Dのためなら

高戸優

Good Morning,Fizz.

電気と効率性に任せっきりの現代においても、古き良きを推奨する景観法が適応される。アルファベットを組み合わせた言葉が飛び交うこの街では、そんな時代遅れの建物が乱立していた。


煉瓦造りの古びた無数の箱に影響されてか、住む人も物も思考もやや時代遅れ。新品より中古品が良しとされ、少数派は排除される。巷では発売日に行列を作る画期的な携帯も、この街では認められなかった。効率性を中心にデザインされたパトカーはクラシカルで色の禿げた先代車に負けこの街に溶け込めない。ノーマライゼーションを掲げる思想家でさえ、この街では活動を諦める。


そんな歪で違和感が拭えない町の大通りを、コンクリートと煉瓦が入り混じった古びたアパートから見下げるのは、頼りない背を持つ少年だった。景観には相応しい上半身しか乗り出せない小さなベランダで、身を預けるには頼りない柵に手をかけ世界を見下げる。静かに吐き出したため息は、明け方から徐々に本領発揮し始めている輝かしい太陽を浴びてから霧散した。


そんな少年の格好は清潔感の漂う白シャツ、薄手の黒ズボンだった。その上から羽織るパーカーは彼の背丈に合っておらず、上半身を通り過ぎ太腿を覆い隠すほどの長さとなっている。体に合わないパーカーに沿った大きさのフードを被れば、きっと最も容易く彼と世界と分断することだろう。


今は露わにされている顔には、清潔感はあれど手入れが行き届いていない黒髪に枝毛がいくつか見受けられた。鼻先に届きそうな前髪は、フードで隠しきることのできない世界を遮断するかのように長く、そこから覗く双眼は黄緑と青という似て非なる色を宿している。


そんな二色の湖を囲うのは、絵の具の肌色より遥かに薄い色素の肌だった。顔と首の表面、他者から見て左座標に鎮座する痛々しい赤紫色を除いては。


治りかけの痣色のようでもあり、許容量以上の熱を浴びてしまった火傷跡のようでもある。そこだけは月のようにクレーターだらけで、形はインク染みに負けない歪さを語っていた。


見た目に気を使っていない、よりも他者へ与える不快感を最低限にという方が正しく感じる服装。言葉と行動、どちらでも触れてはいけないと本能的に悟らざるを得ないそれ。そう感じる所以は、現在フードを被った時に見せた小さな安堵で十分だった。その緩んだ表情が、日の下で生きた彼の十数年を物語っている。


少年はフードの頂点を右手で引っ張りながら、昼目前の賑やかな大通りへ視線を彷徨わせた。子連れの女性、足早に人の間をすり抜けるサラリーマン、呑気にセールを告知する本屋、配達に向かうピザ屋の店員。何処にでもありそうな、毎日流れるようなありふれた光景を数え切れないほど見送っていく。顔を動かすことなく、瞳も最小限の動きで。まるで、自分の存在を空気に伝わせないように。


そうして何度も見送り何にも動じないまま時計の針が一周しかけたそんな時、どんな光景にも興味を示さなかった少年の瞳がびくりと揺れる。石化していた体とは思えない速度で身を乗り出し、そのまま興味対象へ視線を釘付けたのだ。


それは何でもない通行姿としか答えられないような、何の変哲も無い人影ふたつだった。


人影のひとつは、長い茶髪を後ろに一本にまとめ、お洒落とはお世辞でも言い難いズボンにワイシャツ、サスペンダーという一昔前のような格好の女性。もうひとつは、整えられた赤髪にこの街の治安を守る警察の格好をした男性。その距離は仲睦まじく詰められており、傍目から見れば恋人と間違ってしまいそうなほどのそれだった。


見下げ続け、街中を歩いていく彼等を凝視しながら少年は恋人ではないはず、と口の中で言い聞かせる。ふたりの距離が近いだけ、そうだ、そんなことはわかっているはずだ、と。


