カグアノ祈リ ー邪悪の根源-

 を知った俺は、目の前の男が悪魔のように見えていた。 


 というのはある遺書の内容だ。一週間と少し前、このK市内で日本中と震撼させたあるテロ事件が起こった。目の前の男はそのテロ事件の首謀者で矢坂シュンという。矢坂はあるカルト教団の教祖で、遺書の書き手は矢坂を慕っていた一人の教徒。名前は立花めぐみ。俺は刑事としてこの時間に立ち向かおうとしていた。そしてついに昨日の朝、矢坂の両腕に手錠を掛けることができたのだ。

 

 昨日乗り込んだカルト教団の本部ビルは、異様な空間だったのを覚えている。2階にいた矢坂をすぐさま捕らえ、家宅捜索が続いた。矢坂は俺たちに発見された時、驚くこともなくうす笑いを浮かべていた。それはまるで仲のいい友人に会った時のような表情だった。


 それから俺は部下と共にビルの地下室に足を踏み入れた。先頭に立ち地下室の扉を開ける。そこで俺たちを待っていたのは、すでに息絶えた立花めぐみと、隣で泣き喚く赤子の姿だった。赤子はすぐに救急車を呼び搬送されたおかげで一命を食い止めた。


 すでに命を失った立花めぐみの死体からだにはうっすらと痣がいくつかあった。白装束の格好をした彼女は目を閉じ、横向きになって何かに祈りを捧げているようだった。


 そして今朝、立花めぐみの過去が判明した。彼女は5年前に市内のB高校に在学していた時、突如行方不明になっていたという。2年生の10月ごろから学校を欠席し、家にも帰っていなかったことが分かった。それからが警察に捜索願いを出していたそうだ。


 では何故立花めぐみはカルト教団の本部ビルの地下室で息絶えることになったのか。そこで登場するのが教祖の矢坂シュンと彼女の死体の横に置いてあった一冊の手帳。つまり彼女が死を目前にして書いた例の遺書である。手帳の中はページの端から端まで手書きの字で満たされている。

 

 もう一度手帳から視界を外し、向かいに座っている凶悪犯を見てみる。ここは取調室の中。灰色の壁と床が分厚い雲のように見え、空気が重苦しい。金属が擦れる音が部屋中に響く。矢坂が付けている手錠の鎖がわずかに揺れ、音を立てた。不自由になってしまったその両手は、窓から降り注ぐ日のに照らされて弱々しく光を帯びている。栄養が取れていないのか、身体は痩せていて顔色も青白い。肩まで伸びた黒髪には艶があり、髪の毛だけ丁寧に手入れされているのが分かる。


「どうして10人も殺した」


 俺は根本的な問題に入った。10人。この数は我が国の殺害事件において過去最大の死亡者数である。これから、重症を負った被害者たちも命を落としていくかもしれない。

 矢坂は目線をこちらに向け、ニヤリと笑った。


「10人しか、まだ殺せてない……」


  笑みの中から溢れた矢坂の台詞は俺の怒りを呼び起こした。俺は立ち上がり、矢坂をきっと睨みつけた。


 矢坂の返答はまだ頭の中を回って鳴り止まない。そのまま彼はまた口を滑らした。


「分かっているよ……、どんなことをしたかくらいは。でも、分かるでしょ?その手帳を書いた主がどれだけ孤独で、どれだけ僕から愛情を貰っていたか」


 矢坂は淡々と述べていく。確かにこの遺書を書いたのが本当に立花めぐみなのであれば、彼女にとってこの男はどれだけ心の支えになっていたことだろう。そして、彼女の他人に対する憎しみも肥大化していったはずだ。


 立ち上がった勢いで床に落ちてしまった手帳を拾う。屈んだ時、矢坂の目線を感じた。彼はずっと俺から目線を外していない。今度は笑っている顔ではなく、少し真面目な風だ。この取調室に連れてきてから今までで一番真剣な顔。


 お前はそんな表情もできるんだな。

 なら、本性もついでに見せてくれよ。


 そう心の中でぶつぶつ言っていると、部屋の中をノックする音がした。


 「失礼します」と声が聞こえ、後輩の若沢わかざわがドアから顔を覗かせた。水色のカッターシャツを着こなした彼は、日に焼けた素肌をシャツの袖から露出させている。


「お疲れ様です、土河つちかわ刑事。少しお話いいですか?監視は宮本と変わるので」


 若沢の後ろに宮本がいたことに気づく。小柄な宮本が中に入り、俺に一礼した。俺は彼と席を変わり、取調室を後にする。


***


廊下に出て、若沢と2人になる。彼は手に持っていたA4サイズの資料を俺に渡した。クリアファイルの中に入っているそれを取り出す。


「昨日の立花めぐみについてです。先程死体の薬毒物検査の結果が分かりました」


  若沢の話を聞きながらそこに印刷された文字を追っていく。


「カフェイン錠剤の大量摂取による中毒死と診断されました。薬物スクリーニング検査の結果によるとカフェインが検出され、薬物定量検査の結果では血中カフェイン濃度が致死量の290ミリグラム検出されています」


 立花めぐみの死骸の横に散乱していた大量の錠剤シートを思い出す。事実がこれなら、立花めぐみはあの錠剤シートに入っていたカフェインを口にしたことになる。

 

 ここで一つ思い当たるものがあった。


「なら、この錠剤は一体誰が……?」


俺は若沢に問うた。立花めぐみは約5年間消息が絶っている。だとすると彼女はあの本部ビルから一歩も外へ出ていないということになる。

 すると若沢は少し苦い顔をした。


「実は、矢坂シュンについて一つ発覚したことがありまして……」


そこで彼は一旦息を整え、続きを言い始めた。


「矢坂は2年前、精神疾患を患っていると病院で診断され、それからつい最近までカフェイン錠剤を定期的に処方されていました。そのカフェイン錠剤が立花めぐみの死体の横にあった錠剤シートのものと一致したんです。……これをもとに推測すると、矢坂は最近処方された錠剤を彼女に与えていたことになります」 


 彼は追われているかのように早口で事実を述べていった。矢坂の持っていたカフェインを、立花めぐみは致死量に達するまで飲んで自殺を図った。

 それが本当なら、あいつは立花の自殺を手助けしたことになる。


 自殺幇助……?


 どうして矢坂は彼女を死へと導いたのだろう。彼女の遺書では矢坂は一度彼女を孤独の世界から救い出していた。

 しかし、今度は自分が救って生かした命を自らの手で引き裂いている。矢坂は一体何がしたいというのだろうか。

 

 取調室のドアを見る。このドアの向こうにあいつはいる。廊下を覆う冷たい空気が緊張を引き立て、手が震えてきた。刑事として真実を突き止めなければ。頭の中でそう自分に言い聞かせる。


 照明の光が反射している銀色のドアノブをゆっくり開け、再び矢坂と目が合った。


 物語の延長線を知っている彼は、何故か乾いた笑みを浮かべていた。

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