Stingerは夜に赴く(1)

昼間のうんざりする暑さが離れた事務室で、開け放った窓の道を心地よい風が通り抜ける。西へ沈もうとしている発光体は、じれったく感じる速度で休息へ向け動いていた。


そんな小さな新聞社の中では机同士が向き合い繋がり合い、幾つもの島が構築されている。上には様々な書類やペン、パソコン類が乱雑に積もっており、その中でも特に酷い端の机上では、母国語が細かく印字された書類が社内一の高さを誇る塔と化していた。


塔を築きあげた悩める新聞記者は目を閉じ、自身が座る椅子の背もたれを限界まで押し倒す。そしてボールペンで汚れた手で両目を覆い、静かに息を吸って、吐いた。全身から湧き上がる倦怠感や疲労感を隠す余裕はまるでない。


新聞記者は汗ばんだワイシャツのボタンを一個開け、外気を取り込もうと煽いだ。サスペンダーと細身のズボンは彼女のスタイルの良さを物語っていたが、化粧っ気のない顔と気を使っていない茶髪の一本縛りでは色気や女性らしい魅力とは程遠い。


そんな彼女は蛍光灯やパソコン、現実から目を逸らしながら考え事を深めていく。今日はそろそろ上がってしまおうか、でももう少し粘ってみようか。粘って生産性はあるのか、と。


回答の見つからない思考を巡らせている最中、頭上に人の気配がすると同時に静かで優しい声が降ってきた。


「スティ」


名前を呼んだ声に答える前、新聞記者ーースティは手を退けて明るい世界に思考を向けた。そのまま視線を上へスライドさせると、笑顔を振りまく昔馴染みである青年と目が合い、軽く手を振って挨拶する。


「こんにちは」


「こんにちはーーって昼、一緒に食べたでしょ?」


それは短い赤髪に黒い瞳の男だ。普段はここらの治安を維持する警察官の制服に身を包んでいるが、今日は既に仕事を終えたのだろうか。彼は黒いワイシャツに同色のスラックスというラフな格好で、覗き込んだ先の彼女へ手を振り返している。


爽やかな雰囲気で外見がよく、警察官という立場と人当たりのいい性格のおかげで町中の信頼を得ている彼が来ればいつだって社内が色めき立つ。スティと彼が付き合っているのでは、という噂の波紋に苦笑したスティは馴染み深いイラガフという名を呼んだ。


「覚えてるよ。でも挨拶って肝心でしょ?」


「それは確かに」


イラガフは浮かんでいた微笑みを一層明るくすると「ちょっと失礼」と主が不在の隣席に謝罪しつつ、空いている椅子へ座った。腰を落ち着けた後、スティへ仕事は順調? と上機嫌に質問を投げかける。


「順調。……だけどまぁ、手詰まりかなあ」


「へぇ。仕事さばきの上手いスティがそういうって珍しい。どんな記事?」


「言い過ぎだよ。キャロル」


「……あー」表情を一瞬曇らせ、苦笑しながら「あいつね。スティが担当なんだっけ」


「そう。最近事件も起きてないから書かなくていい気もしてるんだけど……書きたいって私の気持ちと、書けば売れるからっていう会社の気持ちの一致でね」


「こっちも対策本部設置してるのに全然捕まんないから困ったもんだよ。被害者に選ばれる規則性見つけたからすぐ行けると思ったんだけどなあ」


一旦言葉を区切ったイラガフは苦笑し


「保護させてくださいって言いたくても、言われた人からしたら悪者って烙印押されることになるじゃん? それ考えるとね」


簡単に保護なんて言えないやと苦笑する。


彼は笑みを崩さないまま、スティのデスクに積んだ書類の束を手に取り軽く捲った。見てもいい? と問われ、内容を横目で確認してからいいよと返す。それは、今話題に上っているキャロルという存在についてまとめたものだった。


キャロル。それはここ一、二年ほど前からこの街へ現れた殺人鬼を指す名前だ。


それは、殺人現場に残される「Carol」の文字から名付けられた存在。その文字は壁一面に書かれた血文字であったり、土に小さく刻まれた引っ掻き文字であったり、ゴミ箱を漁り得た雑誌の切り抜き文字であったりと統一性は感じられない。被害者は脱税している骨董商や万引きを繰り返していた男、結婚詐欺を繰り返した女などいわゆる悪役だった。


ため息をついている中、彼の事務椅子が床を滑りスティの真横に停止した。そのまま無骨な腕がスティの背後を通って手を伸ばし、数センチ単位で距離を詰めてくる。その手の行き先は彼女たちの後ろに控えるデスクだったようだ。紙の束をつかむその腕からほのかに香る洗剤に清潔感を感じながらも、近すぎないかと意味合いを含めた苦笑を浮かべれば何の疑問もなさそうな笑顔で返される。


(……たまに距離が近いんだよなぁ)


昔馴染みが大きな理由なのだろうと結論づけながら資料を見返した。そこには殺人鬼キャロルについて、写真と文字を用いた事実と推論の世界が広げられている。


「ねぇスティ」イラガフは彼女の背後から「犯人、誰だと思う?」


「警察がそんなの聞いていいの?」


「いろんな人の考えって大事じゃない?」


スティの真横、さほど汚れていないデスクに上体を預けて突っ伏す。そのままの体勢でスティを見上げ、小首を傾げるこの姿は一体何人の女を落としてきたのだろう。彼女は至極魅力的な幼馴染へ色眼鏡を使うことなく、ただ純に笑うと


「そうだねぇ。男の人かなぁとは思うけど……ほら、大柄の人も亡くなったじゃない」


「あぁ……バリーのことかな? あの男は意外だったよね。腕っ節が強いで有名だったのに。……ミセス・スティーブが葬式で笑ってたのもなかなか衝撃的だったけど」


第三の被害者にあたるバリーとは大酒飲みで家庭内暴力が酷かった男だ。元軍隊だという噂を裏付けるような町内一の腕力は無惨に妻へ矛先を向け、誰も止めに入れない剣幕だったという。


そんな彼が殺されたのは半年前だ。ゴミ捨て場にゴミ袋と共に捨てられ、裂かれた腹にはネズミが集っていたという。警察が到着する頃には第一発見者の吐瀉物が舗道近くに広がり、その真横には彼の血で刻まれた「Carol」の名。


その後挙げられた簡素な葬式でいつでも包帯や痣だらけだった妻が、棺に入った夫へ笑いながら酒をかけ酒瓶で殴ったことは有名な話である。


「『お前なんか殺されて当然だ、キャロルは私の神様だ!!』だっけ? ミセスの叫び、今でも胸が痛いよ」


「……ね。彼女からすれば、地獄から救ってくれた神様だからね」


その剣幕から最初は妻が殺したのか、あるいはキャロルは嘱託殺人鬼などと噂が立ったが、横柄で有名だったバリーのこと。彼に恨みを持つものはあまりにも多く、容疑者を立ててみれば候補者が乱立する始末だ。他の被害者に関しても同様で、恨みを買いすぎた結果この街の皆が容疑者として名が上がる。


一度最重要容疑者として警察で名が上がり、巷でも疑惑の目を向けられた男がいる。こんな閉鎖的な街のことだ。ひとたび噂が立てば様々なところからその男の容疑を裏付けるような証言と過去が捏造され飛び交うのは当然のこと。悪意の手紙がポスティングされ始めた頃、その男は包丁で自ら命を経った。


閉鎖的な街では、例えそれが可能性の枠であったとしても「異分子」と認識した者を徹底的に排除する。そう、それは顔に大きな痣を持つあの少年もーーと思考が仕事から私情に移りかけた時、人差し指が彼女の肩を軽く突いた。そちらを向けば赤髪のイラガフが姿勢を変えぬまま微笑んでいる。彼はどこか甘えるような、蕩けた声音で


「ねえスティ。この後暇?」


「この後?」質問の意図がわからないまま「うん、暇ではあるけど」



解答を得たイラガフの顔が嬉しさに染まる。わかりやすい反応をするなぁ、と浮かびかけた笑みを堪えている中、誘い文句が耳に届いた。


「じゃあ一杯行かない? 俺もキャロルで詰まって飲みたい気分だったんだ」


「そうだなぁ」


逡巡したが、答えは既に一つに決まっていた。椅子を回転させ彼に向き直ると、近すぎる距離に一瞬戸惑う。それでも人懐っこい笑みがおかしくてひとつ笑うと


「いいよ、行こう。ちょうど私も詰まってね、飲みたい気分だったんだ」



***



退勤の旨を同僚に伝え、冷やかしをかわしながらイラガフと共に職場を後にする。太陽はいつの間にか奥の方へ消えようとしていて、最後の抵抗と言わんばかりに空を赤く染めていた。


隣を歩きながらも会話の糸口が見つからずにしばらく口を開かないでいた時、先陣を切ったのはイラガフだった。彼は自分の肩ほどの身長であるスティを覗き込み


「そういえばフィズってさ」


ここにいない名前が突然登場したことに驚きながら相槌を打つと、彼の言葉が続いていく。


「スティのとこの事務作業辞めたって本当?」


「うん。フィズくん、手際よくて資料探しも上手だから辞めて欲しくなかったんだけどさ。所長が『体を壊したら元も子もない』って辞めさせちゃった」


だから今は新聞配達だけだよ。そう続けると、前を向き直した彼はふぅんと小さな相槌と共に


「でもフィズって今から行くパブでも働いてるでしょ? 夕方からそこで、そのまま新聞配達。で、最後に事務作業。……確かにいつ休んでるの? って感じだよね」


「そうなんだよね……数ヶ月やって一度も体調崩さなかったから、きっと平気だろうなぁ思ってたけど。やっぱしんどいよね……」


スティは後悔を織り交ぜたため息を一つこぼし


「あと、私的にはお昼ご飯作りすぎたときに余り物あげるのができなくなっちゃって……ちょっと困る」


自炊はできても一人前がうまくできない女でね、と苦笑する。イラガフや街の皆が知っての通り、彼女は生まれてこのかた対等に愛し合った他人が存在しない。そんな女が一人前がうまくできないなんて、よっぽどの大食いか見栄っ張りだと自嘲気味に笑う中、イラガフがふむとひとつ頷く。


「だったら俺にちょうだいよ。時間不規則でさ、お昼買いにいけないこともあるんだよね。それに警官が立ち寄れば防犯にもなるし」


突然の提案だったが、言い分は最もで確かに、と納得する。同時に馬鹿にする素振りも同情の視線も無かったことに笑いが吹き出してしまった。驚きで見開いた黒目を覗き込みながら、じゃあ頼んじゃおうかなと呟けばお願いしますと小さな声。どこか羽のようにふわつく彼の足元は指摘した方がいいのだろうか。


(そんなに幼馴染の手料理って楽しみなものかなぁ)


首を傾げたスティは次はこちらの番だと言わんばかりに辺りを見回して話題探しを始めた。


終いには鼻歌すら歌い出した威厳の欠片もない警察官は、そんなスティを見て目を細める。今まで以上に柔らかな声で彼女の名を呼ぶと、


「そういえば気になってたんだけど、質問してもいい?」


「うん? なに?」


「あのさ、スティとフィズってどこで知り合ったの?」


「フィズくん?」


「うん。随分前に、職場で会う前から知ってたって言っていたじゃない? 正直、スティとどこで関わりがあったか想像つかなくて」


実はずっと気になってたとひとつ苦笑した、彼の赤髪が夕焼けを受けて綺麗に光る。そのシルエットと件のフィズの姿が重なり、こちらもひとつ笑えば不思議そうに首を傾げられた。ごめんね、と笑いながら謝罪にもならない謝罪を呟き、息を吸って吐く。


「フィズくんとのことだよね。確かにちょっと不思議かも」


両頬に手を当てながら微笑む。笑ったせいで火照ったそこを手のひらで冷ましながら、スティは静かに言葉を選んで紡ぎ始めた。


「あれはいつだったかなーー」

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