だが想像力は加速する一方で体の芯が熱を持ち、発散箇所を見つけられず体内で暴れ出す。腹にたまった熱は胃液を沸騰させるようで逆流に吐き気を催した。口を手で塞げば熱が昇り脳内を蹂躙する。熱源と不快感を得た思考はそれをセーブするどころか普段以上に機能し悪化させていく。


飲み込まれてしまいそうなほどの感情はついに視聴覚を染め始め、目の前は黒く変色し耳は声を遮断し始める。このままだと何も見えなくなってしまうと冷や汗が額に浮かんだそんな時。




「フィズ」




突然背後から投げられた声は、少年のゼンマイを巻き直すきっかけにはなったようだ。甘く名を呼ばれた肩が反射的にびくりと揺れる。反応はあれど無言だったからだろう、背後の声は何度も少年の名前を呼び、耳に緩やかな吐息をかけながら細い腕を回してくる。


その声に、温度につられるように視界が色を取り戻した。黒は消え、元の鮮やかさと喧騒を連れて帰ってくる。ため息混じりに安心を零せば、どうしたのという不思議そうな声が耳元をくすぐった。


泡のように軽やかで飴のように甘い声だ。たったこれだけで幾人の男が嬉々として反応しそうな声の主人へ、呼ばれた少年がそっけなく返事をすれば


「本当、つれない」


欠伸混じりの呆れ声が傍を離れる。


振り返れば、少女が背を向けて歩き去る姿が目にとまった。裸足のまま床を踏みしめれば、細い彼女でさえ家鳴りを引き起こす。本当古いわねここ、とぼやきながらベッドへ倒れ込めば、より大きな音が彼女とベッドを受け止めた。


何度か寝返りを打った後、跳ね起きるように上体を起こした少女と目が合う。はっきりとした可愛らしい笑みを浮かべられ、挨拶と語彙機嫌取りに少年ーーフィズも僅かな笑みを返した。


「新聞配達、終わったの?」


「うん」


少女は単純な返事を返すフィズの顔に次いで時計をちらりと見ると


「……何時に終わった?」


「えっと……五時前には」


「今は?」


「十一時だね」


「なんで」頬を少し膨らませ「起こしてくれないの」


「だって、ラディリーぐっすり寝てたから……」


「今日こそおかえりって言うつもりだったのに」


「それは……ごめん」


嘆息を漏らした少女ーーラディリーは口紅が乗っていなくとも美しい赤の唇を揺らし


「まぁいいわ。……ねぇ、フィズ?」


おそらくこの街で一番人を惹きつける、得意な猫撫でと手招きをしながら


「こっち。来て」


フィズはそれに魅せられた訳でもなく、ただ端的に事務的に少女の元へ歩み寄っていく。


一歩、二歩と近づけば彼女の顔がはっきりと視界に映り込む。三歩、四歩と進むほど芸術品にひけを取らない事実が増していく。それほどまでに美しい、少女と女性の境目にいる存在だった。


日光を受けずとも美しさを損なわない長い金髪は溢れんばかりに波打ち、彼女の顔と体躯を可憐に彩っている。猫にも負けない釣り目は細まり、金の柔い格子の奥に潜むエメラルドの価値を艶やかに演出していた。


淡い笑みを結ぶ唇、フィズへ向かい立つ長い睫毛、人形すら嫉妬しそうな滑らかで日焼け知らずな白い肌。細く長い鎖骨が浮き出る体躯、肩から上では想像できないほど柔らかで豊満な胸元、女性らしい柔らかさを帯びた全身。それらを優しく包む白いネグリジェはレースが可愛らしさを、スリットが艶やかさを際立たせる。


だが彼女は寝起きなようで化粧は浮かんでおらず、髪も寝癖がところどころ跳ねている。そうだとしても、そんな偽りも見栄もない姿だけで芸術品となり得る女の小さな手に招かれるまま、フィズは戸惑いなく歩数を刻んだ。


