代傷

 僕はその遺書を最後まで読み終えると、手帳を閉じて机上に置いた。


 放課後、誰もいない教室の窓側の席で遺書を読んでいた。何日か前に原崎から渡された母の唯一の遺品だった。僕の母である立花めぐみが、なぜ父に出会ったのか。そしてなぜテロを起こすまでに至ったのか。

 

 窓の外は雨が降っていた。朝から雨は止んでいない。降ってくる雨の雫が中庭に咲いているコアジサイにあたっては、地面に落ちていった。

 教室は薄暗く、誰もいないというのに何故だか重いものが感じられた。何かが僕の体の中に入り込んでべったりとついているような、長い間電車の中にいて出てくる酔いがひたすら回っている。

 

 最近、変な夢を見るようになった。深い深い海の底へ引きずり込まれる夢。僕は両足を引っ張られて身動きが取れない上に、息ができなくて苦しかった。両手を力づくで伸ばしても海の中だから誰も僕を見てはいない。だんだんと視界は黒くなっていき酸素を吸うことができない息苦しさで、意識を失いかけた時にいつも目が覚めるのだった。


 この悪夢ゆめはいつまで続くのだろうか。


 一年前の、あの冬の日からだ。あの時テレビに映っていた父の顔色も目も髪も余すことなく覚えている。それほどまでにあの体験は脳裏に焼き付いて、どうしても僕から離れようとしないからだ。


 静かに息を吐き、天井の蛍光灯に自分の右手をかざしてみる。昨日つけたばかりの傷たちがその赤に染まった線を見せた。それは今になって引っ掻いたような痛さが腕を走っている。


 この傷は、父の罪の代償になるのだろう?


 机の上に置いてあった筆箱からカッターナイフを取り出す。いつ見ても刃に光が反射して美しいと思った。


 今日も僕自身を傷付けてしまうのだろうか。少し抵抗をする自分がいて、まごついてしまった。二重人格みたいに、罰を与える自分とそれを引き止めようとするもう一人の自分がいると強く意識していたんだ。一体抵抗する方の自分はどこから来たのか。


「あ……」


そんな風に思い詰めていると、廊下で誰かが見ていることに気づいた。女子生徒が一人、こちらを見つめている。

 

 その少女に、僕は見覚えがあった。


 ちょうど一週間前、学校からの帰り道で小学生の女の子を助けたとき、ずっと僕たちの様子を近くで見ていた。女の子が母親と一緒に帰るところを見送った後、彼女は何故か立っていたところで泣き始めた。あまりに様子がおかしいと思い、今度はその少女に声を掛けたのだ。


「矢坂トオルっていいます」


 最後にそう告げた瞬間、彼女の表情は一変した。涙は止まり、怒りを感じる顔つきだった。

 気付いたか……。そう思って、僕は諦めかけていた。いつもこうだ。どんなに優しい行動を取っても名前のせいですぐに評価は削除される。どうして自分から進んで名を名乗ったのだろうかと、自分を責めていた。

 しかし、少女はそれにもかかわらず、その場から逃げようともせず、話を続けた。


「そうですか……。私、3組の月尾サチです。……同級生だったんですね」


 月尾という苗字が引っ掛かった。……確か同じ苗字の被害者がいたはずだ。それも親子で2人。


きっと僕のことを誰よりも憎んでいるに違いない。そう考えると、今のこの出会いは偶然じゃない、誰かに操作されてできたものだと思えてきた。


「そんなところで何してるの?」

「別に……。ちょっと考え事」


 意外にも彼女は普通の人間と認識しているみたいに話しかけてきた。教室のドアから顔を出す月尾の両頬は少し赤く色づいていた。


「そう。……じゃあ、そのカッターナイフは何?」


 僕が握っていたカッターナイフに彼女は人差し指を指していた。机の上にはさっきまで読んでいた母の遺書と、傷だらけの僕の右腕が横倒れていた。


 見逃して欲しい……。


 返答に困り、その欲が言葉として喉仏まででかかっていた。この状況を人に、しかも偶然被害者の子であるかもしれない月尾サチに見られてしまうとは考えもつかなかった。左手に持っていたカッターナイフを机の上に置く。カタリとモノがぶつかり合う音がして、無音な空間に振動が伝わった。


