第3話 正体不明の少女(3)
少女が立ち上がってトイレに向かった直後、男は冷蔵庫を開けて冷やしておいたお茶を取り出し、透明なグラスに注いだ。
用を済ませた少女はリビングに戻ると、自分の座っていた席に飲み物が用意されている事に気が付く。今朝まで行き場も無く、公園の水道水で喉の渇きを潤していた少女は、男の気遣いに頬を緩ませながら椅子に腰掛けた。
「お茶まで頂いちゃって、本当にありがとうございます」
「いや、気が回らなくてすまなかった。客を呼ぶのも久しぶりでな」
「ごめんなさい。ご迷惑ばかりお掛けしてしまい……」
「とりあえず君の身柄について確定させないと、何も出来ないからな。その足についてなんだけど、君には全て視認出来ているのか?」
「はい。私にはつま先まで見えてます」
「そうなると、他の人には全身がそんな風に認識出来ないわけか」
「浮いてるみたいに見えますか?」
「ちょうどそんな感じだ」
男からの意見を聞き、口を軽く尖らせて考える様子を見せた少女は、おもむろに席を立つ。そのまま床に座り込んだかと思えば、両足を前方に伸ばして、男の顔に視線を向けた。
「今私の足がどの辺にあるか分かりますか?」
「見えてはいないが、膝上までの長さや立ってた時の身長から、大まかに予想は出来る」
「触ることは出来ませんか?」
「んー、透明なだけでそこにあるはずだもんな。ちょっと失礼」
男も椅子から降りると、テーブルと並行に並び、こちら側に向けられる足先の位置へと手を伸ばす。女性にしてはそこそこ長身である少女なら、大体この位置までは足が届いているだろう。そう思いつつ床に向かって手を下ろしていくと、そこには足首と思われる骨と肌の感触が確かにあった。男の目にはフローリングの木目しか映っていないのだが、手前に引けば足の甲までの形が確認出来る。現実的ではない状況に驚愕しながらも、大きめの頭を何度も縦に揺らして関心を示した。男の中では他の感情よりも、探究心が我先にと押し寄せている。
「不思議な感覚だな。この部分だけ透明人間そのものだ」
「やっぱり触れていても見えませんか?」
「あぁ。感触から足だと判断出来るだけで、空気を掴んでる気分だ」
「そうですか……。それはちょっと残念です」
少女は自分の姿が透明である原因に、心当たりが無い。それと同時に、目の前の男にだけ見られている理由も分からないままである。もしかしたら触れられた事をキッカケに、目視も可能になるかも知れないと期待していたのだが、そのアテも外れて肩を落とした。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。俺は
「三廻部さんですか。珍しいお名前ですね」
「よく言われるよ。苗字に関する知識とかは残ってるのか?」
「一応、佐藤さんとか山田さんって人が多いくらいは……。思い出みたいな部分がすっぽり抜け落ちてるみたいで」
辛さを作り笑いで誤魔化し気味な少女に、三廻部は思い当たる節がある。以前記憶障害を患った知人がおり、強い精神的負荷から、自身に関する全ての情報を忘れ去っていたのだ。
今の少女はその症状とよく似ている。もしかしたら苦しみから逃れる為に、自らの過去を消去してしまったのかも知れない。そう感じた三廻部は、少女の心を癒していく事こそが、彼女の問題を解決する近道であると考え始める。
「とりあえず名前が無いままでは何かと不便だ。君の呼び方はどうしたらいい?」
「えっと……私には思いつかないので、三廻部さんが決めてくれませんか?」
「俺が名付けるのかぁ……。うーん、シロとかはどうだ?」
「……なんか犬の名前みたいですね」
「見た目の印象が真っ白だからって、安直過ぎたか。自慢じゃないが、俺にネーミングセンスは皆無だぞ? 我が子どころか、ペットもいないからな」
「なんか難しい要求をしてしまってごめんなさい」
「謝られると余計に惨めだからやめてくれ。もう少し考える」
三十路過ぎの男は、脳みそをフル稼働させていた。謎だらけの少女について推理するのと、少女に相応しい名前を生み出すのとでは、使われる思考領域が全く別の位置にある。三廻部にとっての苦手分野が、冷静な対応を続けていた彼を、その一日で最も混乱に導いていた。
「………雪。ユキってのはどうだろう?」
「ユキ……。白い色から連想されたんですか?」
「これもシンプル過ぎて面白味に欠けるか」
「いえ、すごく気に入りました! 私、ユキがいいです!」
「じゃあ当面の間はこれで行こう。君が名前を思い出すまでな」
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