私、お兄様一筋なので!

霧谷凜

プロローグ

 日が落ちて、空が紫紺色に染まる。涼やかな風が吹き始める頃。ガラガラと馬車の走る音が近付いてくる。


 その音を合図に、アリス・ブロワは弾かれたように階段をかけ下りた。はちみつ色の長い髪が、ふわりと揺れる。

 はしたないとよく怒られるのだが、アリスは一度も聞いた試しがない。

 それくらい、アリスにとって待ち侘びた瞬間だった。


 階段を下り、玄関ホールまで躍り出ると、狙ったように扉が開かれる。その先にいた人物に、アリスは花が咲いたようにぱっと顔を輝かせた。


 扉の先には、タレ目がちの優しげな瞳に口元は常に柔和な笑みを浮かべている、陽だまりのような優しい表情をしている男性。

 彼はアリスの双子の兄、アーサー・ブロワである。


 アリスはアーサーの事が大好きだった。ゆえにこうして、兄が王城から帰ってくるのを毎日心待ちにしているのだ。

 アーサーは、息を切らして玄関ホールに立っているアリスを視界に入れて、目を細めた。


「お兄様、おかえりなさい!」

「ただいま、アリス」


 常ならばアリスはここでアーサーに飛びつくのだが、アーサーの様子を見て表情が急速に抜け落ちる。


 白い生地に銀糸で刺繍の施された軍服。腕には腕章が付いている。近衛騎士の制服であり、腕章はその見習いであることを示す。

 しかし今、いつも綺麗にしている白地の服には泥がこびりつき、特に腕のあたりは集中的に汚れている。アリスと同じはちみつ色の柔らかい髪は薄汚れ、無造作に跳ねていた。


 昨日は雨が降っていたし、見習いなのだから毎日厳しい訓練はあれど、普段はこれほどまでに酷い有様ではない。転んだにしても派手すぎて、どちらかというと――。

 アリスが眉を寄せて険しい表情をしている事に気付いたのか、アーサーは困ったようにアリスの元まで歩いてきた。足取りはしっかりしているようだ。


「そんなに怖い顔をしてどうしたの。いつもみたいにしてくれないの?」


 おいで、と誘うように、アーサーは両手を広げる。アリスはその瞬間を見逃さなかった。腕を広げた時、僅かに眉が寄せられた。痛みに耐える顔だ。

 一歩前へ進むが、それはアーサーへ飛びつくためではない。手を伸ばし、酷く汚れた方の腕をきゅっと握った。


「――っ」


 やはり。

 そんなに力を込めて握ったわけではない。なのに、アーサーはびくりと腕をふるわせ、顔を顰めた。僅かな刺激だけでも痛むらしい。

 アリスは些かトーンを落とした声で訊ねた。


「お兄様、一体何が?」

「あぁ、いや、ちょっと転んでしまってね」

「転んだ? 私には人に踏みつけられたようにしか見えませんが」


 そう言うと、アーサーは痛いところを突かれたというように、苦々しい顔をして口を閉ざした。


 白い生地だからわかりやすい。いくつかの靴裏の跡が重なるように、白の生地を汚していた。転んでしまったところを、誤って踏みつけられたような感じではない。この足跡には、明確な意志がある。


 アーサーは常にほんわかしていることから、周囲からは虫ひとつ殺せないような印象を持たれがちだ。

 だが、ひとたび剣を持てばそこらの令嬢などイチコロにするほど凛々しくなり、剣の腕も剣士が戦くほど、右に出るものはそうそういない。整った顔立ちをしていることも助けている。

 アリスの兄は世界一カッコイイのだ。


 完全にアリスの独断と偏見の意見ではあるが、要するに、訓練中に転んでしまうなんていうおっちょこちょいなことを、この兄がしでかすはずがない。


「まずは怪我の様子を見ないと。お兄様、こちらへ」


 低く地を這うような声に、アーサーは眉を下げた。

 アリスは、あまり酷くない方の腕を強引に引き、談話室へとアーサーを引き連れる。


 途中、執事に包帯や消毒液を持ってくるよう指示も忘れない。骨まではいっていないだろうが、人に何度も踏まれているのであればそう軽い怪我でもあるまい。


 ガンッと足で談話室の扉を蹴り開ける。「お行儀が悪いよ」とアーサーは諌めるが、アリスはそんなことかまいやしない。

 むしろ、こんなに苛立たせているのは誰のせいだと怒鳴りたいくらいだ。

 それをぐっと呑みこんで、アーサーをソファに放り投げた。アーサーの顔が歪むが、痛みによるものというよりは、ただの衝撃に対する反射的な表情らしい。つまり、足などには大した怪我はなく、酷いのは腕。