「まぁ、いいや」


  彼女はそう呟くと、こちらの方へ向かってきた。両手を後ろに回して、黒い艶のあるローファーが目立った。何の興味も湧かないと言った風な顔で僕を見ている。


「そんなに、見ないでよ……」


 僕の事がそんなに許せないのか。まぁ、当たり前か。彼女から視線を外し、右腕の傷に目をやった。昨日ここから流れ出た血の罪をまた意識し始めた。


 外の雨が激しくなってきたのか、雨音がさっきより大きく聞こえた気がした。真上で僕らを照らしている蛍光灯が1、2回ほど点滅し、月尾はその眩しい光を見上げている。


「親と会ったことは?」

「無いよ。……母親は僕を産んだ後にすぐ死んだし、……父親とも一度も会った事なんて無い」


正しくいうと、会いたくない。このまま独房の父と顔を合わせるつもりは、今の僕にはなかった。


「そう……。寂しくない?」


 僕の方に向き直って、少し首を傾げていた。……その顔は、微笑んでいる。


「昔から一人だったから、寂しさもよく分からないよ」


「私と一緒ね」


 彼女は隣の机の上に腰を乗せて言った。特に悪気はなさそうな様子で。……本当に月尾は孤独なのだろうか。実際に自分は孤独だと思う人はいくらでも居ると思うけど。


「そういえばさ、前に会った時女の子を助けてたけど……、あれはどうして助けたの?」

「あれは……ただの人助けだよ。……今の自分から逃避したいと思って、助けただけ」


 空白の時間が数秒過ぎていく。


「今の自分から逃避したいって、君は、その」


 途中まで言葉が出て、ハサミで切ったみたいにふつりと止まった。ただ、晴天のように澄んだ彼女の目が、僕を見つめている。

 自分でもどうして"逃避"なんて言葉が出てきたのか分からない。……人殺しの子供という立ち位置から逃げたいのだろうか。二重人格のもう一人の自分が、またそばを横切った気がする。そんなこと月尾に言っても、伝わるはずはないのに何故か訴えていた。


「そうだ」


 これを見せれば……。


 机の隅に置いてあった母の手帳を開き、一番最初のページを彼女に見せた。


「これ、僕の母親の遺書なんだって。……狂ってるの、わかる?」


 彼女の顔が一瞬で険しい表情に変わった。体重を預けていた机から体を離し、開いている手帳の目の前まで顔を近づけていく。


 月尾はやはり、被害者の遺族のようだ。苛立ちに満ちたその顔から察しがつく。


「これが、あの……」


彼女の怒りがその震える声で伝わっていた。僕は冷や汗が体に染み付いていくのを感じながらどうすることもできない。ただ右手で手帳を握っていた。


「貸して!」


 そう言うなり、すっと手帳を取られてしまった。口を開け、さっきまで手帳を支えていた右手を静止させたまま、彼女の俊敏な動きだけに目が動く。月尾は机の上のカッターナイフを手に持ったかと思うと、僕の目の前で最初のページを切りつけていった。手帳の表面に強く押しつけ、刃を引っ張っていく。ページが半分に千切れていくのがわかる。カッターナイフの刃はそのまま止まることなく、机の上を垂直に走り、勢い余って彼女の手から離れていった。


 鋭い刃を見せたそれは数秒宙に浮いて美しい放物線を描いた後、そばにあった教卓の側面にあたり、やがて床に落ちた。


 カタリと音が収まり、机の上に視点が向いた。さっきまで僕のものだった母の遺書に直線が引かれている。月尾もそれをじっと静かに見つめていた。「愛情」という言葉が真っ二つに割れている。ちょうど真ん中辺りに書かれている文字だった。


 何をしていいのか分からない。月尾も自分が傷付けたページだけをぼんやりと見ていた。誰も何も言わない教室の中の温度だけが、僕らを締め付けるように上がっていった。


「こんなもの、捨てちゃえば」


 か細い、でも芯のある声だった。月尾は決意を固めたように言い放った。

 何かが僕たちを追い立てている。そんな気がした。こんな狭い教室の中で睨まれ、誰かに監視されている。


「捨てて、どうなるの?」

「やれば分かるよ」


 彼女は軽く息を吸い込み、気を落ち着かせてまた遺書の前に立ち向かった。そして、最初の1ページ目からさっと目を通し始める。じっくり読むのではなく、さらさらと流れるようにめくっていく。すでに最初の数枚は2つに破れていたが気にすることはなかったようだ。


 最後まで行き着いた時、月尾は歯を食いしばった表情をした。また最初のページへ戻り、そこを右手で覆い尽くした。


「こんなもの……」


 一瞬で紙は手に吸い取られたようにしわくちゃになった。


 彼女は止まることなく次々とページを破いてはゴミみたいに丸めて床に落としていく。ずっと無言のまま、彼女の右手だけが必死だった。

 僕も自分でも驚くくらい眺めているだけで、 傍観者に似た気分だった。


 母の記憶が消えていく。


 気が付くと、僕たちの周りには薄汚い過去が散々していた。手帳の中身は全て引きちぎられて、薄っぺらな表紙だけが目に飛び込んできた。

 もう誰のものでもないそれに、温度は感じられなくなっている。


 押し黙っていた彼女は床に落ちていったページを眺めている。これで憎しみは消えたのだろうか。だとすれば……。


「やっぱり、君は憎めないよ」


月尾は、はにかんでいた。


「君はどうしてそんなにも優しいの?私がこんなにも酷いことをしても、自分のことを捨てて……、君はやっぱりカグアの子じゃない」


 満面の笑みと今にも溢れそうな涙が僕の目に映る。偽りのない眼差しを向けていた。


 



 僕は本当の自分を忘れていたのかもしれない。

 

 





 誰もいないと思っていたはずの海の悪夢で腕を掴まれた。目を閉じると、ふと、人の温もりを感じたようだった。それは僕が感じても良いものなのか、まだ分からなかったけど。


「ありがとう…」


 少しだけ、口角を上げた。


 完全下校の放送が鳴り、外の雨はすでに止んでいる。うっすらとした薄明光線が雲の間から漏れ出し、教室の僕たちを照らしていた。

  


                    (了)



 

 








 






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代傷 かなゾウ @Kanazo17

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