真実編

第39話 追憶。

 まだあいつが――朝姫が俺を嫌っていなかった頃……。

 殺そうとすら考えていなかっただろう、あの日々――


 俺が小学生になった頃、あいつは俺にべったりだった。

 どこに行くにしても、なにをするにしても。

 俺の後ろを歩き、俺の真似をしていた。

 俺と同じお菓子を買ってもらい、俺と同じおもちゃで遊んで。

 俺がはまれば朝姫もはまって。

 俺が飽きれば、あいつも飽きた。


 その時は、多分俺もまんざらではなかったと思う。

 慕われているとはそういうことだと、子供ながらに思っただろうし、兄妹喧嘩もいくつかしたけれど、仲が良かった。それに朝姫のことは好きだったから。


 でも、髪型までまねてきたときは、正直、親も心配していたと思う。

 男の趣味をまねて、男のおもちゃばかり持ち、おまけに男の髪型になる。


 ジェンダーフリーが受け入れられる時代ではなかったし――あるいはそういう時代であったとしても――かわいい娘が、不出来な兄のせいで人生を変えられているのではないか、という心配がなかったかと言えば、多分、あったに違いない。


 加えて言えば、そのせいであいつは、小学生に入った頃からいじめられっ子になってしまった。

「女のくせに男じゃん」

「うわー、だっせー」

「男なら服脱げるよな、おい」

 などと――まあ、低学年らしい、純粋で、そして悪意に満ちたいじめを受けていた。


 一方、俺は高学年になり、朝姫に対する羞恥心も芽生えていたのだろう、と思う。あいつから逃げるように、いたずらの道に走った。

 いや、これは言い訳だ。

 あいつを突き放した言い訳。

 俺は、結局のところ、弱い人間だった。

 人並みに。あるいはそれ以下に。


 いじめをやめましょうとか、見て見ぬふりはしないでおきましょう、とか、頭の中では理解しながら、勇気が出ない。

 いや、どうだろう。勇気が出ないのではなく、そもそも、最初からそういう勇気を持ち合わせていなかったのだ。


 だから、なのか――

 まあ、元々いたずらが好きな人間だったらしい(母曰く)。

 ――俺はいたずらをすることで、強い人間であろうとした。

 したたかであろうとした。

 子供らしく。

 馬鹿らしく。

 愚かにも――


 それでも、朝姫は俺のことを好いていてくれたように思う。

 慕ってくれていたかのように思う。

 だから、守ってやりたい――これだけは、今でも覚えている。

 そう。


 守ってやりたい、だ。

 それだけは、子供の頃から、ずっと思っていた。


 結果として――これは本当に偶然の結果だけれど。

 俺がいたずらっ子としてそこそこ名を馳せたおかげか、あるいは朝姫の世代が早々に大人になったのか。

 いじめは少なくなり、そして小規模のものへと落ち着きつつあった。



 けれど、事件は起こった。

 あの日は、親父の誕生日だった。母さんに言われた。


「朝姫と一緒に帰ってきてね。準備とか色々あるから」


 だからそれに従った。

 深い理由なんてない。放課後、掃除をしている朝姫のいる教室へ向かった。


 教室からちょっとした笑い声が聞こえてきていた。

 その日は……どうやらからかいたがりの男にずっと絡まれていたようだった。

 鼻の下を伸ばして、ずっとトイレに行きたがっている朝姫。


「どいて! どいてよ!」

「便所はどっち!? どっち使うんだよー、おとこおんな」

「お願いだからっ!」


 朝姫の必死な表情を無視して、ケタケタと笑う男子。

 いかにも小学三年生らしい。


「うっ……」


 朝姫が、そう呻き声を上げた。


 そう、


 


 


 雑巾で汚れた汚い汚い水を、ぶっかけた。そこからはもう、大騒ぎもいいところだった。

 大泣きする朝姫。周囲の生徒がざわついて、廊下まで伝播し、からかっていた男子だけが静かになっている。どこかで見ていたかのように先生がやってきて、俺はあっさりと職員室へ連れていかれた。


 次に応接室のソファに座らされて、やがて悲しそうな顔をした母さんの顔が見えた。

 そこから先は、覚えていない。

 ただ怒られていただけのようにも思うし。

 帰りは母さんと一言も喋らなかった気がするし。

 結局、親父の誕生日パーティは開かなかったように思う。

 確かに覚えているのは、暗い廊下の先から俺を睨む、朝姫の目だった。


 中学に上がって、思春期に入った。

 朝姫とは喋らなくなった。


 思春期の全盛期が終わり、高校に入った頃。

 朝姫が思春期に入った。

 喋ることは、一切なかった。


 母さんはいつの間にか、親戚の集まりとかで、仲のいい兄妹、とは言わなくなった。

 誰の目から見ても、俺と朝姫の関係は、あまりにも冷めきっているかのように見えたから。


 そして朝姫の思春期が終わる頃には、俺はもう、大学にいた。

 杏奈と出会い、そして朝姫が家にやってきた――


 そう。

 あの日の俺に、復讐を果たすため。



 ……白い天井。

 ピ、ピ、と機械音が定期的に鳴っている。

 ベッドの中らしい。重々しい掛布団の中にある腕には、点滴がつけられている。

 うまく動けない。特に腹が痛い。


 隣を見ると、杏奈とマリンちゃんがいた。

 マリンちゃんは、杏奈の肩によりかかって眠っている。

 杏奈は起きていて、俺と目が合った。


「よう、ナイト。眠り王子の、お目覚めだ」


 どうやら、死に損なったらしい……。

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