夕焼ケノ中ニ佇ム者 ーサチの帰り道-
5月。高校生になって1ヶ月が経つ。日も長くなって、今はもう夕方の6時だというのにまだ太陽は沈んでいない。
そんな中、私は学校からの帰り道を歩いてた。今住んでいるマンションは学校からだいたい10分くらい。周りは住宅街で人気がなく、夕焼けに当たってできた影たちがみんな細長く伸びていた。そんな当たり前のものを眺めながら、私は4月の入学式で聞いた「ヤサカトオル」という名前を少し思い出していた。
その名前を思い出す度に体が麻痺するような感情に悩まされていた。でも、一番悩まされたのはそのことを誰にも伝えられない事だった。悩んでいる事なら、すぐにお母さんにでも伝えるけど、このことは別。もうこれ以上お母さんを悲しませたくないって自分から言い聞かせているからだと思う。
そんなことを思い出しながら歩道を歩いているとどこからともなく子供のすすり泣く声が聞こえてきた。女の子の声だ。どこから聞こえるんだろう。声のする方へ足を進めてみる。ちょうど二階建ての一軒家の角を曲がり、左手にある小さな公園を横切ったところで私の足は止まった。
ほんの20メートルくらい先に、赤いランドセルを背負った女の子が目に両手を当てて泣いている。近くには少し錆びた歩行者用の信号機と、人がいるのだろうポツポツと明かりのついた住宅が静かに立っているだけだった。
その子は胸元まで伸びた黒い髪を二つに束ねていた。黄色い学生帽を頭に被せ、白い長袖のブラウスに紺色のプリーツスカートを着こなしている。
その姿は、どこかで見たことのある女の子だった。女の子は泣いているのに、何かが懐かしいような、引っかかる感触がした。
声をかければこの正体が分かるかもしれない。そう思い、私はその子に近づいていった。すると、
「どうしたの?」
女の子の立っている向こう側から私の同じ年くらいの男の子が横断歩道を渡って女の子のそばにやってきた。
私は見つからないようにすぐ横にあった民家の軒先に身を隠した。
民家の塀から両手と顔だけを出して2人の様子を確認する。その少年は私の学校と同じ制服を着ていた。黒い髪が夕焼けの光に反射して美しい。
「大丈夫?……どこか痛いの?」
少年はしゃがんで女の子に目線を合わせた。女の子は目に手を当てたまま、首を振った。必死で息を吸い上げ、言葉にしようとしてる。
「お、お母さん、と……」
小さいその子の背中を右手で優しく摩っている。
「うん……」
「はぐれちゃって……」
彼は2、3度頷くと少し微笑んだ。
その顔はまるで嬉しさからくる笑顔と少し悲しい時の顔とが、混ざっているみたいな、少し口角は上がっているけど、目はどこか飢えている様子だ。
一言で言い表すと何かに縋っているようだった。
「そうだったんだね……。でも、もう大丈夫だよ。お兄さんがお母さんのところまで連れて行ってあげるから」
女の子の背中から右手を放し、そう告げた。あの表情はひとつも崩さずに。
すると彼は学生鞄のチャックを開け、手を突っ込んで何かを探し始めた。
「お兄さん、いいもの持ってるの。ちょっと見せてあげる」
彼はそう言いながらそのいいものを探り当てたようで、鞄から出てきた右手には何か四角い直方体ものが乗ってあった。それは全面が紅色でできていた。側面は空洞になっていて、その反対側には透明なガラス瓶が付いてある。
少年はその箱を軽く上下に振り、空洞になっている方を女の子に差し出した。
「箱の中、覗いてごらん」
女の子は頷き、細長い箱の中をそっと目を近づけて覗いた。
「わぁ」
次の瞬間にはもう悲しんでいるあの子の表情は見つからなかった。
「お兄ちゃん、ビーズがキラキラ光ってる!」
女の子は目を輝かせながら少年を見つめた。彼も微笑している。女の子の頬に流れていた涙が夕日の光に反射して光っていた。
あぁ、万華鏡か。女の子にはきっと、箱の中にある鏡が反射した鏡像が見えたのだろう。ガラス瓶を振ったのは、中に入っているビーズが水中を移動して模様ができるようにしたかったからだ。ビーズが水中に浮いて美しい世界が見えたのだろうか、女の子がはしゃいでいる様子が見て分かる。
「あ……」
その女の子の笑顔を見た時、やっとこの引っかかる感触が何なのかが分かった。
あの子は私のお姉ちゃんだ。
顔も、着ている服、髪型も、顔のホクロの位置までも全てが私の見たことのあるお姉ちゃんの写真そのものだった。矢坂シュンという凶悪犯を思い詰めるあまり、僻んだ感情が私にとって愛おしい家族の存在をかき消していたように思えてくる。ずっと一人で見ていたという孤独感が私を襲ってきていた。
「あっ、お母さん!」
女の子は私のいた方向を見るなり、すぐさまこちらに向かってきた。向かい風が女の子の前髪を揺らしている。急に現実から引き戻されて慌てふためいていると、後方から名前も知らない女性が走ってきた。
「さくら、どこに行っていたの?心配していたんだから……」
「お母さん」と呼ばれた女性は女の子を強く抱きしめ、頭を何度もさすった。女の子は目に涙を浮かべている。
当たり前の親子の一面。
その姿に見惚れている私がいた。
私もあんな風にお母さんに甘えることができたなら……。
「お母さん。あのね、あのお兄ちゃんがこれ見せてくれたの!」
しばらくして、女の子はずっと右手に持っていた万華鏡を母親に見せた。母親は驚き前方を見つめる。
少年はまた寂しげな表情で二人を見守っていた。
何度も頭を下げて「ありがとうございます」と言う母親。少年は何も言わずにその場に立ちすくんでいた。夕日はもうすでに沈み掛け、薄紫色に染まった空が私たちを包み込んでいた。
「お兄ちゃん、これありがとう」
女の子は万華鏡を少年に手渡した。こちらこそと言って右手で女の子の頭の上を撫でている。しばらくして女の子は母親のもとに戻り、手を振りながら帰っていった。バイバイと後ろを振り返りながら言っている女の子の姿を見て、私の中で何か切ない思いが込み上げてきていた。
「どうかされました?」
声に驚いて我に帰る。気が付くと先程女の子に万華鏡を見せていたあの少年が目の前にいた。
彼は私が涙を流していたところを見ていたらしく、少し心配しているようだった。
この人はきっと優しい人だ。
ちょっとは他人に身を委ねてもいいんじゃないか。
そんな考えが私の孤独を救ってくれるような気がしていた。
手の甲に残っている涙を見ながら、少し息を整える。大丈夫、きっと今の自分なら。
「さっきのあの子、私の姉に少し似ているなと思って……」
彼は驚いた様子で、ずっと私を見ていた。まあ、そう言う反応になるとは分かっていた。ちゃんと説明しないと。
「すみません。変な話しちゃって‥‥。私の姉は小学校の時に不幸にあっていて‥‥。家に置いてある写真とあまりにそっくりだったから」
言葉に出すと、さらに悲しみが私を襲ってきた。目の前の少年が途端に見えなくなる。
「そうだったんですね……。僕でよければ、お話しを聞かせてください。僕、1年1組の」
彼は一旦間を作って、もう一度新しい息を吸い込みながら告げた。
「矢坂トオルっていいます」
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