Stingerは夜に赴く(2)

イラガフに望まれた通りにスティは口を動かす。


さて、フィズという少年に出会った時の話をしよう。






件の彼ーーフィズと出会ったのは、数年前。茹だるような夏の朝だった。


その日は早めに上げなければならない仕事があり、普段の出勤時刻より早めに出ていた。空が白み始めた時刻の日差しは柔らかく世界を照らしている。仕事終わりだろう、向かい側からやってくる夜街の女性たちの美しさは柔らかな陽光より明らかに煌びやかで美しい。そんな彼女達と比べれば、化粧っ気も洒落っ気も見られない格好で出勤する自分はあまりにも虚しく、普段は感じない恥ずかしさを抱いてしまう。


煌く花々に自然と動いた足で道を譲り終え、彼女達が視界からはけた後に大きく息を吸い込んだ。香水の残り香を包んだ柔らかな風が体に馴染み始める。


(朝早いと風が気持ちいい……)


こんな風を感じられるのなら、早朝出勤も悪くはない。今日のコーヒーは眠気覚ましのブラックにして、ご褒美にちょっといいワッフルを朝食にしよう。


それならワッフルは何味にしようか悩み始めたスティが欠伸を噛み殺し出勤する中。角を曲がり、ようやく目に入った自社の前では穏やかな朝に似合わない光景が広がっていた。


「ーーだからお前なんて雇えねえって言ってんだろ! 他あたれ! Skunk!(嫌われ者が!)」


あまりにも乱暴な声と暴言、数メートル離れた位置にいるスティにさえわかる拒絶した態度。穏やかな朝に似合わない光景に、思わず足がすくんで止まる。


目を向けると、そこにいたのはスティの上司と真っ白い格好の誰かだとわかった。普段は温厚な、頭の上が少し寂しい痩せた上司の口から飛び出すスラングは聞いていて心地いいものではない。何より、それを黙して聞き続ける、その白い姿があまりにも心細く、可哀想に見えてしまった。


恐る恐る近づいていく。怒りを露わにした上司は視野が狭まっているらしく、スティには気付かないまま目の前の白い姿へ手を伸ばし、頭頂部を掴んだ。フードを深く被っているその白い布を鷲掴みにしながら、反射的に逃げようとしたその細い体を引き寄せ


「Moron,ugly,Screw you!(バカ、ブサイク、くたばりやがれ!)」


思い切り耳元で叫んだ後、腹に蹴りを入れて唾を吐く。加減などない、力強い一発だった。線の細い体は上司から離れ車道へ落ちた後、泥だらけの排水溝に浸かってしまい白が汚れた。幸い車通りはなかったが、もし通りすがる車があれば確実に轢かれていただろう。


職業柄カメラに伸びてしまった手を誤魔化すように、何も持たぬままポケットから出して真っ白い姿へ走り寄る。その背中を支えれば、服越しでもわかるほど細く骨張ったそれに鳥肌が立ってしまった。


誰かがこの時間にいると思っていなかったのだろう、驚きで目を見開いた自身の上司をそのままの勢いで睨みつけ


「何しているんですか! 立派な暴力ですよ!」


「スティ……ッ、お前、何でこんな時間に」


「そんなことよりこの子ですよ! いくらボスでも見過ごせません、こんなか弱い子にーー」


話の流れで庇っている相手の顔を覗き込めば、驚いた白い存在が大きく跳ねる。加えて吹いた風により外れた、白いフードの下に隠されていたものを見た時、スティは息を呑むしかできなかった。


それは、あまりにも細く小さな少年だった。後ほど上空に見られるはずのスカイブルーと、昔テレビで見た鮮やかなエメラルドグリーンの海底を瞳に宿した少年だった。惹きこまれそうなほど丸く美しい瞳。だが、顔半分を占める肌がその感動を許さぬように鎮座している。


フードを慌てて被った手首は血管が浮き出て見えるほど病的に白い肌。それは顔も同じだったが、こちらから見て左半分はそこだけ神に殴られたか、業火に焼かれたかのように紫色。そしてそれはインク染みのような歪かつ偶発的な形で存在していた。


何も言えないでいる中、彼の右手はフード、左手は直接当てて顔を覆い隠す。ごめんなさいと何度も呟く声は何に謝罪しているのだろう。


謝罪はその顔にか、自身の存在にか。


勢いよく立ち上がり、そのまま去ろうとした腕を掴んだ理由は彼女には分からなかった。それは純粋な善意からではなく、後々自身の罪悪感で押し潰されたくなかったからだと思う。


とにかく、何かしてやりたいという気持ちが強かったのだ。この可哀想な存在へ、謝罪を重ねる少年へ、何かしてあげたかった。


スティも立ち上がると彼の肩をそっと抱き、上司のことを睨みつける。向き直り話の説明を求めると、舌打ちをした上司は心底嫌そうな顔をして説明を始めた。それは、嫌悪感を丸出しの声で。


「そいつが働かせてくれってよ。新聞配達の募集見たらしい。でもこんなん雇える訳ねえだろ? こんな顔が朝イチで新聞届けに来るの想像してみろよ、営業妨害」


気持ち悪ぃ。そう吐き捨てられた言葉に、白い肩がびくりと揺れる。


風に乗って鼻孔をくすぐる石鹸の匂いは件の彼からしていた。服装もよく見ればそこそこ綺麗なもので、乞食のような近寄り難い物に身を包んでいるわけではない。


ただ、生来受け取ったものが人に受け入れられるモノではない、それだけなのだ。


スティが少年の肩を掴み黙りこくっていると、少年と上司双方から次の展開を求める瞳で見られる。思考回路を回していれば、いつの間にか彼の肩に爪が食い込んでいたらしい。小さく漏れた声にごめんねと慌てて手を離し、代わりに柔らかな力で手首を握ればまた大きく肩が揺れた。今までどんな経験があればこんなに怯えられるのだろうと、虚しくなった彼女は大丈夫だよと小さく囁いてみせた。


改めて上司と向き直る。大男はスティの力強い目を見返す力はあるらしい。「なんだよ」という威圧的な問いかけに、彼女はひとつ唾を飲み込んでから


「じゃあ、早番はどうでしょう?」


訳がわからないと言った表情を浮かべる二人に、矢継ぎ早に説明を続けた。


「早番。夜が明けるか明けないかくらいの時間に配達するあれですよ。あれなら人目も大して気にしなくていいでしょ?」


「だがな……」


「何か問題でもありますか? 別に物を介して感染するようなものじゃないでしょう。私はそんなこと思いませんけど、見た目を気にするのならそれで解決じゃないですか」


「……でもよ」


「もし雇っていただけるなら、今回の件大ごとにしませんけれど。新聞記者の噂を流す腕の良さ、舐めない方がいいですよ?」


含んだ笑みを浮かべた時に一歩下がった上司を見逃さなかったスティが、さあもう一押しと口を開きかけた時


「ーーあぁ、おい! フィズ!」


隣の白い存在がスティの手から消える。気づいた時には上司が彼の胸ぐらを掴み上げていた。ボス! と叫ぶスティを無視し、屈強な腕を持つ男は彼の体を軽々と浮かせると


「必要以上に俺に顔を見せるな。お前の顔、ムカつくんだよ!」


就職祝いだと言ってフィズの体をレンガの歩道に打ちつけた。真っ白な体が鈍い音を立てて着地する。小さな悲鳴をあげて駆け寄るスティの横を上司は悪びれもなく笑いながら通り過ぎ、わざとらしい足音を立てて新聞社の中へ消えていった。


「ーーあぁ、ごめんね!! ごめんなさい!!大丈夫だった?!」


「……はい……慣れて、いるので」


口の端から漏れた血を近くの排水溝に吐き捨て、軽く袖口で拭う。既に彼の白いパーカーは土と泥と上司の足跡で汚れていたが、そこに血が追加されれば恐怖以外の何者でもない。会社に洗濯機があるから洗っていこうと誘うスティへ、彼は大丈夫ですと何度も繰り返し断った。


「大丈夫です、本当に。……家、近いですし」


「家? ここらへんなの?」


「はい。なので、本当にお気遣いなく」


そこまで断られてしまったら、食い下がる理由もない。スティが袖から手を離せば彼はあからさまに安堵の表情をこぼした。フードの影の下で一律の灰色を抱いたこの顔は、柔らかな表情を灯してあまりにも美しい。一瞬見惚れてしまったスティは我に帰り、少年へごめんねとひとつこぼす。


「私、勝手に仕事の契約つけちゃったけど……よく考えたらあんなボスの下じゃ嫌だよね」


「いえ」少年は食い気味に返し「大丈夫です。むしろありがたかったです。ありがとうございます」


「……そう? でも、本当に無理はしないでね?」


「無理じゃ、ないです。頑張れます」


こんな僕を受け入れてくれただけで十分です、と。悲哀はなくただ事実として淡々と告げる声を聞けば虚しさがつのってしまう。それを誤魔化すように、スティが少年の手を取れば彼は驚いたように目を見開いた。当たり前のように振り払おうとする手を強く握りしめて、問いかける。


「ねえ、改めて名前教えてくれない? 私はスティ。ここの会社の記者やってるのよ」


警戒心のない笑顔で告げれば、彼の戸惑っていた顔にも少しずつ安堵が滲み始める。影が濃い世界では、彼の顔は普通の肌で普通の人だ。いや、もともと普通の人だーーと頭を振るスティの耳へ


「……フィズ、です。よろしく、お願いします」


朝焼けを背にしてぎこちなく笑って告げた彼ーーフィズは、歪な天使のように見えたことを覚えている。




***





「ーーーーーーーーって、感じかなぁ」


「そう。教えてくれてありがとう」


整ったイラガフの顔に覗き込まれて微笑まれれば、昔馴染みでも流石に照れてしまうところがある。スティは火照った顔を隠すように逸らしながら、両頬に手を添えて首を振った。


「ううん。……でも、懐かしいなぁ。フィズくん、いい子だよ。本当にいい子」


「そうだねぇ。フィズはいい子だった」


「ーーだった?」


イラガフの一言が気になり見上げれば、夕焼けを背負った彼が苦笑をこぼす。影というものはその人の魅力を引き出す力があるのかもしれない。当時のフィズの微笑みを思い出す中、イラガフは指をクルリと空中で回し


「だって、ほら。俺らが今から行くパブ、『G.D』は人気がゆえ争いが絶えないだろう?」


一点を指したそれを辿れば、古びた中世寄りの建物が目に入る。外観に合わないネオン看板には『G.D』の文字。真っ赤なペンキで塗られた看板は金色の木枠と赤のライトで彩られている。イラガフの指先は、そこを捉えつつもう一度時計回りにクルリと回した。


「フィズは今やあそこのバーテンダーだ。しかも街ーーいや、市内一番の美女と謳われてるあのラディリーと付き合ってる」


足を進めれば、当然のように店との距離が縮まってくる。小さなドアもようやく視認できる距離に至った時、何かの叫び声と誰かがドアを突き破って飛んでくる光景が飛び込んだ。小さく声を上げたスティを庇うように腕を真正面に出したイラガフはほらね、と笑う。


恐る恐る近づいていった先にあったのは、数メートル先のゴミ捨て場まで飛ばされた男の伸びた体がひとつ。次いで、ドアから飛び出たモップの先がビリヤードの球のように突き放った別の男の体が重なった。頬や服の捲れた腹に痛々しい出来立ての痣を見つけ、視線を逸らしたスティを背後に回した警察官は感心しないなぁ、と囁き


「いくら非番とはいえ、こういうのは見過ごせないよ」


モップの先端を引っ張れば、その先を握っていた体がドアの陰から飛び出してくる。先程の勢いからは想像できないほど軽い風を起こして現れたのは、黒髪の青年だった。


可愛らしい青年だ。黒いカマーベストに真っ白いシャツという整った外見に収まるのは、枝毛の浮いた黒髪と顔に引き攣った薄紫色の痣を大きく作った青年だ。まさかこの一件で、と覗き込んだスティが心配するが青年はケロッとした顔でイラガフを見上げているだけ。


口の端を切ったのか、浮かんでいる血をあの日のように拭った少年を見下げた警察官は


「一体何があったの? フィズ」


今や、街一番の美女と付き合い、店の番犬と呼ばれているフィズへ問いかけた。

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