 ――利き腕か。


 不機嫌そうに眉根を寄せ、なんの前触れもなくアーサーの胸ぐらを掴んだ。驚いたように目を丸くするのを一瞥だけして、左右に引っ張った。

 もちろん、服は破れ、はだける。


「ちょ、アリス!? 一体何を」

「だいぶ手酷くやられましたね」

「ちが、これは……」


 まだ言い訳を続けようとする兄の言葉を、右から左へ聞き流す。

 誰がどう見たって、転んでできるような怪我ではない。肘から肩にかけて赤く腫れ上がっており、所々擦り傷もあって血が滲んでいる。手首のあたりも少しやられているようだ。白い肌なので、赤い色が余計に目立つ。


「骨まではいってませんね。でも」


 アリスはふいと歩き出し、飾りとして壁に立てかけてある剣を二本抜いた。それを手にアーサーの元まで戻ってくると、一本をずいと目の前に突き出す。


「こちらを持ってください」

「え? うん……」


 アーサーは困惑したように、目の前に突き出された剣を手に取る。痛みが酷いようで、僅かな動きでも響くらしい。剣を持つ手は頼りなく震えている。

 すぐさま隠すように、もう片方の手が添えられた。


 確信したようなものだが、直接その目で見せないと、のらりくらりとかわして逃げるのだろう。退路を断つためである。


「立ってください。剣を構えて」

「あの、アリス? なんだってこんなところで剣を」


 言い終わる前に、アリスは動いた。一歩前に踏み込み、剣を下から上へ振り上げる。アーサーはもちろんそれに素早く反応し、受け止めるべく剣を構えた――が。


 キインと刃がぶつかる音がしたかと思うと、アーサーの手から剣が消えていた。視界の端で、弾かれた剣が床に突き刺さった。

 アーサーは信じられないものでも見るように目をしばたたかせている。


 しばらくの沈黙の後、アリスが口を開く前に、悲鳴ともとれない叫び声が響いた。


「お、おおお嬢様、坊っちゃま! いっ、一体何をなさっているのです!」


 声のした方を見れば、先程包帯やらを頼んだ執事が、血の気を引かせた青い顔で立っていた。その足元には、床に突き刺さった剣。


 なるほど、彼はタイミング良くか悪くか、ちょうど頼んだものを持ってきてくれたらしい。もう少し早ければ串刺しになっていたことだろう。タイミングはギリギリ良かったのだ。


 アリスはすっと剣を下げ、無邪気な笑顔を浮かべた。


「ロイ、串刺しにされなくてよかったわ! 頼んでいたもの持ってきてくれたのよね、入って」

「お嬢様、そういう問題ではございません。談話室で打ち合いなど旦那様や奥様に知られたら……」


 ロイと呼ばれた執事は、歳は三十くらいの男性だが、この兄妹――特にアリスは自由奔放でいつも苦労をさせられている。そのせいか、実年齢より年老いて見えてしまう。


 今もまた、アリスの自由な行動と発言に、ロイはしょぼしょぼと腰を丸める。だがアリスはそんなことは意に介したふうもなく、偉そうに腰に手をあてた。


「ロイが黙っていればいい話よ。それより早く。お兄様、怪我をしているの」

「坊っちゃまが? は、ただいま」

「そんな大した怪我じゃないよ」


 アーサーは諦めたように、ソファに座り直した。やや声に覇気がないのは、怪我のせいか、アリスのせいか。

 その間にもロイは素早くアーサーの傍に寄り、怪我の具合を見て、手当てに取り掛かっていた。


「大した怪我じゃないはずありますか! 剣もろくに握れない、構えられない、私のあんな剣にすら弾き飛ばされる!」


 アリスが喚く。事実なのに変わりはなく、アーサーはぐっと唇を噛む。


「いいですか、お兄様。すぐにお医者様に診てもらって下さい。しばらく剣を握るのもやめた方がいいかと思います。悪化しかねません」

「いや、そんな大事じゃないよ。冷やして一日寝れば落ち着」


 アーサーは言葉を呑み込んだ。剣先が目前に止まったのだ。アリスが怖い顔をして、アーサーを睨んでいる。

 アリスの怒りの矛先を受けていないロイも、つうと汗が一筋流れた。今アリスは、間違いなく怒っている。


「やった方もやった方ですが、やられるお兄様もお兄様です」

「……油断していた。情けないとは思っているよ。でも、訓練を休むわけにはいかない」


 アーサーも負けじと、アリスを睨み返す。だがこれは譲れない。怪我をしていない方の手で、向けられた剣を下ろす。


 アリスがこんなに怒っているのにも理由がある。というのも、 王宮勤めの騎士や兵士達が参加できる王前試合が控えているのだ。

 王前試合とは、その名の通り王族の前で披露する試合である。そこで勝ち抜けるか、王族が気に入った者がいれば、昇格となる。


 近衛騎士見習いであるアーサーの昇格となれば、王族へ忠誠を捧げる、正真正銘の近衛騎士となれるということ。中には、側近騎士へと選ばれる者もいる。つまり、出世ルートに乗るためには参加はマストなのである。


 参加条件は、見習いからベテラン騎士までドンと来い。そのため、王前試合の前には熾烈なが恒例のように行われる。

 それを切り抜けるのも、騎士・兵士としての才能のひとつだと、目を瞑られているらしい。


 アーサーはその試合に臨むつもりだった。これまで一度も訓練を怠っておらず、さらに、アーサーは誰よりも秀でていた。近衛騎士からもその他騎士からも、アーサーは確定だろうとまことしやかに囁かれていたのだ。


 そもそもの発端が、ここにある。アーサーのような優秀な者を試合に参加させないように、騎士としてあるまじきことをしたのだろう。卑怯極まりない。


「それが相手の思うつぼですよ。試合までまだ間があります。そんな怪我の状態で訓練を続ければ、試合当日には使い物にならなくなっていましょう」

「でも、訓練を休んでも変わらない。それどころか、良からぬことを考える輩にしてやられた、というレッテルを貼られるだけだ」

「ええそうです。だからなぜ、そんな怪我をさせられたのですか! 相手にそんな隙を見せること自体、騎士としてなっておりません!」


 全くその通りなので、アーサーは視線を逸らした。そんな陰湿な相手にしてやられる時点で、騎士として失格なのだろう。それでも。


 アリスはふっと息を漏らしたかと思うと、剣を再びゆっくりと持ち上げた。アーサーもそれを目で追う。そしてぎくりとする。唇には薄い笑みが浮かべられていたが、目は笑っていない。底冷えするような目だった。

 アリスは剣の側面で手の平を打つ。ぱしんと不穏な音が部屋に響いた。


「――ですが、お兄様をこのような目に遭わせた、命知らずで、人間の風上にも置けない愚か者共は、一目見て痛めつけておく必要がありそうですね」


 アリスの怒りはそこにあったか、とアーサーは片手で額を押えた。

 王前試合前の恒例行事に、まんまとライバルにしてやられた兄に対して失望していたのではない。愛しい兄を傷つけた、その陰湿な王前試合参加者に怒りの炎を燻らせていたのだ。

 存外明るい声でアリスは言った。


「ご安心くだい、お兄様。貴方の妹であるこのアリスが、お兄様の望みも、敵討ちも、叶えて差し上げます」


 ニッコリと微笑んでいるが、その笑顔には影がさしている。

 この顔は、ろくなことを考えていない顔だ。アーサーは頬をひくりと引き攣らせる。


「いや、ただ僕を訓練に行かせてくれれば、それでいいんだけど……」


 アーサーの訴えは、アリスには聞き入れられなかった。


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