アリスの変装編

 王家の側近騎士として代々続くブロワ侯爵家の屋敷は、王城から馬車を走らせて十分ほどの場所に建っている。

 大きな黒塗りの門を抜けると、季節の花々が湖のようにさざめく。花の湖を超えたところに、レンガ造りの立派な建物が現れる。


 はたしてその屋敷の一角に、アリスの部屋があった。

 アリスは、自分の映る鏡をじっと見つめている。


 はちみつ色の長い髪を一纏めにし、化粧は落としてある。そうすると、双子の兄のアーサーとそっくりだ。


 切れ長の眉毛も、琥珀色の瞳も、薄い唇も、女性にしては高めの身長も。体型はやはりアリスの方が丸みを帯びているが、服で誤魔化せないこともない。

 ただ、アーサーは優しげなタレ目に対して、アリスはつり目気味だった。もちろん、じっくり見ないと気付かないほどのものだが。


 そして性格も、アーサーは溶け残りの雪を暖かく照らし溶かすような優しさだが、アリスは寒い季節の始まりに吹く突風のような、気が早いというか負けん気が強いというか、とにかく行動派な性格だった。


 アリスという可愛らしい女性像を浮かべる名前ながら、実際は男の兄より男らしい。逆に産まれたなら、整合性も取れただろうに。

 化粧をすれば多少はごまかせなくもないが、可愛いというよりはキツめの美人になる。大好きな兄と同じとはいえ、アリスも年頃の女性だ。小さくてふわふわしている女性像に憧れもあった。


 けれど、やはり兄と見た目がそっくりでよかったと、この時再認識することになる。


 アリスやアーサーと同じはちみつ色の、男性用のカツラを被る。キツい印象を与える目は、化粧でタレ気味に。胸は布を巻いて誤魔化し、コルセットは付けない。あとは近衛兵見習いの制服を着るだけでよかった。

 鏡の前には、紛うことなきアーサー・ブロワが立っていた。


「……我ながら完璧だわ」


 頬に手をあててうっとりと微笑むと、それはまるでアーサーが微笑んでいるようだった。アーサーはいつもアリスに向かってふわりと微笑んでくれるが、今の鏡に映るような表情は見たことがない。

 新たな扉を開いてしまいそうで、アリスは慌てて表情を引き締めた。それから、アーサーがいつもしているような笑みを浮かべる。いくら見た目が完璧だったところで、表情が真似できていなければ意味がない。「気づかれないこと」が大切だ。


 そう、アリスは昨晩考えた。アーサーがいつも通りの力で王前試合に臨み、且つアーサーをあのように傷つけた愚か者共を徹底的に潰す方法を。

 簡単な事だ。


 ――兄とそっくりな妹が、入れ替わればいい。


 幸いにもアリスはまだ婚約もしていなければ、社交界デビューもしていない。基本的には屋敷の中で、淑女はなんたるかを勉強するばかりである。一日屋敷から姿を表さなくたって、周囲から不審に思われることはない。


 もっというならば、アリスにとって屋敷に篭って淑女の礼儀やら嗜みやらを教えこまれるのは苦痛だった。抜け出す丁度いい機会である。

 両親は憤慨しそうだが、それはアーサーに押さえ込んでもらおう。もともとはアーサーの怪我が原因だ。


 窓の外を見れば、陽が上り始めていた。触れたらパキリと割れてしまいそうな薄い光が、部屋の中を照らす。

 アリスがさっと髪を整えていると、こちらの部屋に向かってくる足音が床を揺らした。気付かれたらしい。

 案の定、足音はアリスの部屋の前で止まった。


「アリス、起きているかい? 開けるよ」

「どうぞ、お兄様」

「おはようアリス。僕の制服が見当たらないのだけれど、何か知って――」


 片手で扉を開けたままの状態で止まった。

 開けた先にはドッペルゲンガー……いや、アーサーの格好をしたアリスが立っていた。探している制服というのは、もちろんアリスが今着ているものだ。


「おはようございます、お兄様。そろそろご出発のお時間ですか?」

「そう、だから、制服返してほしいんだけど……いや、何しているの?」


 自分とそっくりではあるが、声が妹であることで余計に混乱を起こしている。アーサーは未だ呆然として、この状況を尋ねる。

 アリスは唇に人差し指をあてて、「んー」と首を傾げる。

 アーサーと同じ顔でやらないで欲しい。


「お兄様になろうと思って! どうですか? 完璧でしょう?」

「うん、自分が目の前にいるんじゃないかってビックリするくらい。満足した?」


 アーサーの問いに、さらに笑顔を深める。

 満足するはずがないのだ。むしろ、これからなのだから。

 アリスはいつもより大股で――アーサーと同じ歩幅で――扉の前に立ったままのアーサーの元へ進む。そのまま目の前に立ち、アーサーの顎を持つと、流石にぎょっとしたのか一歩後ずさった。