ラディリーは彼が目の前に来ると、楽しそうに笑ってベッドを叩いた。柔らかな音が二回、ふたりの間で鳴る。


そこは二人で寝るには小さいベッド。ソファでいいと何度ごねても、無理やり引き込まれ続けた彼女の陣地。遠慮がちに腰を下ろせば両頬を小さい手が挟んでくる。そのままタイムリミットを告げるようにフィズの顔を引き寄せると、静かに二つの口を一つにした。


驚きで開いたフィズの目が、いくつかの攻撃を前に静かに色を蕩けさせていく。対してラディリーの目は爛々と覚めていき、彼の色を吸い取る様に何度も何度も重ね時には相手の陣地を犯していった。


艶やかな行為を何度か重ね、熱を帯びた息が三回漏れた頃。フィズの耳の後ろを、蛇が這う様に白い指がすり抜ける。


蕩けていたフィズの目がパチリと覚めたのは、その数瞬後のことだった。


横並びだった彼女の体をベッドに押し倒せば、腰まで届く金の絹糸が皺の寄ったシーツに撒かれる。口元に綺麗に整えたネイルの手を乗せ吐息を漏らす表情は、ない才能を振り絞ってでも描き残したいと思ってしまうほどの芸術品だった。


一度、二度などでは止まらず今度はフィズから止めどなくキスを落としいく。離れた隙に表情を伺い見れば、愛情の時間に溺れる芸術品の価値を知れた。


「……ラディリー」


彼女が望む場所、喜ぶ位置へ数え切れないほど口づけを落とす。漏れる甘い息を軽く吸い、源へ唇で触れ己の息と混ぜ溶かす。味わうように、味わせるように時間をかけて離せば嬌声が耳を彩る。


枕元へ転がっていたリモコンへ手を伸ばした。この甘い声を世間から隠すように、掴んだそれをテレビへ向け、画面も確認せず電源を入れた。


流れ始めたのは平日昼を伝えるニュース番組だ。地方局のチャンネルだったらしく、全国的な内容よりローカル性の高いもの。BGMに聞きながら、彼女の意向に沿うように浅く甘い行為を続けていれば、耳に届いたのは女性が読み上げるニュースだ。


『この地域を連日震撼させている、殺人鬼についてです』


刹那、フィズの口や手がピタリと動きを止める。甘味に溺れていたラディリーがすぐに異変に気付くほど、あっさりと。


『殺人鬼キャロル。詐欺師、強盗、脱税議員、と世間悪を働いていた人々が被害者となるこの事件。この殺人鬼は一体何者なのでしょう?』


止まったフィズに不満でも抱いたのだろう。彼女の小さな手が伸ばされ、彼の細く固い腕を引っ張った。バランスの崩れた彼の後頭部へ手を添えると、そのままの勢いでベッドの中に引きずり込む。リモコンが音を立て床へ滑り落ちた。


『一部では警察の手が届かない犯罪者を成敗する正義……という考えもあるようです』


拾い上げ、消す。そのふたつの行為が面倒なのか。ただそうしたかっただけなのか。彼女はそのまま恋人へ馬乗りになると、己が被っていた布を頭上まで引き寄せ、シーツを被り遊ぶ子どものように後ろ手で羽ばたかせる。


『それでも、殺人という行為は許されるものではありません。これらについてこれから徹底的に分析、議論していきたいと思います』


布を操りながらフィズの鼻先まで顔を近づけ、艶やかで子どもらしさも備えた笑顔を見せる。そのままの勢いで彼の痣が浮かぶ頬へキスをすると、布を頭から被って酸素の限られた白い世界へ誘った。


薄く脆いバリケードではテレビの音など筒抜けだった。それでも誤魔化すように掻き消すように、聞かないふりを貫くように甘ったるい行為は続いて行く。


そんな小さな白い世界を無視した太陽は動き続けた。空高く上がり、西へその発光体が沈む頃。小さな世界から抜け出した男女は指先を絡めながら職場へと足を運び、昼先に街中を歩いていた二人も仕事の息抜きに足を動かす。


そうして集まった小さなパブでの、ひとときの話。


これは殺人鬼キャロルに振り回される、四人の話だ。

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