第2話 正体不明の少女(2)

 独身かつ彼女も無し。三十余年の人生の大半を、女性との深い関わりを持たずして生きてきた男の部屋の前に、今まさにへたり込んでいる少女は消えてしまいそうに見えた。むしろ膝の辺りから下は完全に消えているわけで、男は目の前の状況を飲み込めていない。


 ようやく足先の痛みが引き始めた少女は、いぶかしげな表情の男を見上げながらも、捨て犬の様な目で訴えるしかなかった。彼女自身もまた、突如知らない世界に放り込まれた感覚であり、頼れる人間も単身で生活する術も持ち合わせてはいない。


 そんな少女の様子にただ事では無い予感を覚えた男から、脅かさないよう落ち着いたトーンで、探りを入れる様に声を掛ける。

 

「なんで俺の家を訪ねてきたんだ?」

「いえ、ここに来るまでに、三十件くらいはインターホンを鳴らしました」

「手当たり次第ってわけか。今までのお宅には追い返されたの?」

「違うんです。他の人には私の姿が見えなくて、声も聞こえないみたいなんです」

「こうして会話が成立したのも俺だけってわけか……」

「はい。おじ……お兄さんが初めてでした」

「無理せずおじさんで構わないよ。とりあえず中で話しを聞こうか。立てる?」

 

 優しく差し伸べられた手に、少女は少なからず怯えていた。自分の手が男の手をすり抜けてしまえば、探し求めていた自身を認識出来る人物から、もう生者として扱われなくなると危惧したからである。自分が何者であるかも分からず、他人との意思の疎通も図れない少女にとって、そこに居る男だけが唯一の希望だった。だからこそ慎重に行動しなければならない。


 一方男も少女の顔色から、尋常ならざる不安を読み取っていた。僅かな会話のやり取りでも、少女が手を取るのに抵抗がある理由には見当が付いている。

 だが男にはその手に触れられるという確信があった。先程まで自分が閉じようとしたドアに接触し、物理的に押さえていたのは、目に映らない彼女の足部である。正体不明な少女が例え幽霊だとしても、物体に干渉出来る肉体があるなら、こちらの手を掴めない道理が無い。


 少女が軽く腕を持ち上げたところで、男は伸ばした手で細い手首を握り、彼女の重心をゆっくりと引き寄せる。少女は驚いた表情で、口を開いたまま立ち上がった。

 

「すみません。あ、ありがとうございます!」

「足を痛くしてしまってすまなかったな。何も無い部屋だが、上がってくれ」

「はい。お邪魔します……」

 

 本当に余計な物が無い殺風景な室内は、日頃から男が掃除をしているので汚れも見当たらない。生活するのに必要最低限な家具しか揃っていないその住まいが、男の性格をよく物語っていた。

 廊下からリビングまでの短い距離を移動する間に、少女は失礼だと知りつつも、キョロキョロと見回してしまう。その成果として男の生活感と個性を多少は把握出来たものの、観察された側は苦笑しながら椅子に座った。

 

「面白い物なんて無かっただろう?」

「ご、ごめんなさい! お家に入るの初めてだったので」

「そうか。そういう記憶も無いんだもんな」

「はい……。私にある最初の記憶は、ここからそう遠くない河原の木陰で横になっていた、昨日の夕暮れ時からです」

 

 男はその場所がすぐに思い当たる。近所に街と街を隔てる大きな川があり、時折散歩に出掛けた際に、木の下の草むらで休んだりした経験があるからだ。そこでなんらかのトラブルに巻き込まれ、それまでの記憶を失ってしまったのだろうか。


 口を噤んで考え込む男を目にした少女は、その姿を不思議そうに眺めていた。彼女にとって身の上話をするのは当然初めての事だが、自分でも信じられないような内容を、正面の男は真剣に受け止めている。まだ丸一日と経ってない少女の人生経験の中で、全てが困惑と恐怖で埋め尽くされていた。だからこそ他人との繋がりが持てた安堵感が、言いようのない喜びとなって少女の心に満ち溢れているのだった。

 

「あぁ、すまん。そこの椅子を使ってくれ」

「ありがとうございます。失礼します」

「ちなみになんだけど、他の人に見えないっていうのは、自分から接触したって事か?」

「はい。道行く人に声を掛けたり、別のお家のインターホンを鳴らして出てきた人に話し掛けても、誰とも目が合わないんです。無視されてるとかではなく、本当に私の存在に気が付いていないみたいでした」

「なるほど、認識すらされない感じか。まるで俺にだけ見えてる透明人間だな」

「その表現は的確かもしれません。私には自分が見えてるんですが……」

 

 自身で例えておきながら、男はあまり腑に落ちていない。なぜなら玄関先にあった姿見に、ハッキリと少女の姿が映っていたからであった。透明人間や幽霊の類いなら鏡に映らないのがセオリーだが、そもそもそれ自体がフィクションであるからして、なんの参考にもならない。記憶を失くし、正体不明の状態でこの場に存在する少女は、いっそのこと自分の生み出した想像の産物だと思った方が納得出来る。

 そこまで男の思考が行き着いた頃、腰を下ろして間も無い少女が、もぞもぞと不自然に体を揺らし始めた。

 

「どうした? まだ足が痛むのか?」

「いえ、あの、お手洗いをお借りできますか?」

「あぁ。廊下に出て左手側にあるぞ」

「お話の途中ですみません! ちょっと失礼します!」

 

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