 それも逃がさないというように、アリスは顔を近付ける。鼻と鼻がぶつかりそうなくらいの距離だ。


「僕がこれで満足すると思う? そんなわけはない。だって僕は――」

「あ、アリス……近い……」


 低く、でも透き通るような声だった。これもアーサーの真似だ。何もかもがそっくりすぎる。当然といえば当然、アリスはずっと大好きな兄を見てきたのだから。

 目と鼻の先の自分そっくりのアリスに、アーサーは視線をさ迷わせる。自分ってこんな顔でこんな声なんだと頭の片隅で思うが、それもこれも妹のアリスがしていることだと思うと、胸がざわめく。


「だって僕は、僕を傷つけた不届き者を潰さなきゃいけないからね」


 ぱちくりと目を瞬いた後、ハッとしたようにアリスの顔を手で押しのけた。アリスから、くぐもったような声がもれる。


「僕の格好して僕の声で、恐ろしいこと言わないでくれる!?」

「恐ろしいってなんですか! 当然のことです! やられたらやり返す、赤ちゃんでも分かる常識です!」

「それはアリスのモットーだよね!?」


 顔面を覆った手を外し、アリスは主張する。

 試合に参加出来ないように腕を潰すなどとい悪意意の塊のような行為に、こちらが譲歩してやる理由はない。

 突き止めて首根っこを引っ掴んで再起不能にしてやった後で、全員の前に突き出して悪事を暴くべきだ。


 なのにこの兄は、まさか見逃して、あんな腕の状態で訓練に行って、試合までの間に自分の腕を潰す気だとでもいうのだろうか。

 アーサーは全く悪くないのに。


「そもそもお兄様、昨日襲ってきた犯人をご存知で?」


 そういえば聞いてなかったなと、アーサーの主張をすっ飛ばして話を変える。

 知っていたなら話は早い。とっとと引っ捕まえればいいだけだ。と思ったのだが、アーサーはぴくりと肩を揺らした。


「実はあんまり覚えてなくて……」

「覚えていない?」

「うーん、たぶん後ろからやられたんだと思う」


 アリスは驚いて目を見開いた。

 まさか、アーサーの後ろを取れる奴がいるなんて思わなかった。余程の手練ということだろうか。


「だから、アリスがあそこに行くのは危ないと思う。僕の制服、全部隠したでしょ。返して?」


 アリスは顎に手をあててしばらく考えたあと、緩やかに首を振った。


「……いいえ。そんな危険な人物がいるなら尚更、今のお兄様を行かせることなんて出来ません」

「行かせるも何も、僕が訓練に行くことは何もおかしくないんだけど」

「腕を潰したいんですか?」


 アリスが睨んで言うと、表情は変わらなかったが怪我をした腕を庇うように片方の手が抱いた。

 その動作が、全てを物語っている。 この一瞬を我慢できずに王城へ行ってしまったら最後、二度と剣を握れなくなるかもしれない。


「まずはお医者様に見せてください。それで問題ないならいいのです。私はただ、お兄様が心配なのですよ」


 アーサーが、どれだけ剣を振るうことが好きで、どれだけ努力して、ここまで来たか知っているから。

 アリスとて、ふざけて言っているわけでも、興味本位で言っているわけでもない。ただ、兄の努力が報われる助けになればの一心なのだ。


 そんなアリスの切実な様子に負けたのか、アーサーはひとつため息をこぼした。


「……わかった。とりあえず今日は医者に診てもらうよ。明日からは僕が行くからね」

「もちろんです。、ですが」


 何かあったら却下である。

 言葉の真意を知ってか知らずか、アーサーは曖昧な笑みを浮かべる。


「その代わり、ひとつ約束して。近衛騎士見習いに、ハ……ヘンリーという男がいるんだ。僕は基本的にヘンリーと行動してるから、アリスも彼のそばにいるようにして」

「ヘンリーですね」


 アリスは頷いた。

 ヘンリーという名前は、以前よりアーサーから聞いている。余程仲が良いらしい。アーサーがそこまで言うのなら、信頼のおける人物なのだろう。

 ひと目見たいと思っていたのでちょうどいい機会かもしれない。

 「兄がいつもお世話になっています」と言えないのが残念だが。


「茶髪で細身の男だよ。身長は僕より少し高いかな。すぐ分かると思う」


 気をつけて行っておいで、無理はしないで、というアーサーの言葉を最後に、アリスは屋敷を出た。

 上手くやれる自信はある。どこからどう見ても、自分は兄そっくりなのだから。生まれてからずっと、一番近くにいた。


「ヘンリーか……」


 ぽつりと、アーサーが指名した男の名前を呟く。何かが引っかかる。

 それが何かは分からない。

 もしかして、兄にあれほど信頼されているのが羨ましいのだろうか。


 アリスは、走る馬車の中から、景色が移ろっていくのをただ眺めていた。

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