は、手元のシャーペンを指先でいじり始める。


「私、文系なら結構できるから、私立の大学に絞れば、そこそこのとこにだって入れるくらいにはなれるでしょ」


 結愛にとって理数系科目は、いわゆる「捨て」なのだろう。私立大学の文系を受けるのなら、理数系の科目を勉強する必要なんてないからな。留年しないように、赤点にならないように気をつければいいだけだ。これまで赤点だけは回避しているようだから、結愛は始めから私立文系に狙いを定めていて、決して進路を何も考えていないわけではなかったのだ。


 一応の将来の設計図を構築していた結愛だが、その表情は明るくはなかった。


「でもねー、うちがどうなるかわからないし」


 憂鬱そうな結愛は、シャーペンを無意味にノックする。


「私、なんか親に頼らないで1人で全部やっちゃってます感出してるけど、学校の費用とか、家賃とか、その辺は私じゃなくて親が出してるし。進学したかったら、たぶん私立のお金がかかるとこでも学費は出してもらえる」

「それは……しょうがないだろ。高校生なんだから。できることとできないことに、限度がある」


 10代で、完全に誰にも頼らずにやっていくのは無理だ。同じく10代で、紡希を抱えたまま実家を飛び出した彩夏さんですら、最低限の生活の面倒は親父の援助に頼っていたみたいだし。

 どうあがいても経済力がない。だから大人に頼るしかないのが、未成年の限界だった。


「まあ、そういう学費の心配がないのも、うちの両親がちゃんと『親』やってないとダメだからね。これからも同じかどうかはわからないから」


 結愛の進路は、たとえ結愛は将来を見据えて行動していたとしても、本人とは関係のところでグラグラと不安定なものになってしまっているようだ。


 気楽に生きているようで、いつでも不安定な場所に立たされているのが高良井結愛なのだと、改めて感じる。


 だとしたら、俺もやり方を変えなければ。


「結愛、さっきの問題どこだったっけ? もう1回教える……いや、『わかった』って言うまで教えるから」


 俺にできることなんて、そう多くはない。

 家族のかたちが特殊だろうが、結局俺には親父がいるから、結愛みたいに自力で立たざるを得ない立場にはないし、金にだって困っていない。とっても可愛い義妹と同居だってしている。どう考えても恵まれた立場だ。


 だからせめて、結愛が甘えたい時は、恥ずかしがって逃げるようなことはせずにきっちり受け止められたら、と思った。


「えっ、マジで?」


 さっきまでのシリアスモードはなんだったの、と言いたくなるような明るい顔をした結愛が抱きついて……いや、スピアーのごとき勢いで俺の腹部に肩を当てて押し倒してきた。


「そっかぁ。慎治ったら優しいんだから」


 結愛の尻が、俺の腹部を制圧した。こうなったらもう俺は動けない。

 いったい結愛は何をするつもりなんだ? と思っていると、結愛は机に乗せていた問題集を、俺の胸の上へと移動させた。


「私が、『わかった』って言うまで付き合ってくれるんだよねー?」


 煽り視点でニヤつく結愛は、なんとまあ俺の胸を机代わりにしてペンを走らせ始めた。ノートを下敷き代わりにしているおかげで、ペン先に引っかかれることはなかったのだが、くすぐったさはあった。


 ペン先でくすぐられる程度ならいいのだが、筆記する都合上身をかがめたせいで、結愛の長い髪の毛先がちろちろ俺の腕に当たるわ、重力に引っ張られた胸元が眼前に大パノラマとして広がるわ、特殊な環境下の刺激が強すぎてうっかり昇天しそうになる。結愛が尻を乗せているのが腹で助かったよ。


「『わかった』って言うまで、このまま解かせてね」


 確実に楽しんでいる顔で、結愛が言う。これ、絶対『わかった』なんて言わないやつだ。


 結局、結愛は、「この姿勢でやるの腰痛すぎなんだけど」などとちょっと考えれば当たり前にわかることを言って俺から離れたので、長くは続かなかった。


 自分の勉強に専念できる安心感と同時に、どういうわけか寂しさを感じてしまう俺だった。

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