第2話 とにかく来てほしい

「バート部長、ケント語が出来る翻訳士を1人頼む!」


体格の良い長身の男が翻訳部に駆け込んできた。漆黒の髪は乱れ、鋭い褐色の瞳が翻訳部部長のバートを見据えている。


「はあ、ケント国がまたなにかしましたか」


どこか面白そうな表情をしてバート部長が聞いた。



いきなり入ってきたこの男の名前はイアン。このシュタイン帝国の侯爵家の長男で、副外務大臣として働いている。帝国学院を優秀な成績で出ており、名ばかりの外務大臣の代わりに、実質的に対外国への対応や実務をこなしていた。


ただし、忙しいとはいえ、戦争ばかりしていた先王の時代とは異なり、今ではこの大陸にあるほとんどの国とは友好的な関係である。緊迫するような出来事もほぼない。ただ、隣のケント王国を除いては。


「ったく、あの国はどうなっているんだ。とにかく、ここにケント語が出来る翻訳家がいるそうだな、彼をしばらく借りたい」


イアンはそう言って翻訳課の部屋をぐるりと見渡した。20人ほどが働いているその部屋で、文官達が先程からこのやり取りを静かに見守っていたが、イアンの言葉に、ある1人の人物に視線を移した。


文官達が注目する先には、透き通るかと思うような銀色の長い髪を一括にした小柄な青年が、我関せずとばかりに書類に書き込みをしていた。見た感じ、少々幼い感じもするが、ラベンダー色の瞳がやけに印象的だ。


イアンは意味もなく「見つけた」と思った。


「ああ、彼か。バート部長、3日、いや2日でいいんだ」

「ううーん、、、彼、ね。まあ、良いでしょう。シーア!」

「え、私ですか?部長、今やっている仕事が、、、」


ぱっと顔を上げて、その青年は言った。しかし、イアンは


「シーアと言ったか。時間がないんだ。とりあえず、すぐに来てくれ」


と言って、青年のところまでつかつかと歩いていった。そして唖然としている青年の腕を引っ張るようにして掴み、部屋から連れ出そうとした。


「!!!ちょっと、仕事がっ、あの!!バート部長〜〜〜」


引きずられるように出ていく青年は助けを求めたが、バートは


「こちらのことは気にしなくて良い。頑張れ!」


と手をひらひらと振りながら送り出されたのであった。







シーアは女である。


別に男装しているつもりもないし、肩肘張って男に張り合うつもりもない。

しかし、多少コンプレックスのあるささやかな胸は、分厚い上着によって全く目立っていないし、好んでズボンを履いている。


以前いた国では、労働者としての女性がズボンを履くのは珍しくなかった。しかし、このシュタイン帝国では、女性がズボンを履く習慣がまったくないので、顔や体つきがどうであれ先入観で「男」として見られるのだ。髪を伸ばしている男性が珍しくないのも一因といえよう。必要ないので化粧もしていないし、さらにいえば地声も低い。


シーアはどう見られようと気にしなかった。というのも、ある事情から、もう男なんてうんざりだったから。この国で働きだして半年、男性でも悪い人ばかりじゃないと分かってきたが、今は恋人を作ろうなんて思いもしない。


とはいえ、それはシーアの事情を知っているバート部長の下にいたから、安心していられたのだ。


この、勝手に男と決めつけてきた、まるで軍人のように威圧的なイアンと、たとえ1日でも一緒に働ける気はしない。


「ちょっとまってください、イアン様」


腕をむんずと掴まれ、さながら連行されるような格好であるシーアは、ぐんぐん歩く長身な男に向かって叫ぶことしかできない。


「待たない、本当に大変なんだ、何年もかけて準備してきた取引が、いまさら中止になりそうでな、すぐにでも対策を立てないと困ったことになる」


ケント王国なんかに関わりたくないんですけど!?

シーアは久しぶりに胃がキリキリ痛むのを感じた。



「君はケント語の文書作成もいけるよな」

「え、ええ、できますが、、、」

「本当にアイツらときたら、ここ最近まともな外交ひとつしやがらねえ。約束したはずの条約を破るわ、返事は遅いわ、担当者はどんどん変わるわ。今度の会合も軽くキャンセルしやがって。」


ケント語はもちろん分かる。むしろネイティブである。だってシーアは半年前までケント王国にいたのだから。しかも政治の中枢にいたといっても過言ではないから。


いまだに良い人材が集まらないのだろう。何しろ、国王や王太子の機嫌ひとつでごますりが出世したり、心ある優秀な者が首になったりする。そしてシーアも王太子の機嫌を損ねた一人だ。まあ、今となっては縁を切られて感謝しているけど。


とはいえ、、ここに来てケント王国の仕事をするなんて。

突然の仕事と、忘れたい母国への想いに、複雑な想いのシーアであった